第三章 表示しない権利
推薦の受諾期限は、午後十一時五十九分だった。
尾崎は、午後九時を過ぎても端末を閉じたままだった。
未処理通知は、右上で静かに点滅している。
《審査委員会 推薦受諾期限 本日中》
辞退は可能だ。
制度上の不利益はない。
ただし、履歴は残る。
《推薦辞退:1》
その数字が付くだけだ。
それだけのこと。
尾崎は立ち上がり、窓の外を見た。
庁舎の向かい側、大型ビジョンには市の広報映像が流れている。
「信用は、安心の証です」
穏やかなナレーション。
買い物をする家族。
スムーズに進む手続き。
青い表示。
五年前、自分が設計に関わったプロトタイプは、もっと無機質だった。
表示は数値のみ。色分けもない。
「直感的であるべきだ」
そう提案したのは、尾崎だった。
市民が一目で理解できるように。
分かりやすく。
透明に。
その方が公平だと、信じていた。
期限の三十分前、尾崎は受諾ボタンを押した。
《推薦受諾 登録完了》
それだけだった。
特別な音も、祝福もない。
画面はすぐに通常業務に戻る。
尾崎は端末を閉じた。
これでよかった。
能力があると評価されたのなら、応じるのが合理的だ。
それが制度の前提だ。
数日後、初回の審査会議が開かれた。
議題は、信用表示の運用改善案。
「非表示権の利用率が、想定より低いですね」
資料をめくりながら、若い委員が言う。
「権利は保障されていますが、実際にはほとんど使われていない」
グラフが表示される。
非表示設定者:全体の0.8%。
「理由のアンケートでは、“不信感を持たれるから”が最多です」
室内に、小さな笑いが起きる。
「まあ、そうでしょうね」
「隠す理由があるのでは、と見られる」
尾崎は資料を見つめた。
非表示は合法だ。
明確に保障された権利だ。
だが、実際には使われない。
使えば、周囲の視線が変わる。
「何か問題があるのでは」
そう推測される。
制度は、強制していない。
ただ、表示する方が自然な空気を作った。
「このままで問題はありません」
別の委員が言う。
「選択肢はある。使わないのは個人の判断です」
合理的な意見だった。
尾崎も、反論はしなかった。
帰宅途中、駅前の広場で小さな集まりがあった。
十数人ほど。
プラカードを持っている。
《表示は任意であるべきだ》
《沈黙も貢献だ》
声は大きくない。
通行人の多くは視線を向けない。
尾崎も、立ち止まらずに通り過ぎた。
だが、ひとりの老人と目が合った。
白髪の男性。
端末を持っていない。
胸元に、古い型の携帯電話がぶら下がっている。
表示機能のない機種だ。
「若い人は、大変だね」
すれ違いざまに、老人が言った。
独り言のようだった。
尾崎は振り返らなかった。
翌週、別の通知が届く。
《公共貢献指数 更新》
尾崎の数値が、わずかに上昇していた。
審査委員会受諾による加点。
グラフは、さらに安定した右肩上がりを描く。
完璧に近い履歴。
理想的な市民。
端末の画面に、自分の名前が表示される。
尾崎 誠。
その横に、青い帯。
役職名。
指数。
推薦履歴。
すべてが、整然と並んでいる。
尾崎は、ふと考える。
もし、これを非表示にしたら。
数字も、帯も、役職も。
空欄になる。
だがその空欄は、沈黙ではない。
「何かを隠している」という表示になる。
尾崎は画面を閉じた。
社会は、今日も正しく表示されている。
彼もまた、正しく表示されている。
それが息苦しいのかどうか、
まだ言葉にはできなかった。
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