悪役令嬢に転生したけど幸せです
王城のホールを満たしていた華やかな音楽が、強引に途切れた。
人々の視線が集中する。
ホールの中央に立つ、公爵令嬢セリエ・イグニースに。
家名に恥じることなく、セリエは美しい。
仕立ての良い上質なドレス姿に品格があるのはもちろんのこと、長い睫毛に縁取られたアーモンド型の瞳は紫色で、不純物を含まない希少な宝石のよう。
腰まで伸ばされた銀糸の髪は、セリエがわずかに傾けた顔の動きに合わせ、さらりと滑らかにゆれる。
セリエの幼馴染みであり、婚約者であったはずの第一王子アルベルトは、太陽の陽射しを溶かし込んだような金色の髪の青年である。
学園に通うの乙女たちに理想の王子様像を描かせたら、こんな姿になるのではないか。
そんなことが頭に浮かぶ、まさに理想の王子様であった。
その王子様の後ろには、すがるように寄り添う儚げな乙女の姿がある。
アルベルトが用意したであろう、並みの貴族では手に入らなそうな、細やかなレースを贅沢に使用した甘いドレス。
柔らかに波打つピンクブロンドの髪、不安そうにゆれる大きな瞳。
去年、学園に転入してきた、男爵家の養女、リリアーナである。
セリエはゆっくりと、アルベルトに見せつけるように微笑んだ。
「もう一度、言って頂けませんか?」
言葉は確認ではあったが。
アルベルトは不快な響きを感じたらしく、軽く奥歯を噛んでセリエを睨みつける。右手を大きく振りかざし、セリエに突きつける。
アルベルトの礼服に飾り付けられている、マントが広がった。
「セリエ・イグニース、俺と君が結ばれる日は永遠に来ない。君との婚約は破棄させて貰う」
アルベルトは左腕で、リリアーナの肩を抱き寄せた。
「セリエ、君は公爵令嬢という地位を利用して、か弱いリリアーナに陰湿な嫌がらせを繰り返した」
「そのようなことはしていません」
「リリアーナは嘘をつくような女性ではない。俺は、リリアーナという運命の伴侶に出会えたのだ。俺の隣に並ぶ女性は、リリアーナしかいない」
アルベルトは視線を傾ける。
甘く見つめ合うアルベルトとリリアーナ。
「アルベルト様、私のために、このような……」
「リリアーナ、どうか、君の優しすぎる心を痛めないでくれ。君は今まで充分すぎるほどに我慢をした。これからは俺が護る」
セリエは冷ややかに、アルベルトとリリアーナの愛のミュージカルを眺めていた。
そういえば。
この世界って、物凄く前すぎて、いつだか分からないような古い記憶の中で遊んだ、乙女ゲームに似ているわよね。
とか考えながら。
物凄く前を、前世と言って良いのなら、セリエは悪役令嬢転生をしたことになる。
古い記憶に集中すると、少しずつ思い出してきた。
乙女ゲームのタイトルなんて覚えていない。
キャラクター名もうろ覚えだ。
攻略対象は王子、騎士、魔法使い、勇者、魔王……だったかな。
ヒロインの名前は変更して遊ぶ派だったから、公式ヒロイン名も忘れていたわ。
そっかー、リリアーナだったのね。
頑張っちゃう系の悪役令嬢セリエは、乙女ゲームの中で、婚約者であるアルベルトと急速に仲良くなるリリアーナに嫉妬して、安定の嫌がらせをする。
嫌みを言ったり、間違った情報を教えたり。
金で雇った者に襲わせたりもする。
今のセリエは、そんなことをしていない。
嫉妬なんて感じないから。
そもそも、アルベルトとセリエの婚約自体が、今は御隠れになられた国母、アルベルトの御生母様たってのお願いだったからこそ実現したものである。
婚約破棄か。
嫌じゃないけれど、婚約破棄をすれば、確実に面倒なことになるのは間違いない。
「セリエお嬢様」
音も立てずに。
セリエの背後にすらりとした長身の、黒服の男性が立つ。
艶のある黒髪と珍しい黒目。
品のある三つ揃いの正装を着た、若い執事だ。
セリエが子供の頃に、気まぐれで拾ってきた少年が、やけに有能な美形に育つと思っていたら、攻略対象だったのね。
「シグルド、今は…」
「会いに来てくれたのねっ!シグルド様ぁ!」
セリエがシグルドに話しかけた言葉を、リリアーナの歓喜に満ちた甘い声が遮った。
リリアーナの予想外の言動に戸惑っているアルベルトとは対称的に、リリアーナの顔は幸せそうに溶けている。
「アルベルト様を攻略してからでないと、シグルド様にお会いできないからと、リリアーナはあきらめていたのですよ?」
小動物のように可愛らしく小首を傾げて、リリアーナはシグルドを上目遣いで見つめる。
シグルドは、道に汚物を見つけてしまった時の顔で、リリアーナを見た。
「リリアーナ嬢、私とあなたは初対面です。はっきりと言わせて頂けるなら、私はあなたに興味ありません」
「大丈夫ですよ。私がシグルド様を解放してあげますからね」
セリエは心の中で、大きくため息をついた。
ヒロインも転生者のパターンか。
あるある。
「騒がしいな」
重厚な響きを持つ男性の声。
王城のホールにいる者で、この声の持ち主を知らない者はいない。
メイドが一礼をして両開きの扉を開けると、隙のないかっちりとした礼服の男性が、中央に向かってゆっくりと歩いてくる。
その腰には、実用的な片手剣が装備されていた。
