第26話: 西棟の声
夜、風が強かった。
窓を揺らす音に紛れて、もうひとつ――屋敷の奥から、小さな物音が聞こえた気がした。
金属が触れ合うような、乾いた音。
私はベッドの上で息を止める。
また、西棟?
あの場所は危険だと叱られた。けれど今は――私はひとりじゃない。
◇
私は上着を羽織り、廊下へ出て、侯爵様の部屋の前で立ち止まった。
迷って、でも叩いた。
扉が開き、寝支度をしていた侯爵様が現れる。
「エリアナさん?」
「すみません。……西棟から、音が」
侯爵様の表情がすぐに引き締まった。
「一人で行こうとしましたか」
「いいえ。……今回は、侯爵様と」
侯爵様は小さく頷き、外套を取った。
「一緒に行きましょう。ただし、私の指示に従うこと」
「はい」
心臓がうるさい。でも、隣にいる温度が、怖さを薄めてくれる。
◇
西棟の廊下は、空気が違った。
少しだけ甘い香り。古い薬草みたいな匂い。魔法灯の光が、壁の装飾を歪める。
「ここです」
侯爵様が足を止めた。
扉の隙間から、微かに光が漏れている。
侯爵様が手袋の上からノブに触れ、慎重に開けた。
――室内は、驚くほど整っていた。
埃ひとつない机。棚に並べられた瓶と器具。布で覆われた小物。
「……保管されてる」
「ルシアの私物です。……誰にも触らせないように」
言葉の端に痛みが混ざる。
私は息を吸い、目を凝らした。
机の隅に、小さな箱がある。鍵がかかっていない。侯爵様が一瞬躊躇して、それから蓋を開けた。
中には紙束。
日記――と呼ぶには、あまりにも丁寧に綴じられた記録。
◇
「読むのは、私だけにしてきました」
侯爵様が低く言う。
「でも、君には……必要かもしれない」
私は頷いた。
ページを開く侯爵様の指先が、ほんの少し震えていた。
『研究は進んでいる。魔法陣は、意志と構造の境界を越えられる。もし成功すれば――』
その次の行で、侯爵様が息を止めた。
『彼は、時間に縛られている。私は……彼を守りたい』
侯爵様の顔が苦しげに歪む。
私は胸が痛くて、何も言えなかった。
ルシアの文字は、研究の記録なのに、祈りみたいだった。
「侯爵様……大丈夫ですか」
「……大丈夫ではありません」
正直な答えに、私は喉が詰まった。
侯爵様はページを閉じ、目を伏せた。
「君に見せるべきか、迷いました」
「見せてください。……私、知りたいです」
知ることは怖い。でも、知らないまま隣にいるのは、もっと怖い。
侯爵様はしばらく黙ってから、頷いた。
「明日、改めて。読む許可を出します」
その言葉が、私の背中を押した。
◇
部屋を出たあと、廊下の角で立ち止まる。
侯爵様の手が、私の肩にそっと触れた。
「怖かったですか」
「怖かった。でも……侯爵様がいると、違います」
侯爵様の指が、ほんの少しだけ強くなる。
「君の勇気に、救われます」
その声が優しくて、私はうつむいて笑った。
**次回予告**
ルシアの日記を読む許可を得る。研究への情熱と、侯爵様への深い愛情。「彼を守りたい」という言葉に、私は複雑な気持ちになって――それでも、受け継ぐ決意をする。
第27話「ルシアの想いと研究」をお楽しみに!




