第35話: 気づきの瞬間と監視者の影
夜の廊下は、音が大きい。
自分の足音が、石床に小さく返ってくる。それだけで、胸の鼓動まで露わになる気がして、私は歩幅を抑えた。
腕の中の資料は、紙の角が指に当たって少し痛い。痛みがあるせいで、余計に今夜が現実だと思い知らされる。
フィリップは研究室に籠もっている。リリアも用事で外出中だ。
だから今夜、この屋敷の静けさは、ひどく濃い。――そして、その静けさの中心に、侯爵の書斎がある。
資料を返すだけ。そう言い聞かせても、扉の前で息が浅くなった。
私が彼を好きだと、もう自覚している。
なのに、近づくほどに、その事実が新しくなる。恥ずかしくて、怖くて、それでも嬉しい。
知っているはずの感情に、何度も足元をすくわれる。これが恋だと呼ぶものだと、ようやく受け入れたばかりだから。
そっと扉を開ける。
暖炉の微かな爆ぜる音。紙とインクの匂い。紅茶の香りが柔らかく漂っている。書斎の灯りは、夜の冷たさを遠ざけるみたいだった。
机に向かう侯爵の背中が見える。背筋が伸びていて、頼もしい。
私は資料を抱え直し、静かに歩み寄った。
「侯爵様、資料をお返しします」
彼が顔を上げて、微笑んだ。
「ありがとう、エリアナ。……少しだけ、手を貸してくれないか?」
頼まれると、断れない。断りたくない。
私は頷き、向かいの椅子に腰を下ろした。椅子が小さく軋み、心臓がそれに合わせて跳ねる。
机の上には古代文献が広げられている。二人でページを押さえ、訳語の候補を整理する。
念のため、ことりに短く確認した。
恋のことを訊けば、きっと確率は低い。答えは出ても、私の中の決心までは埋めてくれない。
【ことり】
*************
訳語の候補は以下の通りです。
(確率: 75%)
*************
[魔力: 60/105(-10)]
七十五パーセント。十分に参考になる。
私は候補を鵜呑みにせず、自分の言葉で文脈に合わせて組み直した。侯爵が目を細め、頷く。
「……見事だ。君の理解は、本当に素晴らしい」
褒められたのは能力のはずなのに、胸の奥が熱くなる。声の温度が、私の内側まで届く。
そのまま、短い制御練習に移った。
指先に魔力を集め、流れを整える。呼吸に合わせて、漏れを抑える。紙の上の文字が一瞬だけ淡く光り、すぐに元へ戻った。
[魔力: 25/105(-35)]
――重い。
一気に削れた分、肩の内側がじんと痺れる。指がわずかに震えた。
残りは二十五。明日になれば回復するとはいえ、今夜はもう無理をしない方がいい。頭では分かっているのに、心が先に「もっと」と言う。
それでも、達成感がある。転生したばかりの頃は、魔力の感触すら掴めなかったのに。
「よくやった」
侯爵が低い声で言い、私の手元へそっと手を添えた。矯正するように、指の角度を少しだけ変える。
皮越しではない温度が、伝わった。そこだけが熱い。
私は思わず息を止める。
……ことりに頼れば、効率のいい答えは出る。
でも今夜は、違う。彼の前で、私自身の頭で追いつきたかった。追いつける自分でいたかった。
同じページを押さえた指先が触れる。
ほんの一瞬。けれど、心臓は正直だった。胸の鼓動がうるさくて、視線を逸らす逃げ場がない。
侯爵が私の目を見た。
その眼差しは、評価ではない。もっと近い。もっと危うい温度を含んでいる。
「エリアナ、君は本当に……」
言いかけて、彼は言葉を止めた。
何かを言うべきだと分かっていて、言わない。踏み込むべき線があるのだと、私にも分かった。
――今は、まだ。
その抑制が、甘い。
過去の孤独な夜が、ふと脳裏をよぎる。冷たい部屋。誰もいない静けさ。転生直後の不安。
それと、今の温もり。
この差が、私の恋心を容赦なく照らした。嬉しいのに怖い。大切だから、失うのが怖い。
作業を切り上げる頃には、深夜手前だった。
侯爵は私を部屋まで送ってくれた。廊下の空気は冷たく、けれど彼の歩調は私に合わせている。
「今日はよく休みなさい」
扉の前で、一拍だけ沈黙が落ちた。
暖炉の残り香が髪に移っている気がする。紅茶の温もりが、まだ喉の奥に残る。扉の向こうは静かで、守られている実感だけがある。
彼の手が、戸口で私の肩から離れる。名残りが肌に残り、私はそれを振り払えない。
私は小さく頷き、部屋に入った。
ベッドに腰を下ろしても、鼓動は落ち着かない。
「これは、恋……」
言葉にしてしまうと、余計に現実になる。胸が苦しい。でも、逃げたくない。
その時。
窓の外、森の奥で青白い光が一瞬だけ走った。
冷たい窓ガラスに指先を当てると、熱が奪われる。外気は静かで、だからこそ光だけが異物のように浮いた。
第31話の夜に見た、不穏な光。あれと同じだ。
私は迷った。寝てしまえば、見間違いだと言い訳できる。
けれど、守られているからこそ、黙ってはいけない。
私は廊下へ飛び出し、侯爵の部屋を叩いた。
「侯爵様、森に光が……。誰かがいるかもしれません」
扉がすぐに開く。侯爵の表情が、切り替わる。
「分かった。警備を強化する」
短い命令。廊下の奥で執事が動き、近衛が音を殺して走った。夜の静けさが、別の質へ変わる。
「誰かが我々を監視している可能性がある」
侯爵は真剣な目で言い、私の肩に手を置いた。
「必ず守る」
その手は温かい。
安心と同じくらい、森の光が不気味に残る。
遠ざかる足音。階段を下りる気配。夜の屋敷が、見えない緊張で満ちていく。
明朝、ことりと――戻ってきたリリアにも相談しよう。私はそう決めて、ようやく息を吐いた。
**次回予告**
恋の自覚がもたらす混乱――エリアナの心が揺らぐ。
第36話「混乱と時間の焦燥」をお楽しみに!




