第三話 誓いの言葉は「はい」だけ言えばいい
2021/2/10 話の前後を入れ替える大幅改稿を実施いたしました。
ブラウニー宮殿では宰相のティプシー・ケーキが待っていた。
「奏様。ほんの一部ではございますが、ビスケット王国はいかがでしたでしょう」
「活気があって素晴らしい民たちね。良い国とわかるわ」
「それでは、改めまして。殿下、我らビスケット王国に王女としてご即位いただけますでしょうか?」
「はい、私で良ければ」
「ありがとうございます。戴冠式の準備は整っております。専用のお召し物をご用意しておりますので、まずはお支度をお願いいたします」
王女なのだから当然かもしれないが、宮廷には奏の私室が用意されている。部屋に入ると一人のメイドがスカートを掴んでお辞儀する。
「殿下。お初にお目にかかります。私、宮仕えのメリッサ・チョコレート・ティフィンと申します。以後、殿下のお役に立てるよう誠心誠意尽くしてまいります」
「よろしくね。チョコレート・ティフィン」
「殿下、よろしければメリッサとお呼びください。チョコレート・ティフィンは長すぎますので」
「そう、ならメリッサ」
「はい殿下」
メリッサははつらつとした笑顔を見せる。奏はこの笑顔に安心する。
「殿下、お急ぎください。式典まではあと一時間ほどです。お色直しを急ぎましょう」
そう言ってメリッサは奏をくるりと半回転させて、ドレスを解き始める。途中まで着替えをてきぱきと手伝っていたメリッサだが、急に手が止まった。メリッサは奏の体をまじまじと見る。奏は鏡に映るメリッサを見る。
「私の体に何かついている?」
「いえ、失礼いたしました」
彼女は何か言いたげだった。けれども緊張しているメリッサが奏にとっては少しほほえましかった。
「その、奏様。シャワーをご用意しておりますがいかがなさいますか?」
なんてことはない質問をおどおどしながら話すメリッサ。
「えぇ、そうね。キレイにしておきたいわ」
すると、メリッサは急に驚き始める。
「本当に入るんですね! 大丈夫なんですね?」
「どういうことよ?」
「えっと! お時間がありませんのでまずはシャワーを願いします」
メリッサは奏をぐいぐいと押していく。
水の流れる音。滴のこぼれる音。流れるお湯は今日の疲れも洗い落とす。奏はシャワーを浴びながら裏で控えるメリッサと話をする。
「実は菓子にとって、水分は猛毒にございます」
「そうなのね。だから、シャワーが珍しいのね」
「はい!」
水とは菓子にとって神秘的存在である。生地を練り固めるときに命の水を加えて以降、水は菓子にとって毒となる。焼き上げた生地は水を含めばボロボロになって壊れてしまうように、菓子の体もダメにする。
「ですが人様は違います。水によって体を清めることができます」
菓子と人間の間にある大きな差はその寿命である。人にとっての一日は菓子にとっての二十四年。人間からすれば菓子は数日でその寿命を迎えてしまう。菓子たちはこの差の理由を水に見出している。
菓子の体は繊細である。一滴でも味の濃いソースをかけようものならたちまち体に浸み込み、味が変わってしまう。そして、水に弱いため洗い落とすこともできない。一方で、人間はどんなに濃い味が付いたとして、水によって洗い流すことができる。人間の味はこれによって保たれている。故に、寿命が長く保てているのだと彼らは考えているのである。
「なるほど、確かに風呂は命の洗濯と言われているわ」
「やはり、人様はお体を清めることができるからこそ長寿を賜ったのでしょうか?」
「それは、どうかしら」
チリンチリンとベルが鳴る。どうやら督促の合図らしい。
「…奏様。失礼ながらお話はまた今度お聞かせください。今は大事な戴冠式がございます」
のんびり構えている時間はない。王女というのは思っている以上に忙しいのだ。
奏は慌ただしく着替えをすませブラウニー宮殿に隣接するマイスター大聖堂へ向かう。
「奏様、お急ぎください」
随所で待ち受ける彼らは誰も遅刻と言わないが、時計塔の指し示す時刻は八時を少し過ぎている。奏は遅刻していると思い歩みを速める。
「奏様、お初にお目にかかります」
彼はマイスター大聖堂の大主教である。ビスケット王国のパティシエ教の総本山である。名前は、クリスマス・プディングである。
「よろしくお願いするわ」
クリスマス・プディング大主教は礼装である。黒い服に、金の鎖につながれたペクトラルクロス(主教専用の十字架)を首に下げている。
「奏様申し訳ありませんが、この格好でご勘弁ください。残念ながら神道の礼装を用意できませんでした」
どうやら、この世界では人に宗教をあわせるらしい。意外であった。キリスト教一択なのかと思っていたから。
「ただし、これは職人に頼んで間に合わせましたぞ」
大司教はペクトラルクロスを自慢げに奏に見せる。よく見ると、天野岩戸から射す後光と「天照大御神」という漢字の刻印がある。思いがけぬ和洋折衷。菓子民たちの神に対するあやふやさが垣間見えるが、日本から来た奏が誓うのは天照大御神でなければだめなのだと言う。
「なんだか、恐れ多いわね」
と言いながら、奏は背筋を伸ばした。その名に恥じぬ貢献をいよいよ求められている気がしてきた。王号が、王より一段下の王子・王女である理由がなんとなくわかってきた。
「プディング大主教。今日はよろしくお願いね」
