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履歴は残る  作者: 普通
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第六章 決定的な瞬間

 決定的な瞬間は、音もなく訪れた。


 庁内の定例報告会。

 月次の統計を共有するだけの、形式的な場だった。


 スクリーンにグラフが映る。


 《役職辞退減算規定 一時凍結後の推移》


 辞退件数:微増。

 総合指数への影響:軽微。

 公共案件の遅延:変化なし。


「大きな混乱はありません」


 事務局が淡々と述べる。


「むしろ、低貢献帯からの相談が減少傾向にあります」


 室内に小さなざわめき。


「心理的圧迫の緩和効果、ということですか」


「断定はできませんが」


 尾崎は数字を見つめる。


 ほんのわずかな変化。


 社会は壊れていない。


 ほんの少し緩めただけで、何も崩れていない。


 その事実に、安堵がよぎる。


 同時に、別の感情が浮かぶ。


 ――なぜ、もっと早くやらなかった。


 会議が終わり、席を立とうとしたとき。


 追加資料が配布された。


 《自殺者統計 暫定更新》


 宮本の名前が、そこにある。


 備考欄。


 《死亡前日、役職推薦通知受領》


 尾崎の視界が、わずかに揺れる。


 推薦通知。


 あの日、自分も受け取った。


 自分は受諾した。


 宮本は――。


 画面を操作する。


 履歴照会。


 《推薦通知 送信》

 《未応答》

 《死亡により自動失効》


 そこには、辞退も受諾もない。


 空白。


 だが、その空白は“選択”ではない。


 間に合わなかった空白。


 尾崎は、初めてはっきりと理解する。


 制度は強制していない。


 だが、通知は届く。


 優秀であれば、必ず届く。


 応答を求める表示。


 履歴に残る選択。


 宮本は、何を考えていたのか。


 0.7秒の沈黙。


 あの視線の落ち方。


 尾崎は、自分の言葉を思い出す。


 ――役職候補としての自覚を持ってほしい。


 名誉だ。


 同時に義務でもある。


 その前提を、疑ったことはなかった。


 だが今、数字の並ぶ画面の中で、

 ひとつの仮説が立ち上がる。


 もし、辞退が減点されなかったら。


 もし、休むことが履歴に傷を残さなかったら。


 もし、推薦通知が“当然”でなかったら。


 宮本は、別の選択をしただろうか。


 証明はできない。


 因果関係は不明。


 統計的有意差も出ないだろう。


 だが、ゼロではない。


 その“ゼロではない”を、尾崎は見てしまった。


 これが、決定的な瞬間だった。


 夜、尾崎は自宅の机に端末を置く。


 自分の表示を開く。


 青い帯。

 連続役職。

 上昇する指数。


 完璧な履歴。


 その中に、宮本の名前はない。


 だが、関連分析対象のタグは残っている。


 消えない。


 履歴は残る。


 ならば、自分も残すべきだ。


 空白を。


 尾崎は、非表示設定を開く。


 《変更しますか》


 今度は、迷いは短い。


 指が触れる。


 《非公開に変更します》


 確認画面。


 ――変更履歴は保存されます。


 構わない。


 履歴は残る。


 ならば、この選択も残せばいい。


 尾崎は、確定を押した。


 画面から、青い帯が消える。


 名前だけが残る。


 役職も、指数も、表示されない。


 空白。


 端末は静かだ。


 何も壊れていない。


 信号は正確に切り替わり、

 街はいつも通りに動いている。


 尾崎は、初めて小さく息を吐いた。


 それは反抗ではない。


 破壊でもない。


 ほんの少し、緩めただけだ。


 社会は、まだ正しく動いている。


 そしてその中に、

 初めてひとつの静かな空白が生まれた。

ありがとうございました。

感想をいただけるとありがたいです。

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