第37話: 日常の幸せ
朝の光が、ダイニングの木肌をやわらかく照らしていた。
席に着く前から、侯爵が私の紅茶を手に取る。湯気が顔に当たらないよう、カップの向きをそっと変えた。
たったそれだけの仕草が、胸に刺さる。
「砂糖は、控えめで良かったか」
当たり前みたいに言われて、私は頷くしかない。
隣でリリアが、吹き出しそうなのを堪えている。メイド長は何も言わず、私の前にパンを置いた。その配置まで、私が食べやすい順になっている。
否定したい。
ただの気遣いだ、と。
でも、嬉しさが先に来てしまう。顔に出るのが分かって、私はわざとパンに視線を落とした。
リリアが、目配せで言う。
――それ、絶対特別扱い。
侯爵が一瞬だけ、私を確かめるように見た。
胸がきゅっと痛んで、それからすぐ温かくなった。痛みと温もりが同じ場所にある。
朝食の一時間が、いつもより濃密だった。
午前は地下研究所へ。
古い書架の匂い。蝋の残滓。紙粉が指先にまとわりつく。私はこの空気を嫌いじゃない。
侯爵はいつもより早く現れ、作業の区切りを短くすると告げた。
「休憩を増やす。長く続けるより、確実に進める」
保護する言葉なのに、命令の芯がある。
私が反論しかける前に、彼は淡く笑った。
「君の調子が一番大事だ」
フィリップが資料を抱えて現れ、三人の作業が始まる。
鍵。
触媒。
誓い。
散らかったメモを束ね直すと、次の調査対象が少しだけ輪郭を持つ。輪郭が見えるだけで、胸の焦りが和らぐ。
私は確認のため、ことりを起動した。
> 優先して当たるべき順番を教えて。いま整理しているのは「鍵/触媒/誓い/外部資料」。
【ことり】
***************
優先度は「触媒→誓い→外部資料」の順が効率的です。
「鍵」は併走して照合してください。
(確率: 78%)
***************
[魔力: 75/105(-10)]
三十八パーセント。低い。けれど、それでいい。
侯爵は表示をちらりと見たが、何も言わない。私がことりに頼りきりにならない距離を、彼はちゃんと守ってくれる。
「その順で進めよう。無理はするな」
短い言葉の中に、私を守る意志がある。
午後。
応接室で二人きりのお茶になった。窓の外の風が静かで、カップの触れ合う音が小さく響く。
「最近、眠れているか?」
業務の確認ではない。私生活に踏み込む気遣い。
私は「はい」と答えるだけなのに、声が熱を帯びる。自分の声が自分じゃないみたいで、恥ずかしくなる。
侯爵はそれ以上深く聞かず、ただ頷いた。
その頷きが、許しみたいで、胸が柔らかくなる。
夕方はリリアの部屋。
焼き菓子のバターの香りと、紅茶の湯気。椅子に座ると、リリアが櫛を手に取った。
髪を梳かれる音は、いつも通りのリズムで、心の奥の固さをほどいていく。
「ねえ、最近。幸せそうな顔してる」
私は否定しかけて、できなかった。
代わりに、枕に顔を埋める。リリアが笑い、私の背中を軽く叩いた。
「ほら。そういうとこ」
安心が、恥ずかしさの上に覆いかぶさる。
私は心の整理をしたくて、ことりに短く訊いた。
> いまの私は、どう振る舞うべき? 幸せなのに、焦りも同時にある。
【ことり】
***************
感情は「愛情」と「時間制約による焦燥」が混在しています。
推奨:
1) 体調管理と睡眠を優先
2) 調査の優先度を固定し、過剰な自己負荷を避ける
決断はあなた自身のペースで。
(確率: 38%)
***************
[魔力: 65/105(-10)]
四十六パーセント。
低い。けれど、それでいい。
恋の扱い方に、万能な答えなんてない。ことりは選択肢をくれるだけで、背中を押すのは私だ。
リリアが、紅茶を差し出した。
「ね、焦ってる顔してると、幸せも逃げちゃうよ」
冗談のようで、核心を突く。
私は笑って頷いた。温かいカップが手のひらを温める。
夜。
用事で書斎に立ち寄ったとき、机の端に魔法学院の紋章が押された封書が見えた。封はまだ開かれていない。
私は触れない。ただ、宛名の隣に走る文字を目で追ってしまう。
「セレスティア」
名前を見ただけで、胸がざわついた。
理由が分からない。嫉妬だなんて、そんな幼い感情だと否定したい。
でも、心は反応してしまう。
就寝前、私はことりに確認した。
> 「セレスティア」という名の印象と、学院からの来客が意味することを。
【ことり】
***************
『セレスティア』は学究的・高位の出自を示唆します。
来訪は情報源として有益かもしれません。
(確率: 71%)
***************
[魔力: 55/105(-10)]
指針としては十分。
私は枕に手を置き、侯爵のことを思った。
最近の優しさは、礼節以上の温度を持っている。だからこそ、周囲も気づき始める。
廊下ですれ違うメイドたちの小声。食堂で交わされる噂。メイド長が意味ありげにこちらを見る視線。
“特別扱い”は、いつか屋敷の外へも漏れるだろう。
嬉しい。
怖い。
半年という期限と、解けていない謎が、私の恋の輪郭を曇らせる。
それでも今夜は、リリアの笑い声と、侯爵の沈黙の保護を胸にしまって眠りについた。
日常が幸せだと知ってしまった。
そして、新しい風が来る気配も。
**次回予告**
日常の幸せの向こうに――
第38話「ライバルの登場と監視の影」では、学院からの来客『セレスティア』の登場で波乱が近づく。お楽しみに。




