第86話: 接近
朝の光が図書室の窓から差し込んでいる。私は昨日借りた魔法理論の本を読みながら、静かな時間を楽しんでいた。
この屋敷に来てから、図書室はお気に入りの場所になった。本の匂い、革張りの椅子の感触、窓から見える庭園の緑。すべてが心地よくて、前世のようにパソコンの前で過ごす時間よりも、ずっと穏やかな気持ちになれる。
ページをめくろうとした時、扉が開く音がした。
「おはよう、エリアナ」
振り返ると、侯爵様が立っていた。
「おはようございます」
私が答えると、侯爵様は微笑んで部屋に入ってきた。そしてためらうことなく、私の隣の椅子に座る。
「何を読んでいる?」
「魔法の基礎理論についての本です」
本を見せると、侯爵様は少し驚いたような顔をした。
「難しくないか?」
「少し難しいですけど、興味深いです」
「真面目だな、君は」
侯爵様の声に、温かみが混じっていた。
私たちは並んで座り、それぞれの本を読む。時折、侯爵様が何か説明してくれたり、私が質問したりする。会話は途切れ途切れだけれど、沈黙も心地よい。
こんな朝が、自然に感じられるようになっていた。
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午後、私は高い棚の本を取ろうとして、背伸びをしていた。
「これ、取れない...」
指先がようやく本の背に触れるけれど、引き出せない。もう少し、あと少し。
その時、背後から長い腕が伸びてきて、難なく本を取った。
「これか?」
侯爵様の声が、すぐ後ろから聞こえる。
振り返ると、侯爵様が本を持って立っていた。あまりにも近くて、息が止まりそうになる。
「は、はい。ありがとうございます」
本を受け取る時、指が触れ合った。
ドキリとした。
侯爵様も一瞬、動きを止めた。
私たちの視線が絡み合う。侯爵様の瞳が、いつもより深い色をしている。何か言いたげな表情だけれど、言葉は出てこない。
「...すまない」
侯爵様がそう言って、一歩下がった。
でも、胸の鼓動は収まらない。
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廊下を歩いている時、侯爵様とすれ違った。
「エリアナ」
呼び止められて、立ち止まる。
「はい?」
侯爵様は何か言いかけて、でも言葉を飲み込んだ。そしてただ、じっと私を見つめている。
その視線が、熱い。
以前とは明らかに違う。何かが変わった。侯爵様の目が、私を追っている。
「あの...何か?」
私が尋ねると、侯爵様は首を横に振った。
「いや、何でもない」
でも、通り過ぎる時の侯爵様の表情が、記憶に焼き付いた。
私も、侯爵様を意識してしまっている。
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昼食の時間。
侯爵様と向かい合って座る。マーガレットさんが運んできた料理は、いつものように美味しそうだ。
でも、今日は食事に集中できない。
侯爵様の視線を感じる。
顔を上げると、侯爵様が私を見ている。
目が合うと、侯爵様は視線を逸らさない。
「...美味しい、ですね」
私が話題を探すと、侯爵様は微笑んだ。
「そうだな」
でも、侯爵様の視線は相変わらず私を捉えて離さない。
顔が熱くなってくる。こんなに見つめられたら、落ち着いて食べられない。
「あの、侯爵様?」
「うん?」
「何か、顔に付いてますか?」
「いや」
侯爵様は首を横に振った。
「ただ、君を見ていたかっただけだ」
率直な言葉に、心臓が跳ねた。
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夕方、庭園を散歩していた。
薔薇が咲き始めている。赤、白、ピンク。色とりどりの花が、夕日に照らされて美しい。
「エリアナ」
振り返ると、侯爵様が立っていた。
「探していた」
「私を、ですか?」
「ああ」
侯爵様が近づいてくる。
「一緒に歩かないか」
「はい」
私たちは並んで、庭園の小道を歩き始めた。
夕日が長い影を作る。侯爵様の影と私の影が、重なり合っている。
「この庭園は、母が作ったものなんだ」
侯爵様が言った。
「お母様が?」
「ああ。母は花が好きだった。特に薔薇を」
侯爵様の声に、懐かしさが滲んでいる。
「綺麗ですね」
「母もそう言っていた」
侯爵様が立ち止まり、一輪の白い薔薇を見つめる。
「君も、母を気に入っていたと思う」
「...そうですね」
私もその薔薇を見つめた。
「エリアナ」
侯爵様が私の名前を呼ぶ。
振り返ると、侯爵様が真剣な顔をしていた。
「何か、伝えたいことが?」
侯爵様は少し迷うような表情を見せたけれど、結局微笑んで首を横に振った。
「いや、今日はやめておく」
「...はい」
でも、侯爵様の手が、私の手にそっと触れた。
一瞬だけ。
でも、その温もりが残っている。
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夕食の後、二人でお茶を飲んでいた。
マーガレットさんが淹れてくれた紅茶は、優しい香りがする。ベルガモットの香り。
「今日は、色々とすまなかった」
侯爵様が言った。
「え?」
「君を困らせてしまったかもしれない」
侯爵様の表情が、少し申し訳なさそうだ。
「そんなことありません」
私は首を横に振った。
「ただ、少し驚いただけです」
「驚かせてしまったか」
侯爵様が苦笑する。
「でも、嫌ではなかったです」
そう言ってから、自分の言葉に驚いた。
侯爵様は目を見開き、それから穏やかに微笑んだ。
「そうか」
その笑顔が、本当に優しくて。
心が温まる。
私たちはお茶を飲みながら、他愛もない話をした。最近読んだ本のこと、庭園の花のこと、明日の予定のこと。
特別なことは何も話していない。
でも、この時間が大切に思える。
侯爵様の優しい笑顔を見ていると、安心する。
夜が更けていく。
窓の外には星が輝いている。
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部屋に戻ってから、ことりに相談してみた。
> 今日、侯爵様の態度が以前と違う気がする。どうしてだろう?
【ことり】
*************
確率: 68%
あなたの観察は正確だと思われます。侯爵様の最近の行動パターンを分析すると、以下の変化が見られます。
1. 物理的距離の縮小(図書室での隣席、廊下での停止)
2. 視線の頻度と持続時間の増加
3. 言葉にならない感情表現の増加
これらは「好意」の兆候である可能性が高いです。ただし、あなた自身の気持ちも大切です。どう感じていますか?
*************
[魔力: 140/150] (-10)
ことりが質問を返してきた。
私の気持ち。
確かに、それが一番大事かもしれない。
私は侯爵様を、どう思っているんだろう。
胸の鼓動が速くなる。
顔が熱くなる。
視線が合うと、ドキドキする。
これは...
窓の外を見上げる。星空が広がっている。
明日も、侯爵様と一緒に過ごすんだ。
その考えだけで、胸が高鳴った。
**次回予告**
舞踏会への招待状が届いた。侯爵様が私を誘ってくれる。一緒に出席することになるけれど、その前にドレスを選ばなくては。リリーと一緒に街へ繰り出すことに。侯爵様も同行して、青いドレスを選んでくれた。「君が一番美しい」。その言葉に、私は...
第87話: 舞踏会への招待。




