天は貴方を見放さない
最初は取り敢えず2話連続投稿して、後は或る程度(勤務時間に)書き進むまで一旦放置します。宜しくお願いします。
(服……有り金はたいて買ったばっかりだったのに……でもこっちの袖が切れてちゃ目立つし、次を買わないとな……)
アジア某国の雑踏。行く宛も決めずぶらぶらと歩くノー・ワンの「有る方の」腕を、裏路地から引き寄せる者が有った。
「んだよ、いきなり……さっきの狂人のお仲間か? ――」
そう口にしながら相手の顔に目を遣ったノー・ワンは、思わず声を上げそうになった。その男の目の下には、陽光の入りの悪い路地でもはっきりそれと分かるほど濃い隈がおりていた。老人というほど歳とっているわけでもないような割に、無造作に撥ねる豊かな髪はほとんど白に埋め尽くされている。疲弊感の漂う面貌からは血の気というものが喪われており、元々は紺青と思しき瞳も淀んで彩度が落ちてしまっている。
「……そう見えます?」
「いや……俺が悪かった」
「その『左腕』、さっきので切れてる。気付いていないわけではないでしょう」
僅かに残る左肩から下の袖は、確かに血で赤く染まり始めていた。「見せて」と口にしながら、男はその近辺に手を宛がった。
「おい、何する気だよ」
「何もしません……いや、正確にはするんですが。それと見ていても構いませんが、見ない方が良いかもしれません」
「さっきから訳の分からんことを――」
「――天はまだ、貴方を見放してはいませんよ」
会ったこともない男のその言葉の響きを、ノー・ワンは何かで知っている気がした。次に起こったのは、彼とすれば奇跡にも思える出来事だった。文字通り目に見える速さで傷口が塞がって出血が止まり、傷痕が瘡で綺麗に覆われたのだ。
「……何者だ、お前……」
「怪しい者ではありませんよ」
「怪しくない要素が何処かに有ったか?」
ノー・ワンの無遠慮な詰問に、「怪しい男」も苦笑を浮かべるしか筋が無かったようだ。
「まあ、良いでしょう。この巡り合いも何かの縁、説明がてら話でもしませんか? 丁度あそこに軽食処も有ることですし」
*
「単刀直入にお訊きしましょう。貴方は常人には無い特殊な能力を持っている。そうですね?」
ミルクと砂糖のたっぷり入った現地風の茶を啜り、男はノー・ワンにそう問い質した。
「……お前みたいな怪しい力は俺には無いよ」
「人を『怪しい』と呼ばわって憚らないんですね……まあ、あまり肩肘張らず、これでも飲んだら如何です?」
「……飲み物なのか、これ」
「毒見なら、私が済ませたつもりですが?」
そういう意味ではないのだが、と口にするのはやめにしておき、ノー・ワンも相手と同じ茶を口にした。彼自身の予想していた通り、その甘味は彼の気に入るものではなかった。
「……そう思った理由は? あー……お前、名は」
「私も気の利いた二つ名を考えておくべきでしたね……まあ良いでしょう。ローラン・リーと言います。さて御質問の件ですが、私にも確証というほどのものは有りません。ノー・ワンさん、貴方の能力は私ほど判り易いものではないから」
リーと名乗った「怪しい男」が茶を啜りながら淀んだ目をぎらつかせるのを、ノー・ワンは内心に生ずるざわつきを押し隠しながら眺めていた。やたらに生じる喉の渇きを癒すには、その茶は彼には甘過ぎる。
「故に、ここからは私の予想に過ぎませんが。貴方の能力は、『狂気』なるものに関係が有る。或いは、貴方が『狂気』と名付けるものに。色恋沙汰に気の触れたらしいあの男の感情を、貴方はあまりにも自信満々に『狂気』と言い切った。その言行から、私は貴方に同じものを感じたのですよ」
自分のことをこうも具体的に看取され、言語化されるのは、ノー・ワンには初めての経験だった。即ち、こうした事態への想定が、彼の中には無かったということだ。乱闘にでも持ち込む以外、リーという男から逃れる術は無いと踏んだノー・ワンは、その逃れるという選択肢を諦めることにした。
「……お前の予想を全部喋らせるのは、誠意を欠いた対応ということになるんだろう。……だから俺の予想を確かめたいんだが、先程の『天はまだ貴方を見放してはいない』という台詞に俺が強い印象を覚えたのも、俺がお前に同じものを感じたからか?」
観念した、という表情で喋り始めたノー・ワンを前に、リーはさも嬉しげな表情を作った。疲れやつれて見えるその顔にそんな表情が浮かぶのを、ノー・ワンはやや驚いた心境で目の当たりにしていた。
「そう感じるだろうと思って、いつも以上に芝居がかった言い方をしたんですよ。分かってくれました?」
「いや、そこまでは知らんが……。とにかく、お前にはっきり言葉にされて、俺も『俺が』特殊な能力だって自覚できた気がするよ」
「私も自分以外の能力者と会うのは初めてなので、嬉しいですよ。先程お見せした通り、私のは単純至極、『傷病を治癒する力』。貴方のは?」
怪しい男、のち同類の男に見つめられたノー・ワンは、そこで返答に詰まった。今の今まで曖昧にやり過ごしてきた「特殊な能力」とやらに、即座に定義付けを与えられるはずはない。
「……なんなんだろうな、これ……取り敢えず、『狂気を引き受ける力』、かな」
「そのままじゃないですか」
お前にだけは言われたくない、という反駁を聞き流しながら、リーはどこか愉しげに微笑んだ。