美しい
私は今、何を思うだろう。草花の芳しいガーデンだろうか、それとも、立派な公園の大理石の噴水だろうか。いや、それよりも、あの優しい思い出でが甦ってくる。かつて、私は何を歌っていたのだろう。
雄の鳥の美しい歌は、誰にだって喜びを与える。私はこれから、何を歌えば良いのだろうか。間違いなく、今終わった求愛の歌が人々に満足を与えるだろう。私は何もわからなかった。歌が何であるか。それは、求愛のために歌うのだ。その歌う喜びは、等しく誰にでも与えられる。それを、私の歌ったら、雑で仕方がない。一人、寂しく母国に帰った今、私には今終わった青春の一ページを歌うほかならない。
部屋に着き、荷をおろした。また、殺伐としたこの環境で歌を歌うなんてと思うが、私は青春の歌を歌いたい。なんで、このように思うかは不思議である。何故ならば、そんなものは、今までいくらでもやったからだ。いや、そのつもりだった。しかし、私自身が本当に囀ずることなんて、夢にも思わなかった。これが、本物の歌なんだ。そう、青春の地で感じた。柔らかな肌、ブロンドの眉、青い瞳。これが、私の青春の全てであった。
私は歌の聖地を求めて、イタリアへ向かった。日本では得られない何かが得られるだろうと、飛行機の中でドキドキしながら、そして、少し喋れるからと生意気なイタリア語でキャビンアテンダントからコーヒーを受け取った。そして、聖地イタリアにいったいどのような歌があるのか、私は考えながら、いつの間にかウトウトと寝てしまっていた。前日までの準備の疲れからか、気持ち良く、もう何時間も寝たことか。しかし、異国の聖地はまだ遠い。もう一眠り、もう二眠りとしながら、長い空の旅は終わり、イタリアに到着した。そして、慣れないイタリア語で、取り敢えずホテルにチェックインをして、ベッドに倒れ込むようにして、眠りについた。「ライバルより歌が上手くなりたい」「もっと大きい声で歌えるようになりたい」そう夢を見ながら。
時は過ぎ、私は現地イタリアで語学学校に通うことが決まった。最近は、我々のような、アジア人も多い。極東の私だが、大丈夫だろうと一安心しながら授業に臨めると気合いを入れた。
歌の先生には、日本で習っていた歌の先生からの紹介なので、挨拶にお電話を入れたが、お電話では簡単な挨拶で、あとは和伊辞典をめくりながらEメールで詳細を打ち込んだ。このようにして、着着と聖地の歌唱法「ベルカント唱法」の習得への道が開けた気がした。
しかし、辛いのはここからだった。今までは忙しかったので、その忙しさのせいで何もかも上手く行く気がしていた。しかし、宿に帰ったら、ひとりぼっち。何もすることがない。友達もいない。近所の電気屋さんで、ビビりながらのイタリア語でラジオを買ったは良いが、勧められていないのに買った自分が馬鹿だった。暇潰しにラジオを聴いたら、全てイタリア語。仕方がないから、新聞や本を読もうと本屋さんに立ち寄っても、全てイタリア語。日本を出る時に夢見ていたイタリア生活とは大違いだった。ひとりぼっちな上に、暇潰しのものや面白いものは何もない。アップライトピアノだけはあったので、持ってきた楽譜を譜面台において、凍えそうな寂しさの中、ピアノの音が雪のように美しく響いた。"Cosa c'è la nel fior che mi hai dato... Non ti chiedo, se ninfa? Se fata? Se una bionda parvenza sei tu!..." 弾き慣れないピアノの音と共に歌う自分の歌に陶酔した。寂しさの中に、はじめての愛しい音が異国の歌と共に美しく香った。まるで、薔薇のような香りだった。
いつの間にか、寂しさの紛らわしの煙草を私は覚えた。一つ安心したのは、この味は日本にもあるということ。そういえば、インターネットをこちらの宿にも引いていたので、新聞が読めなければ、インターネットでニュースの記事を見れば良い。インターネットなら日本語の記事を読むことが出来る。非常に便利な時代だ。すっかり暇潰しを覚えた私だが、歌のレッスンは一向に「良し」が出ない。歌の先生からは、私の歌には愛が足りないのだそうだ。私は愛よりも聖地の歌唱法「ベルカント唱法」を習得して、早くライバルよりも歌が上手くなりたかったのだ。"Non vinceri. Tanti ami."「勝つな。たくさん愛せよ。」と先生は毎回おっしゃった。"Anche Caraf ama di finato."「カラフでさえ最後は愛するのだ。」これが先生の口癖だった。
さて、一年が経ち、私はイタリア語が話せるようになり、語学学校で友達が出来、友達と食堂でイタリアのカッフェを飲んでいた。私のお気に入りは、カッフェに泡立てた熱いミルクの乗せるカップッチーノ。暑くのんびりとした休暇を終えた秋に、語学学校に新入生が入学してきたのだ。「あの白い金髪の女性は誰だろう。」。他の男友達に言ってみたが、あまり感心を示さなかったようだ。黙って、取り敢えず、宙に飛んでいく心を押さえつけて、無かったことにして、男友達の話しに再び参加した。
