第114話: 結社の本拠地
崩れかけた石扉の向こうから、乾いた風が吹いた。鉄と灰の匂いが混じる空気は、誰かがついさっきまでここにいたことを告げている。
私は呼吸を整え、胸元のペンダントを握った。まだ万全じゃない。けれど、侯爵様の手が背中に触れるだけで、足の震えは小さくなる。
扉の隙間から流れ込む空気は、遺跡の下層よりわずかに温かい。それなのに、背筋には細い冷たさが残ったままだ。魔力が戻ったといっても、昨夜の空白を身体はまだ覚えている。肺の奥に石を抱えたみたいな重さを、私はゆっくり吐き出した。
「行こう。今なら、進めます」
侯爵様は短く頷き、私の肩に手を置いた。
「無理はしないでくれ。君を守ることを、最優先にする」
その温度が、焦りで尖っていた心を少し丸くしてくれた。
石扉には新しい引っ掻き傷が何本も刻まれていた。搬出用の金具を無理やり通した跡だ。敵は計画的に退いたのではなく、追い立てられるように去った。そう思うと、今この瞬間にも北東で次の準備をしている姿が目に浮かんで、胸がざわつく。
私はそのざわめきを押し込み、侯爵様の外套の端を一瞬だけ握った。離すときには、もう手は震えていなかった。
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最深部は、思っていたより静かだった。結社の本拠地――そう呼ぶしかない広間には、搬出の痕が無数に残っている。床には木箱を引きずった跡、壁際には急いで外された術式板の欠片。灯りは消えているのに、魔法陣だけが薄く脈打っていた。
天井の高い空間に、私たちの足音だけが乾いて響く。誰もいない場所のはずなのに、耳の奥では小さな金属音がまだ鳴っている気がした。机の上には空の薬瓶、割れた魔力測定具、途中で捨てられた行軍地図。撤退は成功したのではなく、寸前で切り上げたのだと分かる。
私はことりを握り直し、低く囁く。
> ことり、周囲の状況を分析して。敵の残留と、直近の移動経路を。
【ことり】
*************
環境走査を開始します。
残留魔力パターンを照合。
判定:敵性反応なし(撤退済み)
推定撤退時刻:一時間以内
推定移動方向:北東
分析信頼度:88%
魔力消費:-10(残40/150)
*************
[魔力: 40/150]
表示を見た瞬間、胸の奥が冷たくなる。遅かった――けれど、何も残っていないわけじゃない。私は侯爵様と視線を合わせ、うなずいた。
ことりの数字は、時々残酷なほど正確だ。だからこそ、私はそれを言い訳にしたくなかった。八十八パーセントは「可能性が高い」であって、「確定」ではない。私たちがこの目で確かめるまで、結論にはしない。
「資料室を探しましょう。急いで撤退したなら、必ず取りこぼしがあります」
「君の判断に従う」
侯爵様の声は静かで、迷いがない。そのまま二人で広間の奥へ進むと、半開きの鉄扉の先に書架が見えた。
室内には紙と薬品の古い匂いがこもっていた。机には封蝋の割れた報告書、床には焼却しかけた束。私は震える指で一枚を拾い、煤を払う。そこにあった署名を見て、喉が詰まった。
――ヴィクター。
さらに別の束には、見覚えのある術式記法。ルシアの研究ノートで読んだ、あの癖のある補助記号だ。欄外には走り書きで、短い一文。
『彼を守るために、完成させる』
別紙には、もっと露骨な命令文が残っていた。
『転用試験を優先。保護術式は破棄してよい』
胸の奥で何かがきしむ。ルシアの研究は、誰かを救うためのものだった。それを結社は切り刻み、呪いを拡張するための道具に変えた。インクの擦れた文字が、悪意そのものの形をしている。
資料の束をめくると、侯爵家の紋章が押された古い誓約書の写しも出てきた。血統に刻まれた封印、継承者の魔力でのみ起動する中枢術式、そして「守護対象喪失時の暴走」を防ぐための安全弁。侯爵家が秘密を抱えてきた理由が、紙の重みとして手に伝わってくる。
息が止まりそうになる。ルシアはやっぱり、侯爵様を救うために研究していた。なのに結社はそれを奪い、兵器化しようとしている。
私の手から紙が落ちる前に、侯爵様が支えてくれた。
「エリアナ」
名前を呼ばれただけで、涙が出そうになる。侯爵様は私の指を握り、低く言った。
「どんな真実でも、私は受け止める。だが君だけは、必ず守る」
私は小さく頷いた。怖い。でも、もう目を逸らしたくない。
涙が零れる前に、私は袖で目元を押さえた。泣いている時間はない。けれど、泣きたくなるほど大切なものを私たちは守ろうとしている。その事実だけは、忘れないでいたい。
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資料を必要な分だけ封筒に移し、私たちは出口へ向かった。夕方の光が、崩れた回廊の端を橙に染めている。背後の本拠地は空っぽの殻みたいに静かで、逆に不気味だった。
ことりの分析どおり、敵は北東へ退いた。追うべきか、戻るべきか――判断を誤れば、次は取り返しがつかない。
回廊の壁にも、北東を示す矢印のチョーク跡が残っていた。結社員同士の簡易標識だろう。急いで消したらしく、指で擦れば白い粉がはらりと落ちる。追跡路の偽装も疑うべきだと、前世の私ならメモを作って優先度を振ったはずだ。今の私は、その癖を魔法と現場に合わせて使える。
私は立ち止まり、ペンダントを握る。胸の鼓動は速いままなのに、思考は不思議なくらい澄んでいた。
「ここで立ち止まれない。ルシアの研究を、今度こそ守り切る。侯爵様の呪いを解くためにも」
侯爵様は一歩近づき、私の手を包む。
「君と行く。どこへでも」
指先の温度が重なった瞬間、世界の輪郭が少しだけはっきりした。恐怖は消えない。けれど、恐怖ごと進む覚悟なら、もう決めている。
私は資料袋を開き、最上段の紙に短く行動順を書き込んだ。帰還後の照合、フィリップへの共有、北東ルートの分岐確認、ことりの再分析は回復後に一回だけ。手順が見えると、心拍も落ち着いていく。混乱を言葉にして並べれば、対処できる問題に変わる。
侯爵様は私の走り書きを見て、わずかに目を細めた。
「君は本当に強くなった」
「強いんじゃなくて、怖いままでも進む方法を覚えただけです」
言いながら、私は少しだけ笑った。侯爵様も同じように笑い返す。その表情を見た瞬間、胸の奥に温かな灯がともる。これが私の安心ビートだと、遅れて気づいた。
遺跡の出口へ歩き出すと、北東の空に細い雲が流れていた。あの先に、結社の次の拠点がある。
私は資料袋を抱え直し、ことりを胸元で握る。
次は、私たちが追う番だ。
**次回予告**
回収した資料に記されていたのは、ルシアの研究を悪用するための計画と、裏切り者ヴィクターの名。北東へ撤退した結社を追う中で、エリアナたちはさらなる真実へ踏み込んでいく。
第115話「残された資料」をお楽しみに!




