俺は後悔はない、なんて言えない。でも、俺は自分でこの道を選んだんだ
ジャンプで連載中の『思春期ルネサンス! ダビデ君』は二作品同時連載としてスタートしました。
巻頭は『ジモトがジャパン』に譲る形となりましたが、自分はどちらかというとこちらのほうが楽しみ。
ある意味では『磯辺磯兵衛物語』の後継とも言えるシリーズであり、浮世絵ではなくルネサンス美術をテーマとしています。
モナ・リザ、ヴィーナスの誕生、真実の口といったデザインだけでキャラが立つので、そのぶん見せ方にリソースを割くこともできます。
なるほど。巧い。
今後出して欲しいキャラクターは、サモケトラのニケです。
「おう」
と、伊東さんが姿を現したのは、夏休みに入ったばかりの翌週の日曜日、午後七時のことだった。
「一週間ぶりだな」
待ち合わせをしていたのは、僕たちの家の最寄駅からほど近い喫茶店だった。僕たちのほうから伺うと言ったのだが、伊東さんが気を使って近くの駅まで来てくれた格好になる。
筑波にはあまり喫茶店がないので、実は入るのに緊張していたがほとんど人が入っておらず拍子抜けしてしまった。
「わざわざこっちの近くまで来てもらってすみません」
僕は頭を下げたが、エヴァは
「七夕さんは?」
と不躾に言った。
「済まないな。七夕は急に仕事が入ったみたいで、今日は来られなくなった」
「そうですか……日曜日もお仕事なんて、大変ですね」
エヴァは少しだけ残念そうな様子を見せたが、
「でも、これで奥様の前では言えない忌憚のない話も聞けますね!」
「なあ、おい。勇人」
呆れた様子で、伊東さんは僕のほうへ話を振った。
「この子は、あまりにもポジティブ過ぎないか?」
「あはは。どうやら、エヴァはネガティブって感情を親の腹に忘れてきちゃったみたいで」
「元からそういう奴なんだな。記者には向いているかもな」
「そんなに褒めてくれても何も出せないですよ?」
「褒めていないよ」
ため息をついて、伊東さんは椅子に腰を下ろした。
「記者には向いているってそうなんですか?」
「ま、所属や部署次第ではあるけどな。俺はフリーランスの犯罪ライターだから、どうしてもアポなしの突撃取材が多くて、畢竟、断られることも多い。いちいち気にしているような奴はすぐに心が折れていなくなる」
「なるほど。大変な仕事をしてらっしゃるのですね」
「褒めても何も出ないぜ」
伊東さんはウェイターを呼んで、コーヒーを注文した。
「ま、この仕事をするのも残りわずかなんだがな」
「転職なさるのですか?」
「転職……まあ、転職だな。今請け負っている仕事が全部終わったら、恐らく今年中には転職する予定だよ」
「転職ですか。素晴らしいことですね」
たぶん、エヴァはおもねろうとして言ったのだと思うが、微妙に噛み合っていない。
「なんの仕事をなさるんですか?」
「俺とエヴァが結婚するに至った理由もそこに関連しているんだ」
「おっ」
エヴァは両手を打ち合わせて喜びを示した。
「早速ですか! 待っていました!」
「その感じやめてくれよ」
ブラックのままコーヒーカップを傾けて伊東さんは言った。
「俺の話に興味があるみたいな言い方をされると言いたくなくなるんだ」
「天の邪鬼過ぎませんか……?」
「色々あるんだよ、大人にはな」
はあ、と伊東さんはため息をついて、
「俺、婿入りなんだよ」
と言った。
「七夕の両親はちょっとした会社を経営していてな。七夕はそこの一人娘だ」
苦々しい表情で、伊東さんは言った。
「俺はそこの会社に入るという条件で、無辜に入るようになったというわけだ」
「ゆくゆくは経営者になるんですか?」
「さあな」
伊東さんは肩をすくめた。
「七夕の両親はそう考えているみたいだが、はっきり言って俺は今までそんな勉強をしたことがないからな。できるのかはわからない」
「でも、それはそれで玉の輿じゃないんですか?」
アンニュイな雰囲気を漂わせる伊東さんに対しても、エヴァは容赦がない。
「会社と言っても大した規模じゃないからな。むしろ、七夕は気苦労のほうが多いとは思う。ただし、まとまった財産もあるし、はたから見れば玉の輿だからな。他人には悩みを吐露することもできないよ」
「悩みがあるんですか?」
エヴァにそう問いかけられて、伊東さんはしまったというような表情をした。
