第104話: 説得と信頼
夕刻、私は侯爵様の書斎を訪ねた。
橙色の光が差す室内で、侯爵様は書類から顔を上げる。
「どうした、エリアナ」
「お話ししたいことがあって……」
私は椅子に座り、膝の上で手を握った。怖さはある。それでも、もう逃げたくない。
「私、守られるだけじゃなくて、侯爵様と一緒に戦いたいんです」
侯爵様は短く息をのみ、静かに私を見つめた。
「君を危険に晒したくない」
その言葉の重さに胸が痛む。けれど私は視線を逸らさない。
「分かっています。でも、私の意志で選びたいんです。侯爵様の隣に立ちたい」
しばらく沈黙が流れ、壁時計の音だけが響いた。
やがて侯爵様が立ち上り、低い声で言う。
「私はずっと、君にはまだ早いと思っていた。背負わせるには重すぎると」
それは、私を遠ざけるためではなく守るための言葉だった。
「だが、君の目を見れば分かる。怖さを知って、それでも進むと決めたんだな」
私は小さく頷く。
「はい」
「……君を信じる。私の隣で戦ってくれ」
胸の奥に、熱いものが静かに広がった。守るだけでも守られるだけでもない。互いを信じて並ぶこと。それが、今の私たちの答えだった。
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夜、私たちは書斎を出て庭園を歩いた。
花壇の灯りが足元を淡く照らし、葉擦れの音だけが静かに揺れる。しばらく無言で歩いたあと、侯爵様が足を止めた。
「エリアナ」
振り向いた私の手を、侯爵様がそっと取る。
「君を信じている」
短い言葉なのに、胸の奥までまっすぐ届いた。私は握られた手に、そっと力を返す。
「……はい」
涙が滲みそうで、それ以上は言えなかった。
侯爵様の手が肩に触れる。守るためだけの距離ではない。並んで進むための、静かな約束。
細い月が庭園の古木を照らしていた。私は夜空を見上げながら、心の中で強く思う。
——私も、あなたを信じている。
言葉にしなくても、この温もりが答えだった。私たちはそのまま、同じ歩幅で夜の小径を進んだ。
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庭園を一周して書斎の前に戻る頃には、夜気はさらに冷えていた。
侯爵様は扉に手をかける前に、ふと立ち止まる。
「エリアナ。明日から先は、君に判断を任せる場面が増える」
「はい」
「迷ったときは、正しさだけでなく、何を守りたいかで選べ」
私はその言葉を胸の奥で反芻した。正しいかどうかだけなら、きっとことりの分析や資料で近づける。でも、守りたいものを決めるのは、私の役目だ。
「私、ずっと『誰かの役に立ちたい』って思っていました」
侯爵様は静かに耳を傾けてくれる。
「でも今は、もっとはっきりしています。侯爵様も、リリーも、皆の笑顔も。失いたくないって、言えるようになりました」
「……それでいい」
侯爵様の答えは短い。それなのに、不思議なくらい力をくれた。
「君が選んだ道を、私は支える」
私は深く頷く。迷いが消えたわけじゃない。でも、迷いを抱えたまま進めることを、今夜ようやく知った。
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その後、自室に戻った私は机に地図を広げた。
ランプの灯りの下で、北東山間部の地名を指先でなぞる。セレスティアさんの古文書にあった記号、フィリップさんの報告にあった崩落路、侯爵様が印をつけた補給点。点だった情報が、細い糸で結ばれていく。
窓の外では、風に揺れる枝の影が壁をゆっくり横切っていた。屋敷は静かだ。静かだからこそ、ここが守るべき場所だと実感できる。
私はペンを取り、余白に短く書き込んだ。
「先に行く。けれど、必ず戻る」
それは作戦メモであると同時に、私自身への誓いだった。
寝台に腰を下ろすと、肩に残っていた緊張がじわじわと抜けていく。侯爵様の「君を信じる」という声が、まだ耳の奥で温かい。
私は毛布を引き寄せ、明日の段取りを最後にもう一度だけ確かめた。
深く息を吸う。吐く。
恐れはある。でも、もう俯かない。
信頼を受け取った私は、信頼に応えるために進む。
**次回予告**
セレスティアの情報とことりの分析で、結社の本拠地候補を絞り込む。古い遺跡が怪しい。チーム全体で準備を進める。
第105話「調査開始」をお楽しみに!




