名無しの権平
陽が沈みかけ霞の様に赤い空が暗く包まれる頃、灰色がかった煉瓦造りの街並みに溶け込む大きな酒場の前に、空から曇天が畝り落ちてくる。
其の煙が撒き散らされると酒場の扉に比して小さな外套を纏う男が立ち上がった。細身で黒曜石の様な髪と目が暗闇に溶け込む。
ランプの下に霞んだ文字で貸切中と書かれたボロい看板。そして何より酒場の中から下品な笑い声と喧しい話し声が漏れていた。
「アイツらホントに騒がしいな」
男は苦笑いを浮かべ騒音に負けない様に鉄のドアノッカーをガンガンと叩く。少し待てば厚く大きな扉が開き、光が差して胡乱げな熊の顔がヌッと出てきた。
その表情も無理も無い。傭兵団が貸し切っているのはこの街では周知の事実。そんな酒場に好き好んで入りたがる者はおらず、特に今この大きな酒場を貸し切っている傭兵団は獣皮人だけで構成さており、血の気の多い者達ばかりである事は子供でも知っていた。
彼等は誇り高く気のいい者達だが人間にとっては粗暴で乱暴な所がある。
また、そう言う相手を商売客とする酒場であれば同族の店員になるのは必然。そんな場所へ赴く目の前の黒上黒目の人間の様な物好きは珍しい。
「悪いが今日は貸切だ。間の者の客人よ」
「あぁ、知ってるよ。
獣皮人の店主さん。その上で傭兵団長の白熊ベルムと副団長の黒狼ウォルンに名無しのゴーン・ベイがきたと伝えてくれ」
店主殿は少し考え頷いた。勇壮なる同胞の知り合いならば此処に来るのも頷けると。
「ふむ、解った。少し其処で待っていろ間の者の客人」
そう言って熊の顔が引っ込み少しすると喧騒が止みドスドスと足音が響いて、一泊の間を置きドアが四散しそうな勢いで開かれる。
騒音の犯人にして笑みを浮かべて現れたのは3メートル近い巨人に勝るとも劣らない背丈を持つ、上半身真っ裸の屈強な熊の獣皮人だ。彼独特の真っ白な毛に覆われいない六つに割れた腹筋と盛り上がる胸筋が暑苦しい砕牙傭兵団団長ベルム・アクスバンカー。
獣皮人と言うのは一見、獣の毛皮を被った様にしか見えないが、其の獣の顔は瞬きもすれば口を開いて呼吸もしている。総じて体を動かす事を好み力強く誇り高く、種族的に屈強な体躯をな体つきなのが特徴だ。
ベルムは其の白い熊顔に笑みを浮かべて名無しと名乗る人物を招き入れた。
「待ちかねたぞ我が友ゴーンよ!取り敢えずは一杯、共に飲もう」
「おぉ、んじゃお言葉に甘えようかね」
「はっはっは!おい、店主。酒樽を追加してくれ!!」
「わかった」
彼について酒場へ入って行くと陽気で軽快な音楽を奏でる男達の前で、衣服を翻して踊り子が舞っている。力瘤を浮かべて戦功を語る者や、飲み比べでフラフラてる者、給仕の女の尻を触ってブン殴られる者。誰もがその獣の顔に笑みを浮かべていた。
そんな空間をベルムに続いて横断すれば顔見知りには手を振られたり、小樽に取っ手をつけたジョッキを軽く掲げて挨拶を受ける。
「よく来たなぁゴーン!」
「おう、邪魔するぜ!」
「黒い魔法使い殿、お陰で傷の治りが早えぇぜ!」
「勇猛な友柄の活躍を祈る」
「はっはっは、当たりめぇよぉ!」
「魔法使いの兄貴!今日は敵将を一人打ち取ったぜ!!」
「おめでとさん」
喧しく暑苦しい連中だが嫌いになれない。そんな喧騒の中を抜けて酒場の階段を上ると突然ベルムが立ち止まった。
「ん?どうしたベルム」
突如、歩みを止めた大柄なベルセルクの背越しに前を確認すると、大きなテーブルに足を掛けて幹部達が腸詰肉の引っ張り合いをしていた。
ベルムが鬼の形相で突っ込んで行き幹部二人が宙を舞う。
「馬鹿供がぁ!それぁ俺のモンだ!!」
打撃音と粉砕音が響く騒乱の中から副団長である黒い狼の獣皮人のウォルンがこっちに避難しながらボヤく。
「あーあ、ありゃ止まんねぇな。てか腸詰肉に命かけすぎだろ」
「どうしたんだよ?」
「覚えてないか?あれはアンタがくれた最後の腸詰肉だよ。ニルベアとガーニルの野郎が団長の楽しみにとってたヤツを食いやがったんだ。自業自得さ」
「あぁ・・・アレ?」
元祖人の腕くらいの太さのやつ数百メートル分を、人が二人は入れそうな木箱に詰め込んで数十箱売ってやったのが三日前であったなと、ゴーンは疑問に思うも獣皮人で有ればそうなるだろうと瞬時に納得した。
「ゴーン、相変わらずで悪いが取り敢えず飲んでくれ」
給仕の狼の獣皮人の娘から受け取ったエールを、欄干に体重をかけ乱闘を見物しだしたゴーンに渡す。
受け取ったジョッキの飲み口に手をかざして冷やしてから一気にあおった。酒にあまり強く無いゴーンでも飲みやすい薄い酒精と微炭酸、麦芽の甘い風味が口に広がり喉を潤した。
「うん。美味い」
飲み干し満足げに頷くゴーンの横に、ウォルンは苦笑いを浮かべて欄干の手摺に飛び乗り座る。
「相変わらず魔法の無駄遣いだな」
