第39話: 嫉妬の炎
朝、廊下の角を曲がった瞬間、笑い声とともに専門用語が矢のように飛んできた。侯爵とセレスティアの声だ。扉の隙間から漏れる二人のやり取りは、私の知らない世界の速さで回っている。
「位相のズレを補正すれば――」という言葉が流れて、私の耳はその一単語ごとに体温を奪われるようだった。
「触媒の配列をこう変えると、反応が安定するはずだわ」
「なるほど、では軸の位相を考慮してみよう――」
言葉がスピードを上げるたびに、胸の奥の何かが引き伸ばされ、息が詰まるような感覚が走った。熱を帯びた楽しさは私には届かない領域で、二人は楽しげに笑い合っている。置いていかれたという感覚が、細く刺さる。胸が痛い。嫌だ。だけど――好きだ。
私は扉にもたれ、息を整える。誤解かもしれない。侯爵が私を大切にしてくれていないわけではない。だけど心は正直で、問いかけるように震えていた。
「私は、必要とされていないのかな」
――その言葉は、まだ固まらない疑問だった。
気持ちを押し込めるために、訓練場へ向かった。体を動かすと、心の重さが少しばかりこなれそうな気がする。私はいつもより多めに魔力を流して、解析式の反復練習を繰り返した。今日は解析式の中でも、位相差に起因する誤差補正の手順を重点的に反復した。指先が冷たくなる頃、汗が額を伝う。指先に小さな痙攣が走るのを感じた。
けれど、頭の片隅にはいつもあの笑い声が残っている。技術の差は努力で埋められる。そう信じている自分と、どうしても噛み合わない悲しさが交錯する。
訓練の合間、私は小さな端末を取り出してことりに打ち込みを送った。心の整理と、学習の優先順位について短く相談するつもりだった。
【ことり】
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感情の高ぶりは学習効率を下げる可能性があります。気持ちの整理を優先し、短い休憩を挟むルーチンを提案します。(確率: 86%)
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[魔力: 55/110(消費: 10)]
言葉は冷静で、的確だった。ことりは実務的に、しかし必ずしも冷たくはない。私の乱れた気持ちを「エラー」としてではなく、人間の反応として扱ってくれるのが救いだ。
短い休憩を一つ入れて、私は気持ちを整え直した。分析式に戻ると、手は以前より少し滑らかに動いた。嫉妬の火種を消すのではなく、小さな灰に変える作業だ。
夕方、再び研究所に戻る。共同作業の空気は温度を保っていて、私は会話に入ろうとしたが言葉がひっかかる。反応の速さ、言葉の重なり、専門知識の泳ぎ方。そこに立っているだけで、自分の裾が水を含んでいくような感覚になる。
ふと、セレスティアの顔が私に向いた。悪気はない。しかし、好奇心の奥にどこか計算めいた光が瞬いた。
「あなた、疲れてる?」
その一言に、体の奥がびくりと反応する。侯爵の目もすぐに私へ向いた。彼は静かに立ち上がると、そっとブランケットを取り上げて私の肩に掛けた。視線を落とし、低めの声で言った。
「今日は少し休もう。長く続けるのはやめよう」
私が驚いた顔をすると、侯爵はいつもの薄い微笑を浮かべる。命令というよりも守るための介入だ。言葉にはいつも“私が守る”という空気が含まれていて、反射的に心が安らぐ一方で、頬が熱くなるのを止められない。
休憩室では、リリアが短く顔を出してくれた。焼き菓子と紅茶を差し出し、彼女の明るい声が部屋の隅々まで広がる。
「変な顔してる。恋する顔だよ、それ」
私は咄嗟に否定するが、リリアは軽く肩をたたいて笑う。その仕草の優しさに、胸がぎゅっとなる。毛布を巻き、紅茶の湯気を吸い込むと、心が少しだけ落ち着いた。
夜、ベッドに潜り込むと静けさが広がる。思えば、胸の痛みは嫉妬の形を取った“好き”の証だと、ほんの少しだけわかった気がした。
嫉妬するほど、私は彼のことを気にかけている。嫉妬は弱さではなく、好きという事実の裏返し――そんな言葉が、薄暗がりの中できらりと光る。
その夜、使用人が小さな便りを届けた。侯爵からだという。中身は短い文面で、今晩、応接室でお茶を共にしたいという誘いだった。
心臓がまた早鐘を打つ。怖い。誤魔化したい気持ちもある。けれど、逃げたくはない。私の中の何かが、彼の向き合いを望んでいると告げる。
私は便箋を胸に抱え、窓辺の月を見つめた。答えは決めていない。だが、一つだけ確かなことがある。今は逃げず、向き合ってみようということだ。
灯りの縁で、胸の中の炎は小さく揺れている。次は、きっと彼と真正面で向き合う時間が来る。
**次回予告**
嫉妬の炎がもたらす対話――侯爵の気遣いが、エリアナの心を溶かす。
第40話「侯爵の気遣いと森の調査」をお楽しみに!




