筆を執る、コーヒーを啜る
あの日見かけたおじさまを倣ってコーヒーを啜りながら小説を読む。しかし、内容はうまく入ってこない。こういった経験は初めてではない。絵を描いてみた、作曲をしてみた。どれもうまくいかなかった。
「人生とはままならないものである」そんなことを思いながら聿喜は行きつけの喫茶店を後にした。元々これといった趣味を持ち合わせていなかったが、大学進学で一人暮らしを始めたことをきっかけに、様々なものに手を出していた。そのほとんどに成長の兆しを見出せず途中で投げ出していた。しかし、暇つぶしに始めた執筆だけは続いていた。といっても本格的な文学作品を書いているわけではなく、日常で感じた些細な出来事を書き連ねているだけだったが複雑な思考を整理できるため好んで続けているのだった。
ずるずると執筆作業を続けてから数か月も経っていたある日、いつものようにコーヒーを啜りながら執筆していた聿喜は聞き慣れない声を耳にした。
「あの…何を書かれているのですか?」
透き通るようなその声は、わずかに心地よさを覚えたが、作業を邪魔されたことにいささか憤りを持ったことも事実である。(人が作業に勤しんでいるのに話しかけるのかよ…)なんて思いながら声の方を振り返った。
肩の高さで切り揃えられた黒髪は、清潔感を醸し出している。顔立ちは比較的整っているだろうか。そんな女がこちらを覗き込むように立っていた。
「お邪魔してしまったのならごめんなさい。でもどうしても気になってしまって。」
気になったのなら仕方がないなんて達観した考えは持ち合わせていなかったが、異性を相手にするために少々見栄を張りつつ
「邪魔ではないですよ。」
そう返答した。胸を撫で下ろす彼女を尻目に今一度筆を走らせる。
「よかった、改めて何を書かれているのですか?」
邪魔ではないといった手前答えなければならなかったため
「小説の方を。」
と簡単に返答した。あまりにも短い返答に少しキョトンとした様子の彼女だったが、ひと時の沈黙ののち口を開いた。
「素敵ですね。私も書こうと思ったことはあるんですけど、語彙力のなさに打ちひしがれちゃって…。」
なんてはにかんだ様子で言いながら気づけば前に座っていた。鬱陶しさは感じつつも何故だか悪い気分ではなかった。こちらに話す隙を与えないほどに彼女は一人で話し続けている。僕は軽く相槌を打ちながらまだ序章にすら辿り着いていない小説を書き進めるのだった。彼女は物心ついて間もない子どものように僕の筆を追っていた。
飲みかけのコーヒーも残りわずかとなった頃、僕は口から思いがけない言葉を漏らしていた。
「それほど気になるのでしたら、読んでみますか?まだ書きかけですけど。」
何故このようなことを口にしたのか分からなかったが彼女はその言葉を待っていましたと言わんばかりの表情を浮かべ
「え、いいんですか!」
と、嬉しそうに言った。
「僕は大体この店で小説を書いているので次会った時は続き読んでもいいですよ。」
そう言ってその場を後にしようとした時、彼女は僕の手を取って言った。
「な、名前!私、琴葉って言います!あなたのお名前、伺ってもいいですか?」
そういえば名乗っていなかったことに気づき、こちらも名乗ることにした。
「聿喜。僕は聿喜って言います。」
そう言って会計を済ませて店を後にした。こうして僕と琴葉の奇妙な関係が始まるのだった。
数日後、いつものようにコーヒーを啜りながら筆を走らせていた聿喜だったが、いつもどおりではないことが一つ。目の前に琴葉が座っている。聿喜自身、あれっきり会うことはないものだと思っていたため、呆気に取られていた。彼女は頬杖をつきながら僕の筆をまじまじと見つめる。作業しづらいったらありゃしない。コーヒーは進むが筆は進まない。結局、執筆の方は進展もなくその日は解散となった。ただ、彼女は満足そうだった。
いつものように筆を走らせる。目の前にはあいつ。今日は三ページほど進んだ。でも少し鬱陶しい。
筆を走らせる。目の前には琴葉。今日は五ページほど進んだ。まだ少し鬱陶しい。
