あの夏の出来事
じりじりと蝉が鳴き出す季節になると、いつも思い出す人がいる。彼女のことは名前すら知らない。顔ももう薄ぼんやりとしか覚えてはいない。ただ、あの数日のことは、今でも脳裏に焼き付いて離れない。忘れられない。もう忘れてしまいたいのに。
「その子ってどんな子だったんだ?」
隣のベッドで寝転んでいる男は聞いてきた。「なんであんたに言わなきゃならないんだよ。墓場まで持って行くと決めてるのさ」
その無精ひげだらけのジジイは、へっとわざとらしい声を出してにやついた。
「墓場なんて笑わせる。ここがあんたの墓場だろうがよ」
「まだ死ぬ気はないよ」
「死ぬ気はなくても、あんた、もう死にかけじゃあねえか。俺だって同じ死にかけのジジイだけどよ」
下品にアッハッハと高笑いをした。あたしはこのじいさんの下品な笑い方が大嫌いだ。
「死にかけ同士仲良くしようや」
「はん、絶対いやだね。あんたと違ってあたしゃまだ正気を保ってるんだよ。もうアルコールで脳みそやられてるんだろ。そんな黄色い目をした野郎の言うことなんて聞きたかないよ」
「ばあさんだって黄色い目をしてるじゃないか。お互い様だろ」
昨日までいた田中さんが退院してから、このじいさんはやけにあたしに突っかかってくるようになった。入院した頃からずっと同じ病室にいて、寡黙な男だとはじめは思ってたのだが、意外に喋りなようだ。
もう気づいてるかもしれないが、この病院はいわゆる精神病院ってやつだ。
あたしらみたいな老人でここに入れられてる人間はろくなもんじゃない。家族がいないか、家族に捨てられたかの二択だ。
このじいさんはおそらく家族に捨てられたクチだろう。見舞いにやってくる家族らしき人間を一度たりとも見たことがないもんな。
あたし? あたしも同じさ、察してくれ。
アルコールで頭をやられた人間の世話なんて誰だってしたくないに決まってる。
「あたしは名前すら知らない男に素性を話したくはないね」
「話してるだろう。鈴木だよ俺は」
「それは偽名だって聞いたよ。わざわざ偽名で呼ばせるなんて、おまえはやっぱりろくな男じゃないね」
「ユーモアがあると言ってほしいな」
「ユーモアのかけらもないわ。ただの悪趣味っていうんだよ」
鈴木のジジイはあたしが入院してくる前から、この病院に入院していた。しかも厄介な患者で有名だ。自分の本名を話したがらないし、何かと看護師に命令をする。アルコール依存症の患者なんて横暴な人間ばっかりだから、看護師たちもひやひやだ。閉鎖病棟にぶち込みたくても、このジジイはそこまで症状が酷くもないからできないようだ。
「本当におまえは迷惑なジジイだな」
「おまえには言われたくねえよババア」
もう五十過ぎた男女が罵倒し合う姿は、酷く滑稽だろう。
「あんたが過去の話するなら、俺だって同じ墓場に持って行こうと思ってた話をしてやるさ。お互い様だろう? たまには刺激的な話をしようぜ」
「その手には乗らないよ。あんたなんて信用できるかい」
ひたすらにやついてる間抜け面をにらみつけてから、あたしはふて寝した。
あんたなんて信用できるかい、と言い放った翌日に男に話すなんて、あたしもあたしで寂しかったのかもしれない。
もっと若かったなら、絶対に言わなかったはずだ。ほら、あたしにもあの子にもリスクがあるからさ。
「あたしの人生は凡庸だったけど、あの三日間だけはドラマチックだったんだよ」
「ババアのくせに乙女みたいなこと言ってやがる」
凡庸な人生を送ってきたのに、五十にもなって精神病院に入院してるだなんて片腹痛い。 たぶん、これも罰なんだろう。
あたしが中学生の頃だった。あの子はあたしより年下で、名前も知らない女の子だった。おそらく。
家にいるのがいやで、いつも深夜に神社に入り浸っていた。深夜の神社だなんて気味が悪い場所には、あたしとその子くらいしかいなかった。その子も家にいたくなくて徘徊しているのだと言っていた。
お互いの素性や、お互いの家の話はしなかった。しちゃいけないと、お互い思っていたのかもしれない。野暮だと、あたしもずっと思っていた。そこから逃げたくて深夜の神社なんて場所にいるのに、逃避した夢で現実なんて直視したくないじゃないか。
その子は名前をユウキと言った。
ショートヘアで前髪は顔を覆うことができるんじゃないかってほどに長い。それでいて、目は驚くほどに大きかった。それまでの人生でこれほど大きくてかわいらしい目をした人を見たことはないんじゃないかというほどに。まつげも長い。瞬きをするたびに光が反射してきらめいていた。
ユウキはいつも決まって二十三時には神社にやってきた。あたしはそれより前の時間には必ずいた。だいたい、お父さんが帰宅するのが22時くらいだったから、入れ違いになるように家を出ていたのだ。
鳥居から伸びる石段の上から二番目あたりに腰掛けて、ユウキがやってくるまでいつも本を読んでいた。決まって、お母さんの本棚から適当にくすねてきた本だった。
二十三時頃になるとたったとユウキが石段を駆け上がってくる。
「おまたせ」
待ち合わせをしているわけでもないのに、ユウキはどこか申し訳なさそうな顔をしていた。切らしている息を整えながら、ユウキはあたしの横に腰掛けた。
「今日はいつもより五分遅かったね」
「あはは。ごめんね。妹の宿題を手伝ってたんだ」
「妹なんていたんだ」
「三つ下なんだ。僕と違ってとてもよい子だよ」
ユウキはいつも自分のことを僕と言う。なぜ僕だなんて男の子みたいな一人称だったのか、聞きたかったけれどなんとなく聞けなかった。クラスメイトの佐藤さんも、一人称が僕だったし、ひょっとしたら珍しくもなかったのかもしれない。
「早くこの街を出たいなあ」
これが彼女の口癖だった。ユウキはいつもいつも、毎日決まって一度は街を出たいと言った。
「あたしも」
決まってこう言った。あたしもこんな田舎町からさっさとおさらばしたかった。結局、何十年とこの田舎町に暮らしているけれど。
「いつか大人になったら、二人で暮らしたいな。