第156話: 婚約者として
公会堂の朝は、戦場より静かで、別の意味で厳しい。姿勢、視線、言葉の間。私はアレクサンダー様の隣で、婚約者として求められる所作を一つずつ身体へ落とし込んだ。
市民代表との挨拶、役人への返答、短い演説。どれも小さな綻びが目立つ場だ。私は胸の前で手を重ね、笑顔を保ったまま相手の意図を読む。
「本日はお時間をいただきありがとうございます」
定型の言葉でも、声色ひとつで温度が変わる。終盤、子どもが花を差し出してくれた瞬間だけ、張りつめた空気がやわらいだ。私は膝を折って受け取り、心から礼を言う。
控え室でことりを頻繁に起動した。
> 次の応答、礼節上の注意点を表示。
【ことり】
*************
礼儀案内:
序列に応じた呼称を確認。
返答は三文以内を推奨。
[魔力: 130/150 (-10)]
*************
> 午後面談の時間再調整を。
【ことり】
*************
予定調整完了。
面談順を入替え、待機時間を短縮。
[魔力: 120/150 (-10)]
*************
> 会場安全監視、異常だけ通知して。
【ことり】
*************
安全監視中。
南回廊で混雑増加。
警備二名追加を推奨。
[魔力: 110/150 (-10)]
*************
> 夜会の即答補助もお願い。
【ことり】
*************
応答補助辞書を更新。
曖昧質問への中立回答案を提示可能。
[魔力: 100/150 (-10)]
*************
連続使用で頭は熱くなるが、失言ひとつの重みを思えば必要な消費だ。私は水を一口飲み、次の扉へ向かった。
夕方、私室裏の散歩道でようやく肩の力を抜く。木漏れ日が石畳へ揺れ、風が髪を撫でる。
「今日は、剣より会話のほうが疲れました」
私が言うと、アレクサンダー様が笑った。
「同感だ。だが君はよくやっている」
彼の言葉は、どんな称賛より効く。私は歩幅を合わせ、しばらく何も言わずに並んで歩いた。その静かな時間が、何よりの安心ビートだった。
夜の会議室では要人対応が続く。角の立つ質問が飛ぶたび、私は呼吸を整えて答える。ときどきことりの短い補助を視界の隅で確認し、言葉を選ぶ。
会議が終わったとき、窓の外はすっかり暗かった。
「次は結婚式の準備ですね」
「忙しくなる」
「でも、少し楽しみです」
私の本音に、アレクサンダー様は目を細めた。
会議室を出たあと、私は廊下の鏡に映る自分を見た。背筋は伸びている。笑顔も作れている。けれど目の奥には、慣れない役割へ挑む緊張がまだ残っていた。
そこへマーガレットさんが歩み寄り、襟元をそっと整えてくれる。
「完璧でなくていいのです。誠実であれば、それが一番伝わります」
私は深く頷いた。
「ありがとうございます。今日、何度もその言葉に助けられました」
私室へ戻る途中、廊下の窓から夜の中庭が見える。灯りの下で護衛が巡回し、遠くで楽士が片づけをしていた。王都の夜は静かだが、たくさんの誰かが働いて守っている。
私はふと立ち止まり、ことりを短時間だけ起動する。
> 明日の要点を三つだけ。
【ことり】
*************
要点:
1) 午前の公会堂挨拶
2) 昼の要人面談
3) 夕方の結婚式準備打合せ
*************
画面を閉じると、頭の中が整った。全部を完璧にこなす必要はない。優先すべきことを選び続ければいい。
寝室でアレクサンダー様が書類を束ねながら言う。
「今日はよく耐えた。君は十分に"婚約者として"立っていた」
「ありがとうございます。まだ練習中ですけど」
「私もだ」
私たちは顔を見合わせて笑った。公の顔と私的な顔、そのどちらも無理なく持てるようになるまで時間はかかるだろう。でも、その時間を一緒に過ごせるなら怖くない。
私は寝台へ腰を下ろし、明日の準備メモを閉じた。次に来るのは結婚式の準備。胸の高鳴りと不安が同時に跳ねる。けれど、いまはその両方を抱えたまま眠れる気がした。
就寝前、私は明日の衣装札を確認してから窓を少しだけ開けた。夜風が頬に触れ、今日の張りつめた空気を連れ去っていく。公の場ではまだぎこちなくても、少しずつ「私たちらしい形」が見えてきた気がする。失敗を恐れて固まるより、修正しながら進む方が私には合っている。私はそう結論づけて、予定表へ小さく丸を付けた。
公務を乗り越えた二人は、仲間に支えられながら結婚式当日へ向けた準備を進めていく。第157話「結婚式の準備」をお楽しみに!