今日も筆を走らせる。当然目の前には琴葉。五ページほど進んだ。鬱陶しさも薄れてきた。
そんな生活が続いたある日、いつものように目の前に座る琴葉に以前より抱えていた疑問をぶつけた。
「何故、素人の小説を読みたがるの?」
「素人玄人なんて私にはどうでもいいの。それがたとえ暇つぶしだったとしても一つのことに熱中してる人を応援したくなるのは当然でしょ?私の場合、たまたま入ったお店で、たまたま君が小説を書いていて、たまたま私の目に入った。ただそれだけなの。」
何の迷いもなく彼女はそう言った。素敵だと思った。正直彼女からこんなにまともな理由が出てくるとは思っていなかったし、この理由がこんなにも僕の心に響くとは思ってもみなかった。
今日は二ページしか進めることができなかった。その日、僕は初めて彼女の顔を見た気がする。
彼女が僕の小説を読みたがる理由を知ったあの日から僕の琴葉に対する態度が少し和らいだ気がした。日に日に鬱陶しさは減りつつあったが、あの日を境に鬱陶しさは消え、むしろコーヒーを飲み終わる時間が名残惜しくなっている。この時間がいつまでも続けばいいのに。そんなことを思いながらいつしか楽しみになっていたその時間をゆっくりと飲み進めた。
彼女がコーヒーの苦味に慣れてきた頃、思いもしなかったことを口にした。
「私ね、昔大好きだった作品があったんだ。
何度も何度も読み返しちゃうくらい。
でも、ある日突然更新が止まっちゃった。」
コーヒーを飲む手が止まった。
僕の言葉は喉元に詰まった。
「私、本当にその作品が好きだったんだ。その本に影響されて私まで書き始めちゃうくらい。…でも、やめちゃった。
たまに思うんだ、あの物語がどう終わるのか。
そんな時に、何かを書いてる君を見かけたんだ。
だから勇気出して声かけちゃった。なんてね。」
そうだったのか。あの不躾な行動にそんな意図があったとは。僕は一つ決心をした。
「ごめん、やらなきゃいけないことを思い出した。」
そう言って、琴葉の反応を見る間もなく喫茶店を後にした。
私が昔のことを喋ってから、聿喜くんが喫茶店に顔を出さなくなった。毎日同じ時間に同じ場所で彼を待った。勇気を出してマスターに聞いても事情は知らないらしい。
嫌われてしまったのかもしれない。そんなことを考えるくらいには時間が経った。
…私は、また結末を書けないらしい。
初めての経験だった。誰かのために痛みを忘れるほど筆を握ったのは。部屋は紙くずで溢れかえって、右手に染みついたインクの匂いは、数日は消えそうにない。
暇つぶしで始まった行為は、いつの間にか単なる暇つぶしではなくなっていた。
今日もいつものように喫茶店へ足を運ぶ。
そこには、一人でコーヒーを飲む見慣れた彼の姿があった。
「…やっと会えた。」
思わず口からこぼれた。
今までどこで何をしていたのか、そんな憤りは嬉しさと安堵にかき消された。
「待たせてごめん。」
彼は黙って鞄から封筒を取り出した。
「君にもらって欲しいものがあるんだ。」
そして、そそくさと会計を済ませ、店を後にした。
「やっと会えたのに……」
ずっしりとした封筒を手に、琴葉は呟いた。
椅子に座り封筒を開けた。
一枚目を読む。
二枚目を読む。
三枚目、四枚目…
気がつけば氷はすっかり溶け、机には小さな水たまりができていた。
「……ちゃんと、終わった。」
あの日見かけたおじさまを倣ってコーヒーを啜りながら小説を読む。しかし、内容はうまく入ってこない。
でも、今はそれでいい。だって……
「あの…何を書かれているのですか?」
僕は飲んでいたコーヒーを置いて答えた。
「小説の方を。」
初めまして。竜胆 千振と申します。
まずは数多ある作品の中から私の作品を読んでいただきありがとうございます。
私にとって初めて完成させた作品ということもあり、至らぬ点も多々あるかと思いますが、最後まで読んでいただけたことを、心より嬉しく思います。
今後、また投稿するかは分かりませんが、その際はお付き合い頂けますと幸いです。
それではまたいつか、お会いできるその日まで。
竜胆 千振