「悩み、というほど大したものじゃない。ただ、今の仕事でもっと結果を出したかった、という思いはある」
「今の、つまり犯罪ライターとしてのお仕事ですね?」
「ああ」
伊東さんは目を伏せた。
「俺は、結局、犯罪ライターとして名前を残すことができなかった。ライターとしての俺は、珍しくもない、ただの記者の一人として幕を引くことになった。それは、心残り、かな」
独り言のようにぽつりぽつりと伊東さんは言った。
「考えてみると」
と伊東さん。
「俺は、誰かにこのことを伝えたかったのかもしれないな」
「新しいお仕事は、全く別の業界なんですか?」
「ん? ああ。七夕のご両親がやっているのは反物関係だよ。七夕がいつも和服姿なのも、それに影響を受けているみたいだ。一番は、七夕自身が好きでやっているわけだけど」
「なるほど」
満足げに、エヴァは頷いた。どうやら、伊東さんから得られた情報がお気に召したらしい。
「夢を捨ててまで、結婚なさったというわけですね」
「ふん」
エヴァの表現が気に入らなかったのか、伊東さんは鼻を鳴らして、それからウェイターを呼び止めてコーヒーのおかわりを頼んだ。
「夢というほど大したものじゃないが……まあ、俺にとっては、それなりに大きな決断だったな」
「何が、伊東さんに結婚を決断させたのですか?」
「そりゃ、愛だろ」
恥ずかしがる様子もなく、あっさりとした様子で伊東さんは言い切った。
「俺は、七夕を愛しているから、結婚した。結局、俺は仕事よりも七夕をとったということになる。より正確に言うのならば、七夕を幸福にしたい。七夕となら幸せになれる。そう思ったんだ」
「後悔は、ないんですね」
「そりゃ、お前」
すっと伊東さんは目を細めた。
「後悔はない。なんて言ったら嘘になるだろ。みんな、どんな小さなことにしろ大きなことにしろ、いつも取捨選択をしながら生きてる。だから、俺は後悔はない、なんて言えない。でも、俺は自分でこの道を選んだんだ」
「……なんというか、カッコイイですね。伊東さん」
それまで黙っていた僕が、ここでようやく口を開いた。
「格好よくはないぞ。大人なんてなんも格好よくない」
深々と、伊東さんはため息をついた。
「俺から若者に何か言えることがあるとしたら、それは、結局、自分で選ぶのが大事なんだよ」
「自分で選ぶこと、ですか?」
思わず、僕も会話に混ざっていた。
「そうだ。自分自身で選ぶ事が大事なんだ」
「選ばなかったら? 選ばなかったらどうなるんですか」
「同じ事だ。『選ばない』という選択をしたことになる」
例えばさ、と伊東さんは言った。
「人生は常に決断を迫られる。選ぶ選ばないに関係なく、時間は経過する。歳をとる。だったら、自分で決断をしたほうが後悔しない。俺はそう考えている」
「そういうことですか」
そう答えはしたものの、実のところ、本当のところでは納得はできないでいた。
「ま、俺だって、十代の頃は大人の言葉なんてピンと来なかったし、二十代の今だって三十代四十代の連中の言葉なんてよくわかってない。本当の意味がわかる時はもう遅いのかもな」
ぶぶ、とバイブ音がして伊東さんはスマートホンを取り上げた。
「あ? 七夕? どうした?」
電話の相手は七夕さんらしい。
「うん。今、エヴァちゃんと勇人といる。ん。わかった。すぐ戻る」
「どうしました?」
「すまない。ちょっと七夕が呼んでる。行かなきゃいけなくなった」
「わかりました。わざわざご足労ありがとうございました」
僕とエヴァは頭を下げた。
「大したことは言えなかったけど、多少は役に立てたか?」
「いいアドバイスを頂けました。ありがとうございました」
エヴァの今度の台詞はお世辞ではなく、本音のような気がする。
「ここの料金は僕が持ちますので」
「良いよ、このくらいは俺が出す」
「僕たちのほうがお願いしたのに」
「大人だからな。このくらいはさせろ」
伊東さんは伝票を手にして立ち去って行った。
「エヴァ」
「なに? ユート」
「役に立ったか?」
「ええ」
エヴァは冷めてしまった紅茶を飲み干して微笑んだ。
「大変、興味深いデータがとれたわ」
「良かった。僕も手間をかけた甲斐があった」
「帰ろうか、ユート」
緊張していたためか、首をひねるとごきっと音が鳴った。
「ユート、食べたいものはあるかしら?」
「え?」
「今、私が機嫌がいいのよ、ユート。好きなものを作ってあげる」




