第九話 未来の貴方が消える
今はもう懐かしい怜の屋敷。
寝泊まりは怜の屋敷から、天下布武という万屋の洋館へと移った。
洋館は、二階建てで玄関の先には応接室と、皆の机やソファー、戸棚が並んでいる。奥に行けばキッチンがあるはずだ。
怜はいつもキッチンで料理を作ってはオレらに食べさせていた。
月末はだいたいが会計に追われてる寿と怜で、オレと御劔は手を出すなと綾様に怒られていたっけ。
個々に部屋が設けられたが、オレだけ寿が最初に乗り込んだ対毒アジトもそのまま残っている。
この洋館からは離れてはいるけれども。
お偉いさん方が、御劔を危険な目に遭わせるというのに、どうやって納得したかと思えば、ヨナルデパズトーリの話があるからか。
洋館へ入れば、珍しくしぃんとしていた。
ただいまを言おうか悩んで――オレにはそんな資格はないのだと、部屋へと戻る。
この洋館は、オレには少し、眩しすぎる。
全てが、ゴミツに立ち向かう為にという理由だから――。
*
「何やってるんすか、綾様」
綾様の傍には、ゴールデンレトリバーがいて、大人しく座っていたのだがオレが部屋に入ると勢いよく飛びついてきた。
重さに耐えきれなかったが、何とか支えて頭を撫でてやると、愛嬌よく「わおん!」と鳴いた。
犬なんて飼ったことねぇから。兄貴は猫派だったし、オレにいたっては動物なんて、薬の宝庫にしか見えないから。
角はこう使える、血はこう使える、皮はあれに使える、なんてことばかり。
犬は尻尾をぶんぶん振り回すように振っていて、オレの足下をうろうろうろつく。
「捨て犬っすか?」
「否、この犬を吹雪がやむまで預かるのが依頼人の意思だ」
「随分簡単な依頼っすね」
「――……簡単、か。だといいがな。ニードル、いいか、ライアーの傍を離れるでないぞ」
「え、オレがこいつの面倒見るんすか?」
「不満か、ライアー?」
――綾様にしては珍しく、オレに対して威圧してくる。
いつもならそんな恐ろしい真似しないのに。
オレは絶対に綾様に逆らわないのを知っているのだから、そんな真似しないのに。
ニードルと呼ばれた犬が、ぐるるるるると唸って綾様へ睨み付ける。
「おい、馬鹿犬、この御方を睨むな」
叱るとニードルは、尻尾を下げて、きゅうんと鳴くとその場に座り込む。
ぺたっと地面に座る姿は、完全降伏だ。
オレの言葉が通じるのか、この犬は。
「ライアー、一つ良いか」
「何すか」
「政府は、天女について何か言っていたか?」
「……はい、情報を吐き出してくれました。天女をヨナルデパズトーリにしたいとか。五つの太陽を待っているとか意味が分かりません」
「……――否、充分な情報だ。五つ、そうか、そこは変わらぬか……」
「……僧正は、綾様が時間に捕らわれてるとも言ってました。何かオレに隠していませんか?」
オレがどかっとその場に座って綾様を睨み付けると、綾様は考える素振りで目を細め、微笑した。
胸を射貫くから、この胸が高鳴るから、笑顔は止めて欲しいといつも言ってるのに――!
心臓の鼓動が制御される……いってぇ、すげぇ痛くて苦しい。
恋の苦しみなんて甘い思いだったんだと思い知る。この重みをどけられたらいいのに。
それなら他の誰かへ恋すればいいのに、他の誰にも恋できなかった。
「……ライアー、己は……未来からきたのだ。否、今の時間軸で言う〝現在の己〟が、あの吹雪のときにいた〝過去の己〟に戻っていったのだ。あの吹雪の時より、未来の己がお前様の傍にいたのだ」
「は?」
「全ては、お前様を守る為の誓い故に。己とて男だ、命くらい賭けられる。五つの太陽――世界は五回生まれ変われる。その権利は全て、己とお前様、それから巡が持っている……ライアー。己は天女ではない。お前様が天女なのだよ、正しくあるのならば。己は天女を利用している」
「は?」
オレが言葉を返さずぽかんと呆然としていると、綾様は、微苦笑を浮かべる。
「ニードルを守ってくれ、己は今からまた過去に行かねばなるまい……その犬を預かってほしいのは、己の願いだ」
「どう、して」
「――……あの吹雪の中に戻らねばならぬ、御劔様と出会うには、皆が出会うには。己は、狗に頼んだのだ。過去へ戻って心臓の呪いを解きたい」
「――……綾様?」
急に。
いきなり。
突然、何を言い出すんだこの御方は――。
万屋を立ち上げるまでは? どうして?