しかし、宿に帰ってから、私の心は再び宙に飛んでいき、美しい彼女の元へ行き着いた。"Si mes vers avaient des ailes Comme l'oisaux" このような、日本で覚えた詩を思い出した。確か、フランス語の歌の詩だ。はじめて、本当の歌を知った瞬間だった。
語学学校の売店で昼食のサンドイッチを買おうと並んでいた時、彼女を見かけた。声を掛けようと思ったが、彼女はサンドイッチを買って行ってしまった。単に声を掛ければ良い筈なのに、何故か見えない心の大きな壁にぶつかった。気を取り直して、先ほどまでとはうって変わって、飛び出そうになる心臓を飲み込みながら、声を掛けてみた。「サンドイッチ買ったんですか。僕も同じの買ったんですよ。」何ともぎこちない会話の切り口に、一瞬で体が凍る感じがした。話しかけた後悔と、下手な会話でカッコ悪い恥ずかしさと、様々な感覚が体を走る中、一緒に昼食を食べることになった。どうやら、彼女はフィンランド出身らしい。私もどうしても、中国人や韓国人の、近い国の人たちの友達が多いが、彼女も同じだったようだ。勿論、それが、悪いことではないが、本当は、遠い国の人とも友達になりたかったのは、彼女も同じようだ。
幸い気は合うようだ。私はもっとお話しがしたかったので、カッフェを一杯飲もうかと、誘った。笑顔で "Si" 「はい」だった。何より私は嬉しかった。私はカップッチーノにしようかと言ったら、彼女はカッフェにすると言った。私も同じカッフェにした。一緒にカッフェを飲んで心が触れあった。カッフェの味はさくらんぼだった。
語学学校が終わり、宿に戻ると、まだ口の中がさくらんぼだった。煙草が一層、さくらんぼを強くする。何だか、お腹がいっぱいのような気がして、夕食は食べられそうにない。そのまま、寝てしまった。
語学学校へとは通うが、急に彼女が冷たくなった。口の中はさくらんぼ。私も体調が悪かったので、その時は気にしなかった。
しかし、後になってどっと出てきた。宿に帰っても、歌っても、彼女といたい。運命だと思いたい。"Per pietà bell'idol mio..." その気持ちが私に歌を歌わせた。
それからの私は、狂うように歌にのめり飲んだ。レッスンでは思い切り歌った。
そして、二年間の留学を終え、母国である日本に帰ることになった。歌の先生も涙ながらに私を送ってくれた。歌の先生が慣れない日本語で「歌は愛で歌う」と言ってくれた。私は大きく頷いた。私はイタリアに来た二年前の「ライバルより歌を上手くなろう」なんて気持ちは、もうどうでも良かった。異国の地で、離れたくなくて、でも、帰りの飛行機の時間がもうすぐなので、空港に向かった。聖地を背に日本へ帰国した。
日本についた。私は部屋に着き、荷をおろした。最後の方は夢中で歌ったけれど、彼女は元気にしているか、思い出した。日本に帰ってきたが、イタリアに着いた時よりも寂しい。でも、それは、凍えそうな寂しさとは違い、音が消えてシーンとした寂しさだ。
シーンとした部屋で、グランドピアノを鳴らし、思い切り歌った。遠い地にある青春の歌が寂しく響いた。
しかし、イタリア留学したので、その成果を日本で見せなければならない。しかし、私にとって、「ライバルがどう」なんて、どうでも良い話。
しかし、この殺伐とした日本で、かつてのライバルと結果発表するのがお約束だ。
私は日本の歌を舞台で歌うことにした。「砂山の砂に腹這い」と歌った。私にとって聖地での出来事は初恋ではなかった。しかし、愛が私に歌わせたのは母国語だった。イタリアに留学したのに、イタリア語なんて一行も歌わなかった。しかし、愛が愛を歌わせたのだ。周りのかつてのライバルも曲目は発表した時には、調子抜けして馬鹿にしていた。しかし、歌う終ると、静かな拍手からはじまり、大きな拍手へと変わった。私は舞台で忍び泣いた。そして、舞台の袖で私は号泣した。
後日、本当はコンサートだからいけないのだが、コッソリ私の歌をカセットテープに録ってくれた人が居たようだ。「ライバルとどう」なんてどうでも良くなっていた私だが、恐る恐る聴いてみた。素晴らしい内容、見事な歌、そして何より美しい歌、すなわち「ベルカント唱法」。いい声を出そうするのではなくて、伝えようとする意志が、声を美しく変えるのだ。これが、「ベルカント唱法」の真実だったのだ。多くの発声技術を覚えても、それはベルカント唱法にはならず、伝えようとする意志が技術を持つからベルカント唱法になるのだ。そう気がつき、そして、聖地での日々が、人々が、本当に掛け替えのないもので、私は夜通し一人で泣いた。
そして、また何もない日々が続く。そういえば、彼女は元気だろうか。彼女に電話した。繋がらなかった。メールだけ読んで下さいと、Eメールを送った。Eメールが帰っていた。"T'amo! T'amo! T'amo!" 溢れる程の愛の気持ちをEメールに打った。
イタリアに戻ってきた。しかし、着いてみてわかったが、どちらが母国なのか、良くわからない感覚におちいった。私にとっては、どちらも母国だ。そして、歌の先生にも会って、再開をとても喜んでくれた。そして、美しい彼女ともイタリアで会うことになっていた。
彼女はとても美しい。