「はい。もうお時間がありませんので、手短にリハーサルを行います」
大主教がこれから行う戴冠式において、奏への質問はたった四つ。この四つの質問すべてに『はい』と答えればこの式典はつつがなく進行できる。
「ここまでよろしいですか?」
「はい」
「良いお返事ありがとうございます」
そして、質問内容は簡単である。まず、大主教を神の代理として認める。次に、神に嘘偽りをつかないと宣言する。次に、この国の王女として国民達と苦難を共にして諦めず国家の繁栄を願うことを誓う。そして最後、王女の名の下にビスケット王国を国家として承認する。
「以上でございます」
「よくわかったわ」
「次に入場と退場です」
式典が始まるとまずは大主教が長々と台詞を語る。およそ十五分ほどだという。歴代の姫君は頻繁に登場するタイミングを間違うという。
「せっかくですから美しく決めたいですよね」
「もちろん」
「それでは可愛らしいあなたに合図を頼みましょう」
プディング大主教は人差し指を向ける。
「君、名前は?」
「メリッサです」
「ありがとう、歩き始めるタイミングはメリッサに任せましょう」
と言うことで、奏はメリッサに背中を押されたタイミングで、扉から真っすぐ歩いて玉座に向かうことになった。プディング大主教は、奏が通るべき道を実際に歩き見本を示す。
「これくらいのゆっくりした速度でお願いします」
と見本を示し椅子のそばまで歩いて行く。
「今、玉座はお見えになりますか?」
煌々(こうこう)とした灯りに照らされ眩しいくらいであった。
「えぇ」
「今はライトアップされていますが本番ではライトが落ちます」
大主教の合図で会場は一度真っ暗になる。しかし、やがて満月の明りによって奏の座るべき玉座がぼんやりと照らし出される。水の中にいるような光の揺らぎが教会内を包み込む。
「はい、メリッサ。今です」
メリッサは奏の背中をそっと触って合図を送る。奏は前へ歩みだす。
「ゆっくりと、もっとゆっくりで構いません。殿下は世界の盟主らしく堂々と歩いて玉座を目指してください」
コツ、コツというヒールの立てる残響を一歩ずつ聞きながら奏は会場を歩む。奏の背筋は自然と伸びた。
玉座の前に来たら、まず会場を一望する。大主教から「ゆっくり」と何度も言われる。目は見開かず、少し閉じたくらい。笑顔は求められていない。ただ、会場の様子を見れば良い。そして、奏はゆっくりと玉座に腰を下ろす。そして、大主教が先ほどの四つのうち、三つ目までの質問をする。
「その後、私は殿下にこの冠を授けます」
赤と金色の冠。この冠は、奏のために造られたものである。小道具でも使いまわしでもなく、歴代の君主全てに手作りされる。
「少し重いですので今のうちに感触を確かめてください」
奏は恐る恐る手に取る。宝飾品によってズシリとした感触が手に伝わる。ただ、目立たないけれど糸くずがついていた。奏はそれを取ろうとする。
「お待ちください。それを取ってはなりません」
「これはなに」
「これは冠の向きを表しております」
冠は向きを間違えやすい。だから、目立たないようにこういう目印を残してあるらしい。冠マニアならどちらが前なのかすぐにわかるらしいが、あいにく大主教も暗がりではわからないそうである。
更に、大主教は目が悪く暗がりでは目印もわからないそうである。戴冠式では一度王女が冠を品定めをするので、そのときに向きを確認してほしいとお願いされた。
「そういうことなら、もちろん良いわ」
大主教はウィンクを返した。
「後は、宰相閣下がビスケット王国の承認をしてほしいとやってきます」
ティプシー・ケーキ宰相は暗闇の中から小走りで駆けてきて、ちょこんと小さく跪く。
「最後、宰相のお願いに対して『はい』と一言いただければ完了です」
あとは大主教が話しをして、退場である。入ってきたときと同じ扉の前で、今度はメリッサが蝋燭を灯して待っている。小さな揺らめく光を目印に戻ればよい。
「わかったわ」
「何とか間に合いました。本番でお会いいたしましょう」
大主教は胸に手を当てながら奏に対して深く礼をした。可及的なほど速やかなリハーサルを終え、今は大聖堂に次々と賓客たちが入ってくる。
世界中の要人を呼んで行われる通過儀礼は「はい」と言うだけの簡単なお仕事だった。
今週もスイーツ世界をご堪能いただきありがとうございます。遥海 策人です。
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いよいよ、奏はこの国家と契約することになります。
王室の戴冠式に限りませんが、主賓は大してしゃべる内容はありません。結婚式よりも葬儀よりもずっと短い言葉で済むようです。あがり症の方でも戴冠式は普通にこなせると思います。饒舌に語る必要があるのはむしろ、市民向けのイベントの方でしょう。それも、正直秘書官に任せて原稿を書いてもらうことで立派な定型的王様になることはできます。
奏のように尊敬を求めなければ、確かにだれでも良いのかもしれません。
物語内で登場するスイーツを紹介する「姫君のスイーツ辞典」始めました。
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カクヨム 月曜日投稿 ちょっとだけ早く読めます。
本サイト 水曜日投稿 あとがきに小ネタが入ります
更新情報(稀に)配信 ツイッター @harumi_sakuto