異世界幽霊
短編で読みやすいと思います。
気がつくと、俺は空を飛んでいた。
正確に言えば、浮いていた。足元には見知らぬ石畳の街並みが広がり、頭上には二つの月が並んで輝いている。一つは銀色、もう一つはなぜかうっすらと緑色だ。
「……死んだのか、俺」
思い出した。帰宅途中、横断歩道。スマホを見ながら歩いていたトラックの運転手。そして、強烈な衝撃。二十七年の人生は、あっけなく幕を閉じた。
しかし困った。異世界転生というやつは、普通は肉体を持って始まるものではないのか。俺の手は半透明で、石畳を素通りしてすり抜けてしまう。どうやら俺は、異世界に「幽霊」として転生してしまったらしい。
街の名はエルディムといった。剣と魔法の世界で、人々は騎士や魔法使いとして暮らしている——というのは三日で把握した。幽霊には時間だけが無限にある。
困ったのは、誰にも見えないことだ。話しかけても無視される。物を触ろうとすればすり抜ける。街の食堂から漂うスープの香りを嗅ぐことはできるのに、一口も味わえない。これはなかなかに残酷な仕打ちだった。
そんな俺を初めて認識したのは、ルーカという名の少年だった。
七歳くらいだろうか。宿屋の裏路地で一人、こちらをじっと見つめている。
「おじさん、なんで体が透けてるの」
思わず声が出た。「見えるのか、俺が」
「見えるよ。でも変な色してる。青白い」
ルーカは孤児だった。宿屋の雑用をして飯をもらっている。親は疫病で死んだという。それを笑顔で話すので、俺のほうが胸を痛めた。
それから俺たちは、奇妙なコンビになった。
幽霊の俺にも、一つだけ能力があることがわかった。
生きているものの「心の声」がうっすら聞こえるのだ。人間だけでなく、馬も、犬も、なぜかたまに野菜も。市場でキャベツが「切られたくない」と念じているのを聞いた時は、さすがに存在の意味を問い直した。
しかしその能力が、思わぬ形で役に立った。
ある日、街に泥棒が現れた。被害に遭ったのは、ルーカが世話になっている宿屋の女主人マーサだ。大切にしていた亡き夫の形見の指輪を盗まれた。騎士団は動いてくれない。「小さな盗難」だからと。
俺は街中を漂いながら、心の声に耳を澄ませた。後ろめたさ、興奮、隠しているという感覚——それらが混じった心の声を持つ人間を探して。
見つけた。革細工屋の職人だった。
しかし俺には何もできない。物は触れないし、声も本人には届かない。届くのはルーカだけだ。
「あの店の、棚の裏の板が浮いてる。そこに隠してあるって教えてこい」
「なんでそんなことわかるの」
「幽霊だから」
ルーカは半信半疑のまま、「棚の裏を見てください」と騎士団に告げた。指輪は出てきた。ルーカは英雄扱いされ、マーサに思い切り抱きしめられた。俺はその光景を、少し離れたところから眺めた。
温かかった。物理的にではなく、たしかに温かかった。
それから数ヶ月、俺とルーカはいくつもの「事件」に首を突っ込んだ。迷子の竜の子供を親元へ返したり(俺が竜語を習得したのは完全に偶然だ)、魔法使いの老人が自分でかけた呪いを忘れて困っているのを解いてやったり、市場のおばさんたちの人間関係を心の声で把握して仲裁したり。
ルーカはどんどん街の人々に信頼されるようになった。笑顔が増えた。飯をもらうだけの存在から、頼られる存在へと変わっていった。
俺は何も変わらなかった。半透明のまま、地に足もつかないまま。
それでも、悪くなかった。
転機は、冬の夜に来た。
ルーカが高熱を出した。宿屋の一室に寝かされ、マーサが必死に看病しているが、顔色が悪い。俺はベッドの傍らにずっと浮いていた。触れることも、声をかけることも、何もできないまま。
深夜、ルーカが薄く目を開けた。
「……おじさん、いる?」
「いるよ」
「よかった」と、ルーカは小さく笑った。「ねえ、おじさんって、なんで幽霊なの」
「さあな。俺もよくわかってない」
「おじさんの国はどんなとこだった?」
俺はしばらく考えてから、答えた。スマホのこと、コンビニのこと、夜でも明るい街のこと。ルーカはぽかんとしながら聞いていた。そのうちに、目が閉じていった。
「おじさんは、さびしくないの」
最後の問いは、寝言のように小さかった。
俺は答えなかった。答えられなかった。
ルーカが回復して一週間後、俺の体が変わり始めた。
透明度が増していた。青白い輪郭が、じわじわと薄れていく。
ルーカが気づいて、青ざめた。「消えちゃうの?」
「みたいだな」
「いやだ」
「俺もちょっと嫌だ」と俺は笑った。「でも、まあ、いい頃合いなんだろ」
ルーカは泣かなかった。泣くまいと唇を噛んでいるのが、わかった。
「おじさんがいなかったら、俺、まだ裏路地にいた」
「お前が動いたんだよ。俺はそこにいただけだ」
「それでも」とルーカは言った。「それでも、ありがとう」
俺は何か気の利いたことを言おうとした。でも言葉が出てこなかった。ただ、ルーカの頭に手を伸ばした。
初めて、触れた気がした。
実際には何も触れていない。でも、確かに何かが伝わった気がした。
二つの月が輝く夜に、俺はゆっくりと、溶けるように消えていった。
それから十年後。
エルディムの街に、若き英雄の話が広まっていた。心の声が聞こえる不思議な力を持つ青年が、人々の揉め事を解決し、迷えるものを導いている、と。
その青年は、困った顔をするとき、決まって空を見上げる癖があった。
まるで誰かに語りかけるように‥




