第24話: 舞踏会の練習
「舞踏会よ、舞踏会!」
朝食のテーブルには焼きたてのパンと果物、温かい紅茶の香りが漂っていた。窓から差し込む光が、リリーの髪をきらきらと照らす。
私はフォークを止め、リリーの突然の宣言に目を見開く。
「……舞踏会?」
リリーはパンをちぎりながら、得意げに頷く。
「そう。いつ招待が来てもおかしくないし、来なくても練習はして損しない」
私は心の中でため息をつく。舞踏会なんて、私には遠い世界だと思っていた。
「私、そんな余裕……」
言葉を濁すと、リリーがすぐに身を乗り出してきた。
「ある。だってね、あなた最近、緊張すると呼吸が浅い。踊りは呼吸よ。訓練よ」
訓練。
リリーの言い方が妙にそれっぽくて、私は思わず笑ってしまう。彼女の明るさに、少しだけ心が軽くなる。
「……誰が相手をしてくれるの」
「もちろん侯爵様」
「待って」
私の心臓が一回跳ねた。紅茶の香りが一層濃く感じられる。
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午後、広間に案内されると、侯爵様が先に待っていた。
窓から差し込む光が床に模様を描き、広間は静かな緊張感に包まれている。リリーは私の背中を押すように、そっと肩を叩いた。
「リリアさんから聞きました。特訓だそうですね」
侯爵様の声は穏やかで、でもどこか楽しそう。
「無理にとは言ってません。……言ってない、よね?」
私がリリーを見ると、彼女は澄ました顔で頷いた。唇の端が少しだけ上がっている。
「言ってない。お願いしただけ」
それは無理と同義だ。私は心の中で苦笑する。
侯爵様は小さく笑って、手袋を外した。
「では、基本の歩幅から。手を」
差し出された手を取る。指先が触れた瞬間、体温が跳ね上がった。手のひらがじんわりと熱くなる。
「力を抜いて。私に合わせてください」
頷いたのに、足はぎこちない。心臓の鼓動が早くなる。
「すみません……」
「謝らない。転びそうなら支えます」
その言葉の通り、私の腰に軽く手が添えられる。背筋が震えた。リリーが端で見守っているのが心強い。
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音楽が流れ、私たちはゆっくり歩き出す。
一歩、二歩。
侯爵様の手が私の背中をそっと支え、指先のぬくもりが伝わってくる。
私は自分の足元ばかり見てしまい、すぐに侯爵様の靴にぶつかりそうになった。
「上を見て」
「……はい」
視線を上げた瞬間、侯爵様の顔が近すぎて、息が止まった。淡い光の中で、瞳がまっすぐ私を捉えている。
その瞳の奥に、私だけを見ている確かな熱がある。
「……緊張していますね」
「だって、近いです」
言ってから、何を言ってるんだ私は、と自分に突っ込む。顔が熱くなり、耳まで赤くなっていく。
侯爵様が少しだけ目を細めた。
「では、もっと近くに」
「え?」
腰を引き寄せられた。ほんの少し。たったそれだけで、心臓が爆発しそうになる。体温が一気に上がり、鼓動が耳の奥まで響く。
私の耳まで熱くなるのがわかる。呼吸が浅くなり、胸がドキドキと高鳴る。
「呼吸を。大丈夫、私が支えます」
侯爵様の声は優しく、でもどこか強くて、私の不安を包み込んでくれる。
支えます。
その言葉が、踊りの意味以上に胸に刺さった。私は彼の腕の中で、守られている安心感と、ときめきの狭間で揺れる。
目を閉じて深呼吸すると、彼の香りがふわりと漂い、心が落ち着く。
踊りのリズムに合わせて、二人の距離がさらに縮まる。
何度か繰り返すうちに、足が少しだけ音楽に乗る。
「上達しました」
「本当ですか」
「ええ。君は吸収が早い」
その褒め方が、研究所での「君は素晴らしい」と同じ温度で、私は目の奥が熱くなった。
リリアが端で満足そうに頷いている。
「ほらね。いいでしょ」
私は返事の代わりに、握られている手をそっと握り返した。
侯爵様の指が、驚いたように一瞬だけ強く絡む。
◇
練習のあと、三人で温かいお茶を飲んだ。
テーブルには焼き菓子と果物、湯気の立つカップが並ぶ。リリーがにやにやして聞く。
「どう?」
「……疲れた」
「顔は幸せそう」
私は言い返せない。侯爵様もカップの縁の向こうで、少しだけ笑っていた。
リリーは満足そうに頷き、侯爵様は静かに紅茶を口に運ぶ。
「上達が早いですね」と侯爵様が言うと、リリーが「先生が良いから」と冗談めかして返す。
三人で他愛ない話をしながら、心が穏やかになっていく。舞踏会の話や、子供の頃の失敗談、未来の夢。
リリーが「今度は海に行きたい」と言えば、私は「山もいいな」と返し、侯爵様は「どちらも素敵ですね」と微笑む。
安心と、ときめきと、怖さが混ざる。
でも、こうして笑える時間があるなら、私はまだ進める。
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夜、部屋に戻ると、今日の出来事が胸の中で静かに反芻される。
舞踏会の練習、侯爵様の手のぬくもり、リリーの応援。すべてが私の背中を押してくれる。
窓の外には星空が広がり、私はそっと深呼吸する。
「まだ時期ではない」――侯爵様が言いかけて飲み込んだ言葉。その表情の苦しさに、私は待つことを決めた。
でも、今日の一歩が、きっと未来につながる。
私は枕元のペンダントを握りしめ、明日への希望と少しの不安を抱えながら、目を閉じる。
「私は、変わりたい。もっと強く、もっと優しく」
そう願いながら、眠りにつく。
**次回予告**
侯爵様が何か言いかけて、言葉を飲み込む。「まだ時期ではない」――その表情の苦しさに、私は待つことを決める。夜、星空の下で並ぶ二人の距離が、少しだけ切ない。
第25話「告白の予感と躊躇」をお楽しみに!




