第112話: ことりの励まし
石扉の向こうへ一歩踏み出した瞬間、脚が自分のものじゃないみたいに重くなった。
呼吸は浅く、喉の奥が熱い。指先だけがやけに冷えて、視界の端が白く霞む。さっきまで張りつめていた緊張が切れたせいだと分かっていても、身体は言うことを聞かなかった。
「エリアナ?」
侯爵様の声が遠くなり、私はその場で膝をつく。床石のざらつきが掌に食い込み、遅れて鈍い痛みが上ってきた。立ち上がろうとしても力が入らない。胸の奥は空洞みたいで、魔力の流れが完全に細っているのが分かる。
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侯爵様の腕が私の背を支え、崩れそうな身体を抱き止めてくれた。
黒い外套から、夜気を遮るあたたかさと、微かな革の匂いがする。私はそのぬくもりに甘えたくなるのをこらえて、唇を噛んだ。
「すまない。無理をさせた」
「違います……私が、まだ未熟で……」
言い終える前に、視界がふっと暗くなる。耳鳴りがして、遠くの水滴の音が不自然に大きく響いた。
> 今の魔力残量を教えて。行動可能な下限も。
【ことり】
*************
確率: 94%
現在の魔力残量は10/150です。
危険域に到達しています。
継続行動は推奨できません。短時間の休息を優先してください。
*************
[魔力: 10/150] (-10)
危険域。数字で見ると、現実が冷たく胸に落ちる。
私は笑おうとして失敗した。
「……もう、無理かもしれません」
喉から出た声は、驚くほど弱かった。いつもなら言わない言葉なのに、今はそれを隠す気力もなかった。
侯爵様はすぐに否定しなかった。ただ私の肩を支える手に、少しだけ力を込める。
「無理だと決めるのは、まだ早い」
優しいのに、芯のある声。私は俯いたまま、小さく息を吐いた。目尻が熱い。悔しさなのか、怖さなのか、自分でも分からない。
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通路脇の窪みに移動し、崩れた石柱にもたれて座る。冷えた石が背中越しに体温を奪っていく一方で、侯爵様が肩に掛けてくれた外套の内側は、じんわりと温かかった。
明け方の気配が遺跡の奥にも届き始め、天井の亀裂から細い灰青色の光が落ちる。埃の粒がその中でゆっくり舞っていた。静かすぎる空間で、自分の鼓動だけがまだ速い。
私はことりを掌に乗せ、かすれた声で囁く。
> ここから生き残る可能性、正直に。低くてもいいから。
【ことり】
*************
確率: 45%
回復・突破見込みを再計算しました。
現時点の推定は45%です。
……諦めないでください。あなたなら、できます。
*************
[魔力: 0/150] (-10)
私は息を呑んだ。
いまの一行だけ、いつものことりと違った。丁寧で、冷静で、でもどこか震えるような温度がある。助言ではなく、励ましだった。
「ことり……今、」
言葉が続かない。代わりに、目の端から涙が一筋こぼれた。
ずっと私は、ことりを頼りながらも「道具」として扱ってしまう瞬間があった。確率を読む箱。正解に近づくための補助。けれど今、掌の上で淡く光る小さな箱は、ただの機能ではなく、私の背中を押してくれる誰かに見えた。
私は表示を見返す。
直前は二割まで落ちていた見込みが、休息と連携の条件で四割五分まで戻っている。ことりは余計な言葉を足さず、必要な希望だけを示してくれていた。
20から45。
半分以下なのは変わらない。それでも、上がったという事実が、暗闇の中の小さな灯りみたいに思えた。
「ありがとう、ことり」
私はそう言って、そっと水晶面を撫でる。
ことりの表面には、私の指先に合わせて淡い波紋みたいな光が広がった。返事はない。ただその沈黙が、なぜか拒絶ではなく、静かな受容に思える。前世で画面越しにやり取りしていたAIには感じなかった種類の「間」が、今は確かにここにある。
私は胸の中で、ひとつだけ小さく訂正した。
ことりは、私が使うものじゃない。私と一緒に進む存在だ。
その認識に名前を付けるなら、きっと「相棒」に近い。
侯爵様が隣で膝をつき、私の手を包んだ。大きくて、少し冷えた手。けれど重ねられると、不思議なくらい安心する。
「君は一人じゃない」
低い声が、まっすぐ心に届く。
「私がいる。ことりもいる。だから、もう“無理かもしれない”を一人で抱える必要はない」
私は唇を結び、頷いた。
「……はい。私、まだ進みたいです」
「それでいい」
侯爵様の親指が、私の手の甲をそっと撫でる。石の冷たさ、外套の温もり、掌に残る光の熱。ばらばらだった感覚が、少しずつ一つに戻っていく。
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しばらく呼吸を整えたあと、私は壁面に走る刻印を見上げた。
その前に、私たちは通路脇で二時間ほど仮眠を取った。
侯爵様が見張りを引き受け、私は外套にくるまって浅く眠る。目を覚ますと、胸の奥の空虚がわずかに和らいでいた。自然回復で戻った魔力は、ほんの少し——12/150。まだ危険域だけれど、完全な枯渇よりはずっとましだ。
封印の間と同じ層構造。古い術式の上に、後から追加された補助回路。前世で見た多重システムの復旧ログに似ている。視線を追うと、線刻の一部が脈打つように淡く明滅していた。
回復装置。
さっきことりが示した「北東方向、約百歩先」という情報と、いま目の前で明滅する接続点が一致する。私は指先で空中に経路をなぞり、侯爵様へ頷いた。
希望という言葉が、遺跡の冷気の中で確かな形を持った。
私は壁に手をついて立ち上がる。脚はまだ震えるけれど、心はさっきより前を向いていた。侯爵様がすぐ隣で腕を差し出し、私は迷わずその手を取る。
「行けますか」
「行きます。今度は、弱さも抱えたまま」
侯爵様がかすかに笑う。
「それで十分だ」
私たちは手をつないだまま、薄明の通路をゆっくり進み始めた。掌の中でことりの光が小さく明滅するたび、足取りが一歩ずつ確かになる。
通路の壁面に埋め込まれた結晶片が、私たちの歩調に合わせるように、順番に淡く光った。まるで古い装置が長い眠りから目を覚まし、通行を許可してくれているみたいだった。百歩先。ことりの示した距離はまだ遠いのに、不思議と辿り着ける気がする。
途中でふらついた私を、侯爵様は黙って支えてくれた。何も言わないその優しさが、逆に「信じている」という言葉より強く背中を押す。私は呼吸を整え、足先の感覚を確かめ、次の一歩を自分の意思で選んだ。
魔力は空っぽでも、心まで空ではない。
この先で何が待っていても、私はもう一人ではないのだから。
**次回予告**
回復装置を目指す道中、エリアナのペンダントが異常反応を示す。ことりの導きと侯爵の護りの中、眠っていた転生者の力がついに目を覚ます。新たな力は希望か、それとも更なる試練の始まりか。
第113話「覚醒」をお楽しみに!