「良いんだよ使えるモンは使っとけば。風を操って部屋を綺麗にし、水を操り風呂に入る。火を操れば料理して、土を操り田を耕す。
これ以上の有効活用なんざねぇよ」
「・・・ほんと変人だ」
続けて相変わらず面白いやつだと呟いた。こういう人物だからこそ魔法使いでありながら人脈も広く、今回の事で助力を乞うたのだ。
「それで魔法使い殿に此処に来てもらった訳なんだが・・・」
「ニャァ、ウォルン。それはミャアが言うよ」
突如、二人の耳に撫でる様な声が伝わりウォルンの言葉を絶った。ウォルンは少し驚いたらしく軽く目を見開く。
声を追えば二人の間の欄干に、二足で立つオッドアイの黒猫がニコリと笑っていた。欄干から飛び降りて音も立てず着地し、クルリと反転する。
二人の前に後脚で立った黒猫は、猫らしからぬ姿勢で一礼した。
「猫精霊か」
ゴーンの呟きに青と黄色の眼を向け、猫はゆっくり頷き肯定する。
「御推察のとおりミャアは動物精霊が一つ、ケットシー。
初名をミケニャンジェロ・ニャ・ゴロニャーゴ・ブオナニャーティ・シモーニャ。
現八つ目の名をカラバ。此の国の猫王カラバ・ミケだよ。
名も無き魔法使い殿、お見知り置きを」
「んー?」
「ニャ?」
ミケニャンジェロが名前を言うとゴーン・ベイは首を傾けるも、どうしたのか問う様な視線を送られると何でも無いと首を振った。
「取り敢えず、よろしく。」
「ニャ。ミャアがベルムとウォルン坊に頼んで魔法使い殿に来てもらったのは他でもニャい。薬を一つ頂きたいんだ」
「薬?マタタビ酒か」
そう言うとゴーンは自分のローブの中を探り一本の瓶を出した。
「ニ“ャ!?其れはとても興味深いけど、ミャアが欲しいのは石化を解く薬だよ」
「そらぁ、また何で?」
「ミャアにカラバの名をくれた人の想い人がコカトリスの石化毒にやられちゃったんだ」
「あー、蛇雌鶏竜の石化か。俺に頼むって事は三日は経ってねぇだろ。症状の程度と石化した時の状況教は?」
「あぁ、昨日の事だ。俺がトドメを刺し切れなくてな。死に際の一撃だった」
「お前が討ち漏らしたのか!?どんなバケモンだよ。
一応、聞くが石化対抗薬の飲み忘れってわけじゃねぇんだろ?」
「ああ、勿論。蛇女神の赤珊瑚を使ったヤツだ」
「それを超えてきたか。ってこたぁ随分強い呪いだな。
蛇雄鶏竜だったら如何とでもなるんだが、卵を守るからか蛇雌鶏竜のが毒が強いんだ」
渋面を浮かべたゴーンにウォルンは慌てて言う。
「団長や俺も世話になってる人なんだ。何とかなんねぇかな?」
「あ、いや。手はある。赤珊瑚が原料の石化対抗薬で駄目だったんなら叫殺人根草の煮汁を加えて強化した石化解呪薬か、手っ取り早く万能薬だな」
ゴーンの見立てにウォルンは心情のまま顔を顰めた。
「石化解呪薬の素材は蛇の鱗と血だよな」
「あぁ、幼体の双頭蛇竜で良い。成体の竜になったヤツだと俺も手に入れるのが面倒だからな」
熱心に人の悩みを聞くゴーンを見て猫王カラバは言う。
「ニャんと言うか特異だねぇ」
「我が友はそう言う奴だ猫の王。魔法使いの中では最高の変人だからな」
両手に幹部二人の頭を掴んだまま言うベルン。ゴーンはため息をついてローブに手を突っ込み、ベルンの頭上目掛けて腸詰肉を投げた。
変化は劇的だ。伸びた幹部二人を放り投げて、両手で頭上を過ぎ去ろうとした腸詰肉を掴むと、期待に眼を輝かせてゴーンを見る。
「其れやっから許してやれ」
返事も言わず貪り食う。これだけ美味そうに食べてくれるのなら作った甲斐もあったと言うものだ。食べカスを飛ばさぬ努力はして欲しい所だが。
随分と緊張感の失せた空気に頭を掻くとゴーンはまたも外套を弄りだす。
「えーと、あった。此の袋の中に、此れだ」
そう言うと紫と紺の混ざった液体の入った円柱状の硝子の瓶を出した。
「人一人の入る桶に聖水と此れをぶっ込んで混ぜると、聖水が此の気色悪い色になるから、其処に石化した人を漬け込め。
全身満遍なく浸さねぇとその部分が石化したままになって死ぬから注意な」
「ニャー、じゃあ対価は?」
「拠り所を探してる家事精霊か動物精霊紹介してくんね?」
「ニャー良いけど‥‥そんなことで良いのかい?」
カラバは驚いた。「魔法使いの助力には等倍の対価を」と言う常識からは程遠いからだ。
「あぁ。唯、家は死ぬほど広い上にゴミ屋敷だからな。汚してんのは俺だが、俺じゃぁ如何しようもなねぇ。
自慢じゃ無いが三人は紹介してもらわないとヤヴァイ」
「アレ?さっき風を使って掃除するって‥‥」
「フッ、教えてやろう。
俺ぐらいの魔法使いが少し気を抜くと風が吹き荒れて屋敷の中グチャグチャになるんだぜ。だから助けて下さいお願いします」
カラバと言う名の猫を飼う領主宅に一通の手紙とマタタビ酒の樽が届けられるのは此の二ヶ月後の事である。
手紙には「カラバ殿へ。一年ぶりに家の床を見れた気がする。ありがとう」と記されており家主は首を傾げたと言う。