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──いいえ、私がいなくてもオースティン殿下と男爵令嬢のブリガンテ様が結ばれることはできません。
男爵令嬢という身分では王妃にはなれませんし、そもそも彼女は父君がわからないのです。
彼女の母親は恋人の名前を秘めたまま亡くなりました。
片親であることが問題なのではありません。
わからないことが問題なのです。いつだれがブリガンテ様の父だと名乗り出るかわからないのですから。もしかしたら、大陸全土に名前を知られた犯罪者かもしれません。
これは国家の名誉と安全保障にかかわる問題なのです。
逆に言えば、父君さえわかれば良いのかもしれません。
このサンナ王国、いいえ、隣国ヴァレンティ王国、いえいえ、この大陸すべてにおいて身分の上下は魔導力の強さと密接に結びついています。
強い魔導力を持っていなければ、魔獣を従えて大地を肥やし、食料や鉱物を得ることができませんもの。
ブリガンテ様には強い魔導力があります。
身分ならこれから与えればいいのです。
どこかの高位貴族の家で養女にさせても良いでしょう。実際、オースティン殿下はそんな計画を立てていらしたようです。ひとりっ子の殿下が王位継承権を返上して市井に下ることはできませんからね。
「パトリシア、このケーキは美味しいね。君が焼いてくれたのかな?」
再構築のために話しかけてくださるオースティン殿下の青い瞳には、虚ろな目をして思索に耽る私の姿があります。
考え事をしていないと思い出してしまうのです。
殿下が魔導学園の中庭でブリガンテ様の焼いたケーキを蕩けそうな笑顔で召し上がっていらした姿を、私を愛称で呼ぶことのない殿下が彼女のことは『僕のブーリ』と呼んでいた甘く艶めいた声を。
「……はい。お褒めいただき光栄です」
私は、必死で言葉を絞り出しました。
理由はどうあれ、オースティン殿下は再構築に向けて行動してくださっています。
それは私自身が望んだことでもあります。殿下の婚約者に戻り、彼に愛されたいのです。そう思った瞬間、私の心に疑問が沸き上がりました。
……婚約者に戻ったからといって、オースティン殿下に愛されるのでしょうか?
幼いころに婚約してからずっと、殿下をお慕いしてきました。
厳しい王妃教育をこなし、必死に作り出した時間で彼のためにケーキを焼いてハンカチに刺繍をし、美容に気を配って精いっぱいのお洒落をしてきました。
殿下が体調を崩されたときはだれよりも早く気づき、及ばずながら公務をお手伝いしてきたつもりです。でも……愛されなかったではないですか。
王妃教育などせず、早くに娘を失った反動で孫を溺愛していた男爵に甘やかされて自由に育ち、殿下や取り巻きに捧げられた高級店の菓子を食べてアクセサリーを纏い、たまに作ったケーキが黒焦げでも笑顔で食べてもらっていたのがブリガンテ様です。
私が執務室に籠もって公務に励んでいたとき、殿下の寝室で看病と称してイチャついていた彼女のほうが愛されていたではないですか。……たとえ『魅了』がきっかけだったとしても、それをどう判断するのかは本人達です。
「パトリシア? 大丈夫かい、パトリシア。体調が悪いようだね。今日はゆっくり休むといい。大丈夫。時間はいくらでもあるからね」
オースティン殿下は給仕をしていたメイドと近くにいた護衛騎士に、私を王宮に与えられた部屋まで送り届けるようお命じになりました。
……ねえ、殿下。ブリガンテ様が体調を崩されたら、ご自身が支えて送り届けて差し上げるのではないのですか?
そんな言葉が頭に浮かんで、私は唇を開いてしまいました。漏れた溜息と共に、涙が頬を滴り落ちます。
ああ、嫌! こんな風に心の中でオースティン殿下に噛みつき続ける自分が嫌です。
どんなに考えまいとしてもブリガンテ様のことを思って嫉妬に狂う自分が嫌です。
足元にはいつも地獄へ続く闇があります。いいえ、私はもう闇に落ちているのです。どうしたって這い上がることができないのです。