ロボット三原則
ばっと身体を起こす。
頭が痛い。
何か、違和感を覚えてスマートフォンを開く。
午後一時だった。
朝帰ってきたのが明け方だったから、七時間ほど寝ていたことになるか。
身体を起こすと、急激な空腹を感じた。
「おかしいな……」
昨夜、いやというほど唐揚げを食べたはずなのに、こんなに腹が減っているのはなぜだ?
身体を起こすと、変に身体がぎしぎしときしんだ。まるで、随分長い間ベッドで眠っていたみたいに。
「エヴァ? どこだ?」
周囲を見回すがとエヴァの姿がないことに気づいた。
エヴァも一人の人格であるからどこにいようと自由なのだが、珍しいな、と思った。声をかけても届かないところにいることは珍しい。まして、命の危険を感じている今、姿が見えないとは。
何か、不足の事態があったのだろうか。
「エヴァ?」
ふと気になって、スマートフォンを開いて、愕然とした。
日付が、思っていた日付より一日進んでいた。
僕が眠っていたのは七時間ではなかった。僕は三十一時間眠っていたのだ……!
「待てよ。そんなわけないだろ?」
目をこすって、何度見ても、日付は一日の経過を示していた。僕はあの時眠ったまま、丸一日以上を眠り続けていたのだ。
どうしてそんなことに?
おかしい。いくら僕が疲労困憊していたとしても、三十時間以上も眠り続けているはずがない。よしんばそんなことがあったとしても、エヴァが適当に起こすだろう。
いや。
僕の中に、すっと真相が浮き上がってきた。
睡眠薬。
僕に睡眠薬を盛れば、僕を簡単に長時間眠らせることができる。
まだ寝ぼけていた脳髄が音を立てて回転を始めた。
誰が僕に、薬を盛ることができたというのだ?
思わず、首元に手をやった。
繋がっている。
繋がっている。脈もある。当然のことだが、ほっと胸を撫で下ろした。だが、僕に薬を盛って眠らせていた。つまり、いつでも殺せたということだ。
薬を盛ることができたならば毒を盛ることもできた道理だし、刺し殺すことも縊り殺すことも簡単なはずだ。
どうして僕は生きているんだ?
冷泉ルナは殺されたというのに?
問題は、誰が僕に睡眠薬を盛ったのか。
簡単だ。
僕に睡眠薬を盛れるのなんて、1人しかいない。
エヴァが僕に睡眠薬を盛ったに決まっている。
手の震えを無理におさえて、コーヒーを淹れブラックのまま飲み下したが、胸のざわつきは一向に止まらなかった。
エヴァはなんのために僕に薬を盛ったのか?
その疑問の答えに気づいた瞬間、言葉にするより先に家を飛び出していた。
エヴァはなんのために僕の薬を盛ったのか?
今までのエヴァの行動を読み解けばわかる。
僕は街を走り抜ける。
夏の午後の日差しが僕の肌を焼いた。たちまち、水を浴びたように汗だくになった。身体が熱を持って、ずっしりと重い。汗を吹き出す身体に鞭打って、走り続けた。
考え出せば簡単なことだった。
昨夜の、『from heaven』のメッセージカードの送り主も自然とわかる。
火を吹きそうなほど熱い身体とは逆に、脳が急激にクリアになっていくのが感じられた。
昨夜メッセージカードを送ったのも、僕に睡眠薬を盛ったのもエヴァだ。そう考えれば腑に落ちる。
メッセージカードが僕の家にあったにも関わらずどこにも侵入した形跡がないのも当たり前だ。エヴァならば好きなタイミングで僕の家にメッセージカードを置くことができる。メッセージカード自体の入手に関しても、彼女は捜査資料の写真からカードを複製することぐらいわけはない。
そして、何より僕に薬を盛ることも簡単だ。ココアに睡眠薬を盛ることは赤子の手を捻るよりも簡単なことだ。
そして、彼女がそんなことをした目的は何か。
メッセージカードを送るのと、睡眠薬を盛ること。
この二つの行動には共通した目的がある。
つまり、僕を事件から遠ざけようとしている。エヴァが僕に睡眠薬を盛ったのは悪意あってのものではない。僕を事件から隔離し、安全を確保しようとしているのだ。
睡眠薬を盛るタイミングを逸したとしても、メッセージカードを介して事件から遠ざけることができる。どちらかでも通れば、僕を事件から隔離することができるという計算になる。
間抜けなことに、僕は両方に引っかかってしまったわけだが。
とすると、エヴァはどこに行ったのだ?
僕のそばにいないということは、エヴァ自身が『エヴァから離れたほうが仮倉勇人は安全である』という判断を下したということになる。
エヴァが離れたほうが僕の身の安全を確保出来る……というのはどういう状況か?
