第36話: 混乱と時間の焦燥
朝の地下研究所は、いつも通りひんやりしていた。
石壁に湿り気が残り、紙の匂いが静かに満ちる。私は机に向かい、写本を写す――はずだった。
ペン先が止まる。
いつもなら流れるように続くはずの文字が、今日はやけに歪んで見えた。インクが紙ににじみ、黒い点が余計に増える。
誤写に気づいた瞬間、胸がきゅっと縮んだ。文字のせいじゃない。私のせいだ。
書斎の灯り。暖炉の音。ページを押さえた指先の熱。
頭の中の“昨夜”が、仕事の手元を狂わせている。
「……エリアナ?」
顔を上げると、フィリップがこちらを見ていた。彼は相変わらず研究者らしい無頓着さを装っているけれど、目だけは誤魔化せない。
「疲れてるんじゃないか」
私は笑って、肩をすくめた。
「平気よ。インクが少し、濃いだけ」
嘘だ。
私は、自分の気持ちをもう自覚しているのに、まだ扱い方を知らない。自覚した恋が、こんなふうに日常へ染み出してくるなんて。
フィリップはそれ以上追及しなかった。ただ、机の上の写本を一瞥してから、短く言う。
「無理するなよ」
その言葉が優しいほど、胸が痛んだ。
午前の作業を切り上げ、部屋へ戻った。
扉を閉めた途端、静けさが押し寄せる。私は机の引き出しから、水晶の小箱――ことりを取り出した。
相談するのは怖い。
答えが出たら、戻れなくなる気がする。けれど、もう戻れない場所に立っているのも分かっている。
今朝の魔力残量は、六十。たった一度の相談で十は減る。
それでも私は、問うてしまった。
> 私のこの気持ちは、恋……でいいの?
箱の表面が淡く光り、文字が浮かぶ。
【ことり】
***************
あなたの感情は「恋」である可能性があります。
ただし、確証は提示できません。
感情は分類できますが、決めるのはあなた自身です。
あなたの気持ちを大切にしてください。
(確率: 38%)
***************
[魔力: 50/105(消費: 10)]
三十八パーセント。
数字の低さに、思わず笑いそうになった。恋のことを、機械のように判定できるはずがない――分かっていたのに、どこかで期待していた。
それでも、ことりの言葉は胸に残った。
“決めるのはあなた自身”。
前世の私は、AIに検索させ、最短距離の答えを拾い、決めた気になっていた。けれどここでは、心は検索で埋まらない。
ことりの冷静さは、前世のAIに似ている。
でも、その冷静さの端に「あなたの気持ちを大切に」と添えるところが、こちらの世界のことりらしい。万能じゃない。代わりに決めてはくれない。その制約が、今の私にはありがたかった。
夕方、私はリリアの部屋を訪ねた。
扉を開けると、甘い香りがふわりと流れ出てくる。紅茶の湯気と、焼き菓子のバターの匂い。窓辺には夕焼けが差し、部屋の空気が柔らかい。
「ちょうどよかった。座って」
リリアは慣れた手つきで私を椅子に座らせ、櫛を手に取った。
髪を梳かれるたび、櫛が髪をすべる音が小さく響く。指先の温度が、頭皮から心までほぐしていく。
私は昨日の書斎のことを話した。視線の交錯。触れた指先。言いかけて止めた言葉。
それから、ことりの返答のことも。
リリアは少しも悩まない顔で、笑った。
「それ、恋でしょ。答えは短いわ」
胸の中で固まっていた何かが、すっと溶けた。
恋だと呼んでいい。そう言ってもらえただけで、足元が少しだけ安定する。
でも、リリアはすぐに私の手を取り、笑みを引っ込めた。
「……でも、引っかかってる。エリアナ、顔がずっと固い」
私は視線を落とした。
言うつもりはなかった。言ってしまえば現実になって、時間が加速してしまう気がして。
それでも、もう一人で抱えるのは限界だった。
「侯爵様には……期限があるの」
自分の声が震えるのが分かった。
「半年。半年で、解決しなきゃいけない」
リリアの目が真剣になる。
「半年……短いわね」
彼女は一息置いて、私の指をぎゅっと握った。
「でも、エリアナ。全部一人で抱え込まないで。私たちがいること、忘れないで」
優しさが、重い。
恋の喜びは柔らかいのに、使命は冷たい。胸の中で二つがぶつかり、息が詰まる。
転生直後の孤独がよみがえる。冷たいベッド。誰にも頼れない夜。
けれど今は、温かい紅茶が手のひらにあり、髪を梳く指があり、言葉にしても受け止めてくれる友人がいる。
私は、泣きそうになるのを堪えた。
リリアが焼き菓子を差し出す。口に含むと、甘さがじんわりと広がり、胸の奥の硬さが少し緩む。
「大丈夫よ。泣きそうになったら、私が強くしてあげる」
その冗談めいた声に、私は笑ってしまった。笑えるだけで、今日の不安が少し軽くなる。
夜、部屋へ戻る廊下で、私は自分が音に敏感になっているのに気づいた。
遠くの足音。扉の向こうの気配。誰かが話す声。
以前はただの屋敷の生活音だったのに、今はそこに“侯爵”を探してしまう。
気配ひとつで胸がざわつく。嬉しいのに怖い。守られたいのに、自分で守りたい。
私は胸に浮かぶ名前を、指先でそっとなぞった。
半年で呪いを解けるのか。本当に間に合うのか。
不安は消えない。けれど、もう一人ではない。
明日から、私は私の足で動く。恋も使命も、両方抱えたまま。
**次回予告**
恋の実感と時間の焦燥――
第37話「日常の幸せ」をお楽しみに。




