0000 崩壊
言葉をうしなうというのはこのことだろう。社長室だったはずのその部屋は、見るもむざんに破壊しつくされていた。
たなの上にならんでいたガラスのトロフィーは何者かになぎたおされ、すべて足下に落ちている。飛びちった破片がきらめくのをなぞるように目を動かし、カイはそのさきにあるものを見た。
部屋の中央。洗練されたデザインのデスク。その天板にはひびが入り、凶暴な獣に襲われたかのような姿勢で、人影がぐったりと力なく倒れている。
獣に襲われた? いや、違う。相手が獣なら、内蔵や肉を食うはずだ。あんな風に――頭の一部だけを捕食して姿を消すなんてことがあるものか。
「あ、頭が……」
「まさか……アダムさん!?」
かたわらに立っていた女性――オリビアが口元を覆いながら震える声で言う。その隣で同僚のビリハリは真っ青になって今にも胃の中身を戻しそうな顔をしている。アダムはカイたちの働く会社の社長だった。だが、ほんの数十分前に顔を合わせたばかりの彼は、今や後頭部を欠落させた状態でカイたちの目の前に倒れている。
「本当にアダムさん、なのか」
生々しく血を滴らせる死体から目を逸らせないまま、ようやくそれだけを口にする。オリビアが震える手を動かしてInfinityデバイスを立ち上げる。起動したのは本来なら相手の健康状態を表示するためのアプリケーションだ。
しかし浮かび上がったホロに表示されていたのは、スキャン相手の生命活動が停止していることと――彼が紛れもなくアダム本人であるという事実だった。
「……ええ、間違いないみたい」
「だ、誰がこんなことを!?」
悲鳴のように言うビリハリにこたえるかのように、廊下のほうから悲鳴がひびいてきた。カイはとっさに振り向き、そちらに向かってかけだそうとする。腕をつかんでそれを引きとめたのはオリビアだった。
「ダメ!」
「だけど……!」
「こんなの人の仕業じゃないわ! 危険よ!」
二人が言い合うのをよそに、思わずといった様子で死体から遠ざかろうとしたビリハリが足をもつれさせて転びそうになった。そんな彼に手を貸して受け止め、カイは廊下のほうをにらみつける。――と、そのとき。窓の向こう側からかすかにさわがしい声が聞こえてきた。
「なんだ……?」
そろそろと警戒した足取りでビリハリは窓に近づいていく。追ってカイとオリビアもそれに続き、三人ははるか下の地上でおきていることを目にした。
人が、人を、おそっている。暴動でも起きたのか。それとも何かのテロなのか。まっさきに浮かんだ選択肢を否定するかのように、悲鳴や怒声は何度もひびいてきた。
あばれているやつらは武器を使っていない。全員が素手だ。素手で相手につかみかかり、その歯で相手の頭を食いちぎっている。それだけではない。見間違いでないのなら――暴れ回っている奴らは人の姿から徐々に遠ざかっていた。
突然、道端で死体に食らいついていた男が立ち上がったかと思うと、骨が粉々に砕けていくかのような歪な痙攣を起こした。皮膚は泡立つような形状になった後、爬虫類の肌のような質感が広がっていく。やがて再構築された骨が皮膚を突き破って角となり、膨張した筋肉はそれ自体が生きているかのように不規則に蠢く。
天を仰いだ男の口からは鋭利な牙が覗き、目は血走ってどこを見ているかわからない。いまや肌も土気色を通り越したどす黒いものへと変わり、ほんの数分前までただの人間の形をしていたことが信じられない有様だった。
変貌を終えた男は、必死に身を隠そうとしていた人々めがけて突進していく。変異は街の至る所で起こり、徐々に街は化け物の暴虐に支配されていった。
自我もなく本能のみで彷徨い歩く、凶暴で、醜悪で、獣よりも悍ましいもの。怪物か、あるいは悪魔か。いやそれよりももっと悪い。語ることすら嫌悪したくなる形容しがたき恐ろしき生物。日常に突如現れた非日常は、グロテスクな違和感を持って街を蹂躙していく。
呆然とそれを見下ろしていると、絹を裂くような悲鳴の後、女性が押し倒され、食らいつかれるのが見えた。遠目で見てもわかるほど赤黒い血がゆっくりと地面に広がっていく。その生々しさに今起こっていることが現実であると再確認し、三人は息を呑んだ。
――遠く、爆発音。なにものかが火をはなったのだろう。それは、おそっているほうの人間なのか、それともおそわれているほうの人間なのか。窓から見えるビル街は、いたるところから細くけむりが立ちのぼっていた。
そのすきまを縫うように飛ぶ大型ドローン。その上に投影されたホログラムの中で、キャスターらしき女性が必死に今の状況を伝えようとしていた。
落ち着いた行動を――
各地で起こっている――
早く安全な場所へ――
努めて冷静な顔をしていたキャスターだったが、ある瞬間、突如動きを止め、混乱したような風に喉を押さえた。それから数秒は地獄を早回しで見ているかのようだった。ただの人間だったはずの彼女の目は不規則に動き回り、半分だけ開いた口からは牙が露出していき、うなり声が漏れ、肌はでたらめに隆起する。
勢いよく理性を失ったまなざしがカメラ越しに向けられ、オリビアは喉の奥で漏れかけた悲鳴を飲み込んだような声を上げた。次の瞬間、居合わせたスタッフの悲鳴とともにカメラはなぎ倒され、映像が乱れ、やがて砂嵐だけが流れ始める。
コントロールをうしなったドローンは高層タワーにつっこんで爆発する。何がおこっているのかは分からない。だが、画面の向こう側で未曾有の出来事がおこってしまったのだということは三人にもすぐに分かった。
――ふと、弟の顔がカイの頭をよぎった。
「トシ……!」
*
『緊急ニュースです。世界各地で暴動が発生し、凶暴化した人間が次々と人を襲っている模様です』
『彼らは言語を解さず、執拗に人間の頭部を狙っています』
『対策本部によると、数日前に発生した共通夢との関連が疑われ――』