第107話: 出発前夜
夜、屋敷が静まり返った頃、私は侯爵様の書斎を訪れた。
灯りを落とした室内には、机の上のランプだけが輪をつくっている。明日の準備は終えたはずなのに、胸のざわめきだけが消えなかった。
侯爵様は椅子から立ち上がり、私を見つめる。
「眠れないのか」
「……少しだけ」
言葉にすると、張っていた糸がほどけた。私は侯爵様の向かいに腰を下ろし、指先をそっと重ねる。自分で選んだ道でも、失う怖さは消えない。
しばらく黙っていた侯爵様が、低い声で言った。
「君を失いたくない」
その本音は、驚くほどまっすぐ私に届いた。
「私も、あなたを失いたくないです」
言い終えた瞬間、侯爵様の右手がわずかに震えた。隠そうとするように拳を作る仕草に、呪いの影が胸をよぎる。
「怖いんだ」
侯爵様は視線を伏せたまま続ける。
「戦いそのものよりも、君を守れないかもしれない自分が」
私は首元のペンダントに触れた。冷たいはずの石が、今夜は体温を持つみたいに微かに光る。
「侯爵様。私は守られるだけじゃありません」
私は手を伸ばし、震える指をそっと包んだ。
「怖くても、一緒に進みたい。あなたの隣で、同じ景色を見たいんです」
侯爵様がゆっくり顔を上げる。迷いの奥に、確かな決意が戻ってくるのが分かった。
「……分かった。行こう」
短い言葉だった。でも、それは誓いだった。
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書斎を出たあと、私たちは言葉少なに庭園へ向かった。
夜気はひんやりしていて、月明かりが白く石畳を照らしている。花の香りが風に混じり、静かな水音だけが遠くで揺れていた。
侯爵様が立ち止まり、私に向き直る。
「君がいるから、私は強くなれる」
その言葉に胸がいっぱいになって、私は小さく頷いた。
「……私も、同じです」
自然に距離が縮まる。重ねた手の温もりが、互いの不安を少しずつ溶かしていく。次の瞬間、侯爵様は私の額にかかる髪を指先で払って、そっと唇を寄せた。
触れるだけの、短く静かな接吻。
けれど、胸の奥では確かに何かが灯った。
「明日、必ず帰ろう」
「はい」
月明かりの下で交わしたその約束は、どんな護符より強く、私の心を支えてくれた。
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未明、馬小屋と作戦室には、出発前の張りつめた空気が満ちていた。
セレスティアさんが地図の最終座標を確認し、フィリップさんが通信札の反応を順に試す。私は予備灯と魔力回復薬を鞄に収め、留め具を二度確かめた。
そのとき、携行端末に短い通知が走る。
【ことり】
*************
確率: 81%
準備完了。行程データ同期済み。
*************
[魔力: 140/150 (-10)]
侯爵様が私の肩に手を置いた。
「必ず帰ろう」
私はまっすぐ頷く。
「はい」
その一言に、今夜交わした想いも、仲間の祈りも、全部込めた。
扉の向こうには、まだ薄い闇が広がっている。けれど恐れだけではない。静かな高揚が、四人の呼吸をひとつにしていた。
私たちは顔を見合わせ、同時に歩き出す。
遺跡へ向かうその一歩は、戦いの始まりであると同時に、信じ合う私たちの証明でもあった。
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門を出る直前、私は一度だけ振り返った。
夜明け前の屋敷は淡い藍色に沈み、窓の灯りがいくつか揺れている。誰かが起きて、私たちの無事を祈ってくれているのだと思うと、胸の奥が静かに熱くなった。
フィリップさんが荷を確かめながら言う。
「予定どおり行けば、日が高くなる前に峡谷口へ着けます」
セレスティアさんは地図を閉じ、私に視線を向けた。
「焦らないこと。未知の場所ほど、丁寧さが命よ」
「はい」
返事をした私の手に、侯爵様がそっと触れる。
「呼吸が浅い」
「……分かりますか」
「ああ。だから、今のうちに整えておこう」
私は言われるままに、深く吸って、ゆっくり吐いた。冷たい空気が肺を満たし、頭の中のざわめきが少しずつ静まっていく。
「ありがとう、侯爵様」
「礼は帰ってから聞く」
その答えが、私には何より心強かった。
御者台の鈴が小さく鳴る。私たちは互いに頷き、遺跡へ向かう道へと足を踏み出した。
**次回予告**
古代遺跡に到着。不気味な雰囲気と強力な魔法障壁。エリアナとことりの連携で突破。侯爵が常にエリアナを守る位置にいる。
第108話「遺跡潜入」をお楽しみに!




