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「……どうして?……」
あまりに足取りが不安定だったのでしょう。
抱き上げようとしてくれた護衛騎士に断って、メイドの肩を借りて王宮の廊下を歩きながら私は呟きます。
「……どうして私は殿下が好きなの? どうして好きでい続けているの?……」
この気持ちがなかったら、きっともっと楽になれるに違いありません。
政略的な結婚だと割り切って、オースティン殿下のお気持ちがどこにあるかなんて考えずにいられます。跡取りが生まれた後ならば、恩赦を出してブリガンテ様の謹慎を解き、愛妾に迎えるよう提言することもできるでしょう。
……莫迦ですね。ブリガンテ様を愛妾に迎えるだなんて、少しでもオースティン殿下に気に入られたいと思っているのが明白です。
ときおりそっとハンカチで涙を拭ってくれながらも、メイド達は私の独り言を聞かない振りをしてくれています。
ハンカチ……私が刺繍して殿下に贈ったハンカチは、一度も使ってくださっているところを見たことがありません。
ブリガンテ様に渡された制服のリボンは誇らしげに腕に巻いていらしたのに。
「パトリシア様」
どこか聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには美しい悪魔がいました。
私は闇に落ちるだけ落ちて地獄に到着していたのでしょうか。
メイドや護衛騎士達を巻き込んでしまったのなら申し訳ないことです。目の前の悪魔に彼女達は生者の世界へ戻してくれるようお願いしなくては。
目の前の悪魔……なんと美しい悪魔なのでしょう。
濡れたように艶やかな黒髪は波打って、端正な顔の輪郭を彩っています。
長いまつ毛が影を落とす潤んだような琥珀の瞳が私を映しています。
薄い唇が開き、低く甘く掠れた声が──
「大丈夫ですか、パトリシア様」
知っている声です。
……え? 知っている声なのに思い出せません。この悪魔は……いいえ、この殿方はどなたなのでしょう。
彼は護衛騎士に微笑みました。
「こんなに体調の悪そうな彼女を歩かせていることで君を責める気はありません。彼女は未来の王妃、騎士である君が迂闊に抱き上げたりしたら不敬罪に問われるかもしれませんからね。だから彼女は遠慮したのでしょう。ですが……隣国ヴァレンティの王子である私なら別です」
そして、軽々と私を抱き上げます。
彼の言葉で、ようやくどなたなのかわかりました。
「グレアム様……ですか?」
「はい。……どうかなさいましたか?」
「あの……いつもと……」
魔導学園で、ブリガンテ様を追いかけるのに夢中で業務を放棄していたオースティン殿下を始めとする生徒会役員に代わって、私と一緒に生徒会を運営してくれていた隣国ヴァレンティの第二王子グレアム様は、こんな方ではありませんでした。
「眼鏡を外して髪を降ろしていらっしゃるのですね」
ただそれだけなのに、どうしてこんなに美しく見えるのでしょう。
王宮の廊下を歩きながら、グレアム様が頷きます。
「そうです。私は『魅了』の魔導持ちなので、封印魔導を施した眼鏡をずっとかけていたのですよ。こちらの魔導学園に留学して制御を身に着けたので、やっと外せるようになりました。髪は……こんなふわふわの巻き毛が恥ずかしくて、いつも油で撫でつけていたんです。こうしていると子どもっぽいでしょう?」
「いいえ!……いいえ、とてもお似合いです」
なぜか大声で叫ぶようにして答えてしまいました。
大公令嬢のすることではありませんね。……恥ずかしいです。
グレアム様はそのまま私を部屋まで運んでくださいました。どちらかといえば学業に特化した方という印象だったのですが、彼の腕は太く逞しく、だれかに抱かれて運ばれるのがこんなに心地良いだなんて初めて知りました。幼いころお父様に運ばれるときは双子の弟と一組で、子豚を運ぶときのように両肩に乗せられていましたし。あ、いえ、それはそれで楽しかったのですけれどね。