第34話: 侯爵の優しさ
朝の光が差し込む窓辺で、リリアと私は並んで靴を履いていた。屋敷の外は春の気配が濃く、木々の新芽がやわらかく揺れている。リリアが「今日は外の空気を吸いに行こうよ」と笑い、私は少しだけ戸惑いながらも頷いた。
「最近、エリー、研究ばかりで息詰まってない?」
「……そうかも。気づいたら、ずっと部屋にこもってた」
リリアは私の肩を軽く叩き、「ちゃんと息してる?」と冗談めかして笑う。その明るさに、胸の奥がふっと軽くなる。私は、リリアのこういう無邪気な優しさに、どれだけ救われてきたんだろう。
屋敷を出て、林道を歩く。小さな村の手前まで、二人でゆっくりと歩を進めた。道端には春の花が咲き、遠くで小鳥のさえずりが聞こえる。リリアは市場の話や薬草の話をしてくれて、私は久しぶりに“日常”の空気を吸い込んだ。胸の奥に、少しずつ温かいものが広がっていく。
通り過ぎるメイド長が外套の縁を軽く直す仕草を見て、私は小さな安心を覚えた。
「エリー、最近の手紙、前より柔らかい感じがするよ。侯爵様の話も多いし」
「そ、そんなこと……」
リリアの視線がからかうように揺れる。私は顔が熱くなるのを感じて、慌てて話題を変えた。でも、心のどこかで、リリアには全部見透かされている気がする。
林道の途中、ふいに空が曇り始めた。風が冷たくなり、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてくる。
「わ、雨……!」
「急ごう、あっちに木陰がある!」
二人で駆け寄り、木の下に身を寄せる。だが、雨脚はすぐに強くなり、私たちの肩や髪を濡らしていく。私は寒さに身を縮め、思わずくしゃみをした。濡れた髪が首筋に張り付き、冷たさがじわじわと体に染み込んでくる。
「大丈夫?」
リリアが心配そうに私の手を握る。その手がほんのり温かい。リリアは小さく呪文を唱え、私の体にそっと手をかざした。淡い光が指先から広がり、冷えた体がじんわりと温まっていく。魔法のぬくもりが、心の奥まで届く気がした。
「……ありがとう、リリア」
「こんなの朝飯前だよ。エリーが風邪ひいたら大変だもん」
リリアの魔法は優しく、私の体の芯まで温めてくれる。雨音の中、二人で肩を寄せ合いながら、私は心の奥に安心が広がるのを感じた。リリアの横顔を見て、私は思わず微笑んだ。
その後、屋敷に戻ってから私は短く制御練習を一つ行った。
[魔力: 70/105(-25)]
やがて、遠くから馬車の車輪の音が近づいてきた。林道の向こうに、侯爵様の馬車が現れる。御者台には侯爵様自身が座っていた。
「エリアナ!」
侯爵様が馬車を止め、急いで駆け寄ってくる。濡れた私たちを見て、眉をひそめた。その視線は、私のことしか見ていないようで、胸がざわめく。
「大丈夫か? 怪我はないか」
「はい、リリアが魔法で温めてくれました」
侯爵様は安堵の表情を浮かべ、私の肩に自分の外套をそっと掛けてくれる。その手が私の髪に触れ、濡れた髪をハンカチで優しく拭ってくれた。指先がそっと耳元をなぞるたび、心臓が跳ねる。
「無理をするな。体が冷えているだろう」
侯爵様の手の温もりが、髪を通してじんわりと伝わる。心臓がうるさく鳴り、言葉が出てこない。リリアが隣で、すべてを見ているような顔で微笑んでいる。その視線に、ますます顔が熱くなる。
「エリー、顔が真っ赤だよ?」
「そ、そんなこと……」
侯爵様は私の手を取り、馬車へと導いてくれる。リリアも後ろからそっと背中を押してくれた。私は、二人に支えられていることを実感する。
馬車の中は、外の雨音が嘘のように静かだった。侯爵様は私の隣に座り、外套で私を包み込むようにしてくれる。リリアは向かいの席で、にこにこと私たちを見守っている。
「本当に、無理はしないでほしい。君が倒れたら、私は……」
侯爵様の声が低く、どこか切実だった。その言葉の端に、独占欲のようなものが滲んでいる気がして、胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになる。私は思わず俯いた。
「……ごめんなさい。私、つい夢中になってしまって」
「君が頑張り屋なのは知っている。でも、時には誰かに頼ってもいいんだ。他の誰にも、こんなふうに心配はしない」
侯爵様の言葉が、心の奥に優しく染み込んでいく。リリアが「エリーは昔から頑固だから」と冗談めかして笑い、場の空気がふっと和らいだ。リリアの笑顔に、私は救われる。
屋敷に戻ると、すぐに暖炉のある応接室に案内された。メイドたちが温かいスープと紅茶を用意してくれる。私は侯爵様の外套を返そうとしたが、「そのままでいい」と優しく制された。
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、部屋の空気を柔らかく温めている。私はスープを一口飲み、体の芯から温まるのを感じた。バターの香りが鼻をくすぐり、紅茶の湯気が頬を撫でる。五感すべてが、安心に包まれていく。
「エリー、もう大丈夫?」
リリアが心配そうに覗き込む。私は頷き、「ありがとう、二人とも」と微笑んだ。リリアの手がそっと私の背中を撫でてくれる。
侯爵様は私の隣に座り、「無理は禁物だ」と改めて諭してくれる。その声は優しく、どこか甘い響きが混じっていた。私は、侯爵様の横顔を盗み見てしまう。胸の奥が、じんわりと熱くなる。
リリアが「エリー、侯爵様に甘えちゃえば?」とからかい、私は思わず顔を赤らめる。侯爵様も少しだけ照れたように微笑み、三人の間に温かな空気が流れた。リリアの“見守り”の視線が、私の背中をそっと押してくれる気がした。
スープの香り、紅茶の湯気、暖炉の温もり。雨で冷えた体が、ゆっくりと解けていく。私はこの安心感に包まれながら、ふと侯爵様の横顔を盗み見た。なぜこんなに胸が高鳴るのか、自分でも分からない。ただ、守られていることの甘さに、心がふわりと浮かぶ。
その後、リリアと少しだけ昔話をした。侯爵様は静かに私たちの会話を見守ってくれている。リリアが「エリー、幸せそうだね」と囁き、私は小さく頷いた。リリアの言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
夜になり、水を取りに廊下へ出ると、書斎の扉の下から灯りが漏れていた。静かな夜の廊下、私はふと足を止める。扉の向こうに、侯爵様の影が揺れているのが見えた。
(……会いたい。どうして、こんなに)
自分でも驚くほど自然に、そんな気持ちが胸に浮かぶ。今日一日、侯爵様の優しさに触れて、私は少しだけ自分の心に素直になれた気がした。期待と戸惑いが入り混じる中、私はそっと扉に手を伸ばしかけて、思いとどまる。
部屋に戻り、ベッドに横たわる。雨の音はもう止み、静かな夜が広がっている。侯爵様の手の温もり、リリアの魔法、暖炉の火、すべてが私の心を優しく包み込む。胸の奥に残る熱は、きっと今日の出来事のせい。
(……ありがとう。明日も、きっと新しい一日が始まる)
私はそっと目を閉じ、静かな余韻に身を委ねた。
**次回予告**
夜の書斎で、二人きり――エリアナの心がさらに揺れる。
第35話「気づきの瞬間と監視者の影」をお楽しみに!




