第五章 空白の重さ
非表示設定の画面は、思っていたよりも簡素だった。
《現在:公開》
《変更後:非公開》
説明文が続く。
――表示の変更は個人の権利です。
――変更履歴はシステムに保存されます。
――再公開はいつでも可能です。
合理的で、丁寧な文面。
脅しはない。
尾崎は指を画面の上に置いたまま、動かさない。
履歴は残る。
その一文だけが、妙に具体的に感じられた。
履歴は残る。
それは記録であり、透明性であり、信頼の証明でもある。
同時に、過去から逃げられないという意味でもある。
尾崎は設定画面を閉じた。
今はまだ、その必要はない。
翌日、庁内に匿名の意見書が届いた。
《役職辞退時の指数減算規定について再検討を求める》
署名はない。
だが、内容は具体的だった。
・長期連続役職者に休息期間を設けるべき
・辞退を消極性と自動判定するのは機械的すぎる
・“空白”を不利とみなさない基準が必要
会議室で資料が回る。
「またこの手の意見ですか」
「感情論ですね」
淡々とした反応。
尾崎は紙をめくりながら、言う。
「感情もデータです」
一瞬、空気が止まる。
「統計的裏付けがなければ、制度変更は難しい」
委員長が穏やかに返す。
「裏付けは、これから集めればいい」
尾崎は自分でも、少し意外だった。
強く出るつもりはなかった。
壊したいわけではない。
ただ、少しだけ緩めたい。
それだけだ。
その夜、尾崎は宮本の最終面談記録を再生した。
映像ログは保存されている。
画面の中の宮本は、いつも通り整った姿勢で座っている。
「今後は主体性をより期待する」
尾崎の声が再生される。
「役職候補としての自覚を持ってほしい」
宮本は笑っている。
「はい、頑張ります」
どこにも異常はない。
疲労の兆候も、拒絶も。
ただ、ほんの一瞬だけ。
映像を止める。
宮本が、言葉を選ぶように視線を落とす場面。
0.7秒ほどの沈黙。
再生すれば、流れてしまう長さ。
尾崎は、そこを何度も繰り返す。
これは、偶然か。
それとも。
だが、システム上は異常なし。
評価も正常。
指数も安定。
因果関係は確認できない。
尾崎は映像を閉じた。
翌週、審査委員会で小さな決定がなされた。
役職辞退二回での自動減算を、一時凍結する。
恒久的変更ではない。
検証期間付きの試験運用。
議事録にはこう残る。
《制度の柔軟性向上を目的とした調整》
小さな変更。
壊すには遠い。
だが、ゼロではない。
会議後、若い委員が尾崎に言う。
「課長、最近少し攻めてますね」
「攻めているわけではない」
「でも、前はもっと数字寄りでした」
尾崎は答えない。
数字は今も信じている。
だが、数字が拾えないものがあるかもしれない。
その可能性を、否定しきれなくなっただけだ。
帰宅途中、駅前の広場を通る。
集まりは、今日は三人。
老人夫婦と、若い女性。
プラカードはない。
ただ、立っているだけだ。
表示のない胸元。
空白。
尾崎は足を止める。
何も言わない。
老人が軽く会釈する。
尾崎も返す。
それだけだ。
敵意はない。
賛同もない。
ただ、空白がそこにある。
尾崎は自分の端末を取り出す。
青い帯。
役職名。
上昇する指数。
完璧な表示。
その隣に、空白を並べたらどう見えるだろう。
社会は崩れない。
少なくとも、すぐには。
尾崎は、もう一度だけ非表示設定を開いた。
《変更しますか》
今度は、指がわずかに動く。
しかし、まだ押さない。
空白の重さを、正確に測れていない。
それでも。
初めて、空白が“欠落”ではなく、
“選択”に見えた。
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