決まっている。
『エヴァ自身が狙われていると確定している』もしくは『エヴァは犯人を特定したため、独力で解決しようとしている』のどちらか、ということになる。
どちらにせよ、エヴァは犯人と独りで対決しようとしている。
僕に対して、エヴァが『犯人と独りで対決する』と言い出したら、僕は間違いなく反対する。最大限譲歩したとしても、僕がエヴァと同行する形で手を打とうとするだろう。
エヴァにとっては、それでは困るのだ。
ロボット三原則。
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
エヴァは、これを忠実に実行したのだ。
犯人と対峙するにあたって、僕を同行させるわけにはいかない。何故ならば、それは危険を看過して人間に危害を及ぼすことにあたり、ロボット三原則に抵触する。
ならば、どうするか?
そのアンサーとして、僕を眠らせて、犯人と対峙する。
エヴァはそう考えた。
そこまでの推理は正しいと仮定して、エヴァはどこへ行ったというのか?
相手に地の利がある場所に飛び込む愚を犯すとも思えない。逆に、犯人サイドとしては、カフェのような一目がある場所でエヴァと会うことはしないだろう。
エヴァの知能ならば適当な場所を検索するのは簡単だろうが、しかし、彼女の今までの傾向から考えれば、一度も行ったことがない場所をセッティングする可能性も低い。何故ならば、初めての場所では周囲に処理する情報が多過ぎてエヴァのポテンシャルが充分には発揮できないためだ。
となると、向かう先は廃工場。冷泉ルナが殺された現場だ。
エヴァが知っている場所の中で、犯人と一対一でやりあうとしたら、あれ以上の場所はない。
誰にも介入されない場所は、犯人にとってもエヴァにとっても都合がいい。
たとえ犯人が暴力に訴えたとしても、不意打ちでない限りはエヴァが負けることはありえない。
エヴァが犯人に負ける姿は予想できない。
しかし、同時に、エヴァが易々と犯人を捕縛している姿も想像できなかった。
第一、彼女が犯人を無力化できていたとしたら、僕に一報あっていいはずだった。
となると、何かしらの形で、エヴァの想定とは違った事態が発生した。そう考えるべきだ。
エヴァの知能は極めて高い。考え方のシステムそのものが違うとはいえ、演算能力に関しては人間を遥かに越える。
ただし、全てのことを演算できるわけではない。フレーム問題を回避するために、確率が低すぎる未来については思考を放棄している。
すなわち、エヴァが『可能性が低すぎる』と判断した未来に関して、足をすくわれる可能性は充分ある。
人工知能は神ではない。
全てを知っているわけではない。
いくら演算能力が高くても、そもそも演算するための情報を全て持っているわけではないし、全ての情報を持っていたと仮定しても逆に情報量の多さに振り回されてしまう。
つまり、エヴァがいくらクレバーに見えたとしても、失敗する可能性は充分にあるというわけだ。
人間が失敗するのと同じように。
冷泉ルナが殺されてしまったのと同じように。
廃工場についた僕は、はあはあと荒い息をついた。
覚悟を決めて警察のシールテープをくぐり、廃病院に侵入した。
昨夜は闇の中をずっとエヴァに支えてもらいながら進んだので、距離感が掴めない。酷く足場が悪いことは昨日の段階から認識してはいたが、実際に明るい中を歩いてみるとガレキが散乱していたり割れたガラスが床に散っていたりして、思った以上に惨惨たる有様だった。エヴァはひどく丁寧に僕をエスコートしてくれていたらしい。
ガレキを避けながら歩いていると、ふと血の匂いのようなものを感じた。
その瞬間、僕は走り出していた。
血の匂いに導かれるようにして扉をいくつも潜り抜けると、目の前にさあっと光が広がった。
そして、部屋の中央に、胸元を串刺しにされたエヴァが倒れていた。
僕は慌ててエヴァに駆け寄った。
エヴァの肉体は、満身創痍といっていい有様だった。金色の髪はほつれて埃にまみれ、白磁の肌は傷だらけだ。きっと、犯人ともみ合ったのだろう。さらに、首元には彼女の首を強引に締め上げたのであろう帯の痕跡がある。首が変な角度にたわんでいるのは、内部のフレームが歪んでいるのかもしれない。
これはすなわち、エヴァが対峙した犯人が一連の事件の犯人と同一であることの示唆。
さらには、ダメ元のようにエヴァの胸元には大型のナイフが突き刺さっていた。どくどくと多量の、血ではない黒い液体が溢れて出ていた。
突き刺さったナイフに、どこかで見覚えがある。
そうだ。
僕が、護身用に購入したバタフライナイフ。
つまり、この状況が示すものはこうだ。エヴァは、ナイフを手に犯人と対峙したが、不意をつかれて首を絞められた。しかし、エヴァにとって首は急所ではないために死ななかった。その後、犯人はナイフを奪って、エヴァを刺殺した。
こういったことだと思われる。
エヴァが独りで戦っている間に、僕はのんきに眠っていたのかと思うとぎゅっと心臓が締め付けられるような思いだった。
そして、現場には、『from heaven』のメッセージカードが残されていた。




