【短編小説】防波堤のない港
敷き詰められた桟橋の上を歩く。
質の悪い桟橋は板と板の隙間から黒い水が見える。
海だ。
防波堤はない。囲いの無い港からは遠くに大型タンカーが見える。夕方のオレンジと群青色の海に水平線だけが残る。
目の前には中型の漁船が数隻、静かに揺れている。輪郭がにじんでいた。太陽に引かれた夜の空に逆光のシルエットが溶けている。
その中の一隻、古い中型船体に人工的な赤い光が反射している。水面も赤い光を返す。
サイレンは無い。
中型船が桟橋に寄ってくる。
その船の中から白い制服の男が出てくる。帽子のつばが影になって目が見えない。
ロープが投げようとする乗組員を、その白い制服の男は一瞬、止めようとした。
手を伸ばし、空を掴む。まるで赤い光を握り込んだかのようだった。
乗組員の男が投げたロープは係柱に絡む。
制服の男は小さく頷き、船内から老婆を連れ出す。老婆は軽すぎるように見えた。布の塊のようだ。
制服の男はそのままためらいなく船を飛び降りる。
四、五メートルはある。
「危ねぇ」
声が出たのかどうか分からない。
板が軋む。
着地の瞬間、制服の男の身体は薄くなる。辞書のような厚みにまで身体を圧縮した。
ページの束のように平らになる。衝撃は音を立てずに拡散する。
次の瞬間、制服の男は原型を取り戻して歩き始めた。
皺一つない。
抱えられて一緒に飛んだ老婆も無傷だった。
桟橋が揺れる。
板がわずかに波打つ。敷き詰められた桟橋の隙間から黒い波が見える。
満潮だ、と誰かが言う。
おれの足元が柔らかくなる。板の下から水が滲む。靴底が湿る。
周囲にはいつのまにか数人のギャラリーがいる。顔が曖昧だ。全員、同じサングラスをかけている。
白い制服の男は歩いていく。今度は薄くならない。
その足元の板が、わずかに沈む。
防波堤はない。
赤い光が、水面からゆらゆらとこちらへ近づいてくる。
おれは赤い光に背を向けて歩き出した。
群青が深い。