社交の場であり、友好を深めるための場でもある王城のホールで、帯刀を許される者。
警備の騎士を除けば、王族だけに限られる。
「国王陛下!」
アルベルトが真っ先に声を出した。
「セリエとの婚約を破棄したいのです。そして、愛しのリリアーナとの婚約を、正式に認めて頂きたい」
国王陛下の許可をまだ貰ってなかったのね、とか、リリアーナの押しはシグルドみたいよ、とか。
うっかり口にしかけた言葉を、セリエは飲み込んだ。
「そんな!」
リリアーナの体が、小刻みに、ぷるぷると震えている。国王陛下の顔を見てから、リリアーナの様子がおかしい。
「シグルド様を攻略した後でないと現れない、伝説の勇者様が、どうして国王陛下なのよ!」
国王陛下は顔の筋肉をゆるめて、リリアーナに笑いかけた。
目だけは笑っていなかったけれど。
「伝説の勇者ねえ。そんな呼び方をする人間は、全員、片付けたはずだが?」
国王陛下の反応に、リリアーナは慌てて、両手で口を押さえる。
しかし、失言が戻ることはない。
アルベルトとは全く似ていない国王陛下、エリュシオンの外見は、三十代前半にしか見えない。
寝癖なのか、そういう髪型なのか分からない、あちこちに跳ねた茶色い髪。
ありふれた緑色の瞳。
顔は普通。
だが、乙女ゲームでエリュシオンを攻略した者と、生きていない者なら、普通の顔がエリュシオンの一部でしかないと知っている。
エリュシオンは、剣を抜くと変わるのだ。
瞳が壮絶な覇気を放ち、舞うように魔物を切り刻んでいく。
たまに、人間も刻む。
何十年も前に古の竜を倒した時、竜の血を全身に浴びて、老いない体と死ねない呪いを受けたらしい。
この世界は、乙女ゲームに似ていて、異なる世界。
乙女ゲームなんて思い出していなかった、セリエが幼子だった頃。
国王陛下は別の人で、エリュシオンはたまに王城に遊びに来る不思議な人だった。アルベルトとセリエに優しくしてくれて、年の離れたお兄さんみたいに思っていた。
変化があったのは、前の国王陛下が幼かった私に告げた、ある言葉からだった。
『セリエ、君の血をくれないか?』
私は、エリュシオンが倒した古の竜の末裔だった。
エリュシオンによって保護された私は、幼体が人間の姿であった幸運もあり、公爵家に養女として預けられたそうだ。
古の竜の血さえあれば、老いない不死の体を手に入れられると考えた前の国王陛下は、私を殺そうとした。
あの時、偶然、エリュシオンが王城に立ち寄らなければ、私の竜生は終わっていた。
その後は簡単だった。
前の国王陛下がエリュシオンに殺され、王妃様が自分の命を差し出す代わりにアルベルトを殺さないでくれと懇願した。
国の内外には、国王陛下と王妃様は事故にあって御隠れになられ、幼いアルベルトが成人するまでは、エリュシオンが国王陛下の代理となると通達がされた。
アルベルトと私の婚約は、アルベルトの命を護るための取り決めだったのだ。
「やはり、あの男の息子であったか」
エリュシオンの冷めた声が、セリエを現実に引き戻した。エリュシオンはアルベルトに虫を見るような目を向けている。
幼い頃を知っているだけあって、少しは持っていたアルベルトに対する情を、エリュシオンは投げ捨てた。
「アルベルト、おまえとセリエとの婚約はなかったこととしよう。その代わり、おまえに残された道はないと思え」
怯えるリリアーナに、エリュシオンが一歩近づいく。
「セリエが嫉妬をして、嫌がらせをしたそうだね。不思議な話もあるものだ。俺に一言、気に入らないやつがいると言うだけで、世界からひとつ、命が消えるのに」
エリュシオンの手が剣に伸びた。刀身が鞘から出される前に、シグルドがエリュシオンの前に立ちふさがる。
シグルドの動作には音も気配もない。
「邪魔をするな、シグルド」
「そういう訳にはいかなくてな。セリエお嬢様には借りがある。リリアーナ嬢の命など惜しくもなんともないが、ここではやめろ。目が汚れる」
「一度は俺に殺された魔王のくせに、セリエの前だからと格好つけるな!」
「おまえのせいで、こっちは幼体からやり直すことになったんだ!反省しろッ!」
セリエは仕方ないと言わんばかりに、わざとらしく口を開く。
「喉が乾きました」
シグルドとエリュシオンの視線が、同時にセリエに向いた。
セリエに向かって急いで駆け寄ってくる姿は、大きな犬と気まぐれな猫のようだ。
「紅茶をご用意致しましょう」
シグルドがポットを片手に言えば、エリュシオンはオレンジを大量に持ってきた。
「すぐにジュースを作らせる。俺が作っても良いが、前に聖剣で魚をさばいたら怒られたからな」
聖剣は使い手を選ぶ。
とかいうのは、たぶん嘘ですね。
うっかり油断してたら抜かれちゃった感じでしょうか。
セリエは紅茶を受け取って考える。何かを忘れている。
ああ、そういえば。
私、婚約破棄されたんですよね。
視線をアルベルトとリリアーナに向けると、セリエに婚約破棄を告げた時と同じように、二人は寄り添っている。
違うのは、二人とも顔色が真っ青だ。
公爵令嬢セリエ・イグニースは、紅茶を口に運んだ。紅茶独特の香りが口に広がる。
悪役令嬢だけど、今はそれなりに幸せです。