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待ちもの帳

作者: 羽月楓
掲載日:2026/10/07


 

 黄色いクリップが、紙を吐き出した。


 学び舎の入口をまたいだときだった。

 サヨの腕の中で紙の束がずれ、一枚、二枚と足元へ滑り落ちる。


「あっ」


 しゃがむと、今度は上から別の紙が落ちた。


「動かないで。そのまま持っていて」


 母の峰子が、床へ手を伸ばした。

 サヨは残った束を両腕で押さえ、拾われる紙を見ていた。


 曲がった線の紙。

 空白の残った紙。

 端に青い粉の付いた、小さな紙。


 どれも、なくしたくなかった。


     *


 重力が反転して五年。

 東京の地下には、メトロジェイルという街がある。

 線路が頭上に残る通路を、人々は歩き、物を運び、暮らしていた。


 サヨが集めているのは、その人たちの待ちものだった。


 誰が、何を待っているのか。

 使い終えた紙の裏へ書いてもらい、大きな黄色いクリップで留めていた。


 最初は、片手で持てた。

 学び舎の子が書き足し、店の人が紙をくれ、サヨ自身も覚えた字で書いているうちに、両手で抱える厚さになった。


 峰子は拾った紙を長い卓へ置いた。


「破れていないみたい」


 サヨは一枚ずつ確かめた。

 折れた角を伸ばし、床の埃を払う。


 黄色いクリップは、卓の上に転がっていた。


「もう、挟めないの?」


 峰子はクリップを開き、紙の束へ当てた。

 端を少し噛むだけで、奥まで入らない。


「これ全部は、難しいね」

「強くしたら?」

「紙のほうが、破れてしまうかもしれない」


 サヨは束を自分のほうへ引き寄せた。


 峰子はそれを見てから、棚の下の箱を開けた。

 厚紙を二枚取り出し、卓へ並べる。


「一冊にしましょうか」

「本にするの?」

「そう。ここに穴を開けて、糸で綴じるの」


 サヨは厚紙へ手を置いた。

 紙の束より、少し大きい。


「待ちもの帳になる?」

「もう、待ちもの帳でしょう」


 サヨは表紙代わりにしていた一枚を探した。


 まちものちょう。


 最初に書いた字は、最後のほうが少し下へはみ出していた。


     *


 穴を開ける前に、紙を並べることになった。


 全部を卓へ広げると、サヨが思っていたより場所を取った。

 峰子は授業で使う道具を端へ寄せ、卓を空けてくれた。


「最初は、これ」


 サヨは、曲がった線の紙を取った。


 まなびや こども すうじのいた きた


 時刻表を待っていた子どもたちのことを書いた紙だった。

 運び屋のカナタに預け、古い時刻表と一緒に学び舎へ届けてもらった。


 顔を上げると、その時刻表が壁に掛かっている。


 06:12。

 06:24。

 06:37。


 電車はもう来ない。

 けれど、数字の板はここへ来た。


 サヨは行の端の『きた』を指でなぞり、厚紙の上へ置いた。


 同じ紙の下の方には、大きい子の字がある。


 ちかしんでん みず やさい きた


 野菜を育てる場所へ、水が届くのを待っていた。

 そのあと、その子が『きた』と書き足してくれた。サヨの字より小さく、まっすぐだった。


「これ、もう来たのばっかり」


 紙を並べるのを手伝っていた子が言った。


「うん」

「まだ待ってるのを、前にする?」


 サヨは二つの『きた』を見た。


 板を運んできた人がいて、水を運んできた人がいた。

 後にまわしてしまったら、待ってる順番が違って気になった。


「これは、ここ」


 サヨは一番上の紙を押さえた。

 その子は頷き、次の紙を渡してくれた。


     *


 半分に折った紙を開くと、見慣れた名前があった。


 ヤエチカ マコ ピアノの曲


 青い看板の店でもらったものだった。

 マコは引き出しから紙を出し、サヨへ渡す前に、一度中を確かめていた。


「まだ、来てないの?」


 あのときサヨが訊くと、マコは首を傾げた。


「音は聞こえたの。でも、曲はまだ」


 音と曲は違うのだという。


 サヨには少し難しかった。

 けれど、マコが『きた』と書いてほしいと言わなかったので、そのまま受け取った。


 紙の端には、看板の色に似た青い粉が付いている。

 サヨは折り目を伸ばしてから、さっきの紙の後ろへ重ねた。


 次の紙には、折り目が二本あった。


 肥料の作業場 ユラ イチゴの芽

 

「芽は、出たの?」

 

 隣の子に訊かれ、サヨは首を振った。

 

