第137話: 愛の誓い
昨夜の祈りを胸に迎えた夜は、驚くほど静かだった。仮設拠点の外れ、月見の丘に立つと、草をなでる風の音だけが耳に残る。焚き火の橙色が揺れ、緊張で固くなっていた肩を、少しだけほどいてくれた。
丘の下には出陣準備の灯りが点々と並び、まるで地上に落ちた星みたいに瞬いていた。明日になれば、この光の列は王都地下へ伸びる。結社の中枢へ至る道は、ルシアが遺した断片記録と、侯爵家が代々封印してきた古い地図の継ぎ目でしか辿れない。前世で見た配線図に似た紋様が、この世界の魔法陣にも存在することを思い出し、胸の奥で小さな戦慄と納得が同時に走った。
フィリップさんが無言で湯気の立つカップを差し出してくれる。甘く煮た果実の香りが鼻先をくすぐり、ひと口含むと、じんわりと喉の奥が温かくなった。リリーが「エリー、あったかいうちに飲んで」と小さく笑う。その笑顔に、胸の奥のこわばりが溶けていく。
アレクサンダー様は少し離れた場所で夜空を見ていたが、やがて私の前に立ち、いつになく慎重に言葉を選んだ。
「君に、今夜伝えておきたいことがある」
その一言だけで、心臓が強く打つ。私はカップを両手で包んだまま、頷いた。
逃げたいわけじゃない。けれど、失う怖さだけはどうしても消えない。だからこそ、今ここで交わす言葉を、明日の私の支えにしたかった。
私たちは丘の端、小さな庭園の石垣のそばへ移動した。夜露を含んだ葉が月光を返し、銀色にきらめいている。人目はあるのに、ここだけ切り取られたみたいに静かだった。
アレクサンダー様は私の手を取り、まっすぐ見つめる。
「侯爵として、守るべきものはいくらでもある。だが私的な願いは、ただ一つだ。君が私の光だ。君のために、必ず勝つ」
胸の奥に溜めていたものがほどけて、視界が滲んだ。私は泣き笑いのまま、彼の指を握り返す。
「どんな結果になっても、私はあなたと共にいます。怖くても、迷っても、あなたの隣を選びます」
「公の場ではあなたを侯爵様と呼びます。でも私の心の中では、ずっと、あなたはアレクサンダー様です」
言い終えた瞬間、彼が私の頬に触れた。手袋越しでも伝わる体温が愛おしい。次の瞬間、そっと唇が重なる。短く、けれど深く、誓いを刻むような口づけだった。離れたあとも、額を寄せ合ったまま、互いの呼吸を確かめる。
「ありがとう、エリアナ」
その声は、戦いの前とは思えないほど優しかった。
拠点の談話室へ戻ると、マーガレットさんが何も聞かずに新しい紅茶を注いでくれた。琥珀色の湯面が揺れ、ほのかな柑橘の香りが広がる。セレスティアさんは腕を組んだまま「表情が少しマシになったわね」と言い、リリーは隣でこくこく頷く。照れてしまうのに、嬉しかった。
決戦の段取りを最終確認する中で、私はことりに一度だけ問いかけた。
私は表示を見つめ、すぐに頷いた。
「確率は十分。最終判断は私たちでやる」
ことりの表示は、今回に限って奇妙なほど具体的だった。頼もしさと同時に、胸の片隅がざわつく。ルシアの研究完成が呪いを解く鍵になるという仮説は、もう仮説ではないのかもしれない。それでも私は、機械的な答えに人生を委ねないと決めている。最後に選ぶのは私たち自身だ。
フィリップさんが地図に印をつけ、アレクサンダー様が短く「行ける」と告げる。誰も大声では話さない。それでも、同じ方向を向いている確かな手応えがあった。
夜明け前、空は藍から薄青へとほどけ始める。冷えた空気が肺に刺さるのに、不思議と足は震えなかった。並んで立つ仲間たちの横顔を見渡し、私はゆっくり息を吸う。
「必ず、みんなで帰りましょう」
私の言葉に、リリーが強く頷き、セレスティアさんは小さく笑った。マーガレットさんは胸に手を当て、フィリップさんは眼鏡の位置を直しながら「もちろんです」と返す。
最後にアレクサンダー様が私の手を握った。
「共に行こう。共に帰る」
その温度を確かめ、私は一歩を踏み出した。怖さは消えない。けれど、もう孤独ではない。この誓いがある限り、私は前へ進める。
朝の匂いを含んだ風が頬を撫でる。背後で誰かが剣帯を締める音、遠くで荷車の軋む音、靴底が砂を噛む乾いた感触――そのすべてが、現実をくっきりと縁取っていく。私は胸元のペンダントに指を当て、小さく囁いた。見ていてください、ルシア。あなたの願いも、私たちの未来も、必ずこの手で繋いでみせる。
エリアナたちは王都地下の古代遺跡へ出発し、結社の本拠地へ続く危険な道へ踏み込む。第138話「出発」をお楽しみに!