皆と出会うにはって、まるで貴方様が、出会わせたみたいな物言いだな?
触れようと手を伸ばすが、心臓が痛み、屈んでしまう。
胸を押さえて、綾様に手を伸ばす。
いつもなら手を取ってくれないのに、綾様は手を取ってくれて、優しく微笑んでくれた。
微笑んで、オレにキスをする――それが、麻酔の合図のように体が動かなくなる。
綾様は狙ってやったようだ。
「過去のお前様と会ってくる、その狗を守ってくれ、それではな」
「待って……待ってください、オレは貴方なしでは生きられない! いきなり意味わかんねーすよ!」
「判らないままこの世界にいて、どうか幸せになってくれ――お前様の心臓の呪いを、解除してくる。ゴミツに頼らず、お前様が恋愛でき、消滅しない時間を作ってくる。己だけが巻き戻れば、何とかなるだろうて……」
「待って、待って綾様――! それってこの世界で貴方が消えるんじゃ……」
動けず、目を見開くと巡が綾様を迎えに来ていて、真っ黒な異空間へ連れ込む――寿の事件で世話になった異空間だ、あれは。
時を止める場所だ。
「子犬ちゃん、良い子にしてね?」
「巡――ぜぇ、……っく……てめ、テメェ……綾、さま、を返せ……!」
「僕は巡じゃない、二見だよ。忘れてしまった? 僕を半分分けた依り代の子だよ、巡は。――アディオス、子犬ちゃん。君のために幸せを作ってくる。愛しい君のために」
二見――綾様を守護する化け物の名前だ。
綾様は天女じゃないと言ったのに、結局は化け物が守護するなら天女じゃねぇか。
オレが好きだから守ることで邪魔する?
こいつらは意味の分からない協定で結ばれてる――それだけは判った。
オレを守るだなんて言いながら、オレを除外する気だ――そして、オレから綾様を奪うつもりだ!
「テメェら、待て、待て!!」
二見は笑みを浮かべた――胸が苦しくなって、一気にその場に倒れる。
気絶してしまいそうになるほど、苦しい。きつい。痛い。
何処かで見た覚えがある、あの笑みは。
オレは、何かが欠けている――何か身を焦がす思いが欠けている。
それは綾様との恋愛でも比較にもならないくらい、強い執着心だったはずなのに、どうしてこの思いを見失っていた?
オレの叫びは空しく、時空の彼方へ消えて、オレは誰もいない部屋で一人蹲る。
寄ってきた気配に、目を瞑って目を背ける。
狗がオレの涙を舐める、慰めるように――オレは咄嗟に犬を抱きしめて、呟いてしまう。
嗚呼、思い出せた。
「〝巡〟――オレは天女に、今度こそなるよ」
犬は瞬くと人の姿になっていて、オレは苦笑した。
オレが名前を与えることで、こいつも力を発揮できるんだと思い出した。
「名前をつけるなって言ったのに。なんで、思い出しちゃったの……」
「しゃーねーだろ、巡、テメェもあいつらを止めたいって思うんだろ。だから、オレにちょくちょく忠告するんだろ? なら……なら、力を貸してくれ」
ニードル、その名の意味は――。
お前が苛つく理由が、判った――。
「嫌だよ、子犬ちゃん」
決して頷かないからだ――。
一気に全てを思い出す――。




