第120話: 休息と甘い時間
夜の廊下は、昼間よりもずっと長く感じた。壁の燭台に灯る橙色の火がゆらめくたび、石床に落ちる影も伸びたり縮んだりする。私はその影の中を、アレクサンダー様と並んでゆっくり歩いていた。
足は鉛みたいに重い。遺跡で張り詰めていた感覚がほどけたせいか、ふくらはぎの奥が遅れて痛み出している。まぶたは熱を持ち、指先はじんと痺れていた。けれど隣に合わせた歩幅だけは、不思議と乱れない。
「無理をしていないか」
低い声が、火のはぜる音に紛れて届く。
「正直に言うと、ちょっとだけふらつきます」
私が苦笑すると、アレクサンダー様は速度をさらに落とした。
「なら、今日は話を短くしよう。考えるのは明日でいい」
「はい。今夜は休むって、約束しましたし」
掌のことりが小さく光る。
【ことり】
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待機中。
休息を優先してください。
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[魔力: 50/150]
短い通知だけで、ことりは黙った。分析も助言もなく、ただ「休め」と言ってくれるのが、今はありがたい。
廊下の曲がり角で、ふいに人影が立ち止まった。
「……あっ」
リリーだった。湯気の立つハーブティーの盆を持ったまま、私たちを見て目を丸くする。
「まだ起きてたの?」
私が声をかけると、リリーはにやっと笑った。
「そっちこそ。廊下の向こうまで甘い空気が届いてたんだけど?」
頬が一気に熱くなる。慌てて否定しようとして、私はついさっきの会話の流れのまま言ってしまった。
「ち、違うの。アレクサンダー様が――」
言い終えた瞬間、リリーの目がきらりと光る。
「今、“アレクサンダー様”って言った?」
「う……」
返事に詰まる私を見て、リリーは肩を震わせて笑った。からかう声色は軽く、悪意はどこにもない。
「いいじゃない。すっごく似合ってる。前よりずっと幸せそうな顔してるし」
耳まで熱くなった私は、思わず視線を床へ落とした。隣でアレクサンダー様が小さく咳払いする気配がして、余計に恥ずかしい。
「リリーさん」
アレクサンダー様が穏やかに呼ぶ。
「彼女は疲れている。今夜は休ませたい」
「はーい、邪魔はしません」
リリーは笑顔のまま、盆を持ち直して一歩下がった。
「エリー、あとでちゃんと寝るのよ。明日はまた重い話になるんだから」
「うん。ありがとう」
すれ違いざま、リリーが小声で囁く。
「でも今の呼び方、ほんとに可愛かった」
私は何も返せず、ただ肩をすくめるしかなかった。けれど胸の中の緊張は、さっきより少し柔らかくほどけている。重い日々の中で、こういう笑いに救われるのだと改めて思った。
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私室前へ着いたところで、膝がかすかに揺れた。自覚するより早く体が傾き、私は扉の取っ手に手を伸ばす。
その瞬間、アレクサンダー様の腕が背中を支えた。
「危ない」
低い声と同時に、視界がふわりと持ち上がる。気づけば私は、アレクサンダー様に横抱きにされていた。
「え、ちょ、ちょっと……自分で歩けます」
「歩けるかどうかではない。今は休むべきだ」
反論の余地を残さない口調なのに、腕の力はひどく優しい。肩と膝裏を支える手は安定していて、揺れがほとんどない。外套越しに伝わる体温と鼓動が、ざわついていた心をゆっくり落ち着かせる。
部屋へ入ると、窓辺に置いたランプの灯りが金色に揺れていた。石鹸と乾いたリネンの匂いが混ざり、遺跡の石粉の気配を静かに押し流していく。
アレクサンダー様は私を寝台へそっと下ろし、乱れた毛布を整えた。まるで壊れものを扱うみたいに丁寧な手つきに、胸の奥がきゅっと熱くなる。
「今日はゆっくり休んで」
そう言って、彼は私の前髪を指先で避ける。次の瞬間、額に柔らかな感触が落ちた。
ほんの短いキスだった。それなのに、耳の奥まで温かさが広がって、目の奥がじんわり滲む。甘いというより、守られている安心がそのまま形になったみたいだった。
「……ありがとうございます」
やっと絞り出した声は、小さく震えていた。
アレクサンダー様は私の手を一度だけ包み、静かに頷く。
「休むことは、前へ進むための準備だ。君はもう十分に戦っている」
私はその言葉を胸の中で繰り返す。休むのは弱さじゃない。次に進むための選択だ。遺跡で何度も自分に言い聞かせた理屈が、今は体温のある確信になっている。
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扉が閉まり、足音が廊下の向こうへ消えていく。私は額に残る熱を指先で確かめながら、ゆっくり息を吐いた。
窓の外は深い藍色で、雲の切れ間に小さな星がいくつか見える。室内は静かで、布団の擦れる音さえやさしく聞こえた。
ことりが短く通知を出す。
【ことり】
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休息モード推奨。
睡眠により魔力回復が見込まれます。
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[魔力: 50/150]
「うん。今日は素直に寝る」
私はことりを枕元に置き、毛布を顎まで引き上げる。体の重さはまだ残っているのに、呼吸は少しずつ深くなっていった。
眠りへ落ちる直前、今日の出来事が断片的に浮かぶ。遺跡の冷たい回廊、資料に刻まれた危険な理想、リリーのからかい混じりの笑顔、そして額に落ちた温かなキス。
重い現実は変わらない。明日になれば、また呪いの真相へ踏み込まなければならない。
それでも、今夜だけは確かに安らげる。
次に立ち上がるための力が、静かに満ちていくのが分かった。
朝、目を開けると光はやわらかく、胸の奥の圧迫感は昨夜より薄れていた。まぶたは軽く、呼吸は深い。指を握ると、滞っていた感覚が素直に戻ってくる。
私は窓辺へ歩き、朝の空気を吸い込んだ。
「……行ける」
小さく呟いたその声は、昨日よりずっと澄んでいた。呪いの真相はまだ遠い。でも、向き合う準備は整っている。
**次回予告**
休息を経て、私たちはついに呪いの構造へ踏み込む。魔法陣、契約、そしてヴィクターの呪詛――散らばっていた断片が、ひとつの恐るべき真実へ繋がり始める。
第121話「呪いの真相」をお楽しみに!