「まだ、聞いてない。今度、会ったら聞く」


 次の一枚は、名前の隣が空いていた。


 7ばんしょくどうしゃ ナツミ


 金属の箱を抱え、運び屋を待っていた女の人だった。

 何を待っているかは、まだ書かないでほしいと言われた。


 手伝っていた子が、紙を覗き込んだ。


「ここ、書き忘れてるよ」

「忘れてない」


 サヨは答えた。


「まだ書かないの」

「何を待ってるか、知らないの?」

「うん」


 その子は、紙とサヨの顔を見比べた。


「じゃあ、会ったら聞く?」


 サヨは首を振った。


「書いてって言われたら、書くの」


 紙を一枚、めくった。

 ナツミの名前が隠れる。


 何も書いていないところがある。そんな本があってもいいのだと思った。


     *


 全部の紙を揃えても、端は揃わなかった。


 大きな裏紙。

 短く切られた紙。

 袋を開いて平らにしたもの。


 峰子は綴じる側だけを卓に当て、少しずつ位置を合わせた。


「小さいのは、こっちへ寄せようね。穴が紙から外れてしまうから」


 サヨも手を添えた。

 丸い顔を描いた紙が、横から少しはみ出している。


「これも入れる?」


 峰子が訊いた。


 待っているものは何も書かれていない。

 顔が三つと、長すぎる腕があるだけだった。


 サヨは頷いた。


「わたしの紙だから」

「じゃあ、これもね」


 最後に厚紙が重ねられた。

 峰子が位置を確かめ、少しずつ穴を開けていく。


 サヨは隣で、糸を持って待った。


 穴を開けたところから、小さな紙の欠片が落ちる。

 峰子の手が動くたびに、ばらばらだった紙が、同じ場所で押さえられていった。


「ここから、通してみる?」


 峰子が糸の先を示した。


 サヨは受け取り、穴へ近づけた。

 狙ったところに入らない。先が曲がり、厚紙の表面を滑った。


「もう少し、短く持って」


 言われたとおりに指をずらす。


 糸が入った。

 反対側から峰子が引き出す。


「できた」


 サヨが言うと、峰子は頷いた。


「次も、やってみよう」


     *


 結び目を作ると、一冊になった。


 サヨは両手で持ち上げた。

 さっきと同じ紙なのに、今度は下から抜け落ちない。


 そっと開く。

 大きい紙のあとに、小さい紙が現れる。折り目の付いたところは、少し浮いていた。


 峰子が表紙を指した。


「名前は、どうする?」


 サヨは、最初に『まちものちょう』と書いた一枚を手に持っていた。


「これ、前に付けたい」

「新しく書かなくていい?」

「これがいい」


 峰子は紙を当てて、表紙に収まることを確かめた。


 最後の字だけ下がった名前が、厚紙の上へ貼られた。

 サヨは乾くまで触らずに待ち、それから指先で端を確かめた。


 まちものちょう。


 もう紙の束を押さえていなくても、その名前は一番前にあった。


     *


「見せて」


 峰子が言った。


 サヨは少し迷ってから、出来上がった帳面を渡した。

 作るところをずっと見ていたのに、峰子は最初のページから開いた。


 時刻表を待っていた子ども。

 水を待っていた人たち。

 ピアノの曲を待っているマコ。

 イチゴを待つユラ。

 まだ何も書かない、ナツミのところ。


 サヨは隣から覗き込み、ときどき指を出した。


「それは、わたしが書いた」

「こっちは、大きい子」

「この顔、手が長くなっちゃったの」


 峰子は一枚ずつ、ゆっくりめくった。


 最後には、白いページが残っていた。

 紙の裏側で、端に少しだけ、もとの印刷が透けている。


「ここにも、まだ書けるね」


 サヨは頷いた。


 全部を埋めなくても、本になる。

 白いところがあっても、閉じればちゃんと、一冊だった。


 峰子が帳面を返した。


 サヨは胸へ抱えてから、卓に残っているものを見た。


 黄色いクリップ。


 もう、何も挟んでいなかった。


     *


「お母さん、紙ある?」


 峰子は道具を片づけていた手を止めた。


「まだ書くの?」

「新しいの」


 棚から出してもらった裏紙を、サヨは数枚重ねた。

 角を揃え、黄色いクリップを開く。


 しっかりと、奥まで入った。


「次の帳面?」

「うん」


 サヨは頷き、一番上へ鉛筆を当てた。


 まちものちょう2。


 前より少し、小さな字になった。

 その下には、まだ誰の名前もなかった。


 峰子が二冊を並べた。


「両方持つと、また落としそうね」


 サヨは綴じたほうを持ち上げた。

 少し考え、時刻表の下の卓へ置く。


「これは、ここに置いてもいい?」

「皆が読んでもいいの?」

「うん。めくるとき、そっとしてねって」


 峰子は卓の上を空けた。

 時刻表の数字が見える場所へ、帳面を置き直す。


 サヨは表紙の角を揃えた。

 何度も抱えて歩いた紙を置いていくのは、少し変な感じがした。


 入口まで歩いて、振り返る。


 さっき手伝ってくれた子が、もう帳面を開いていた。

 片手で表紙を押さえ、一枚ずつめくっている。


 サヨはしばらく見ていた。

 それから、新しい紙を胸へ寄せた。


「行こう」


 峰子が手を差し出す。


 サヨはその手を取り、足元の配管をまたいだ。


 通路の先で、荷車の音がする。

 誰かが人を呼び、別の誰かが返事をした。

 

 サヨは黄色いクリップを親指で押さえた。

 

 今度はもう落ちなかった。


 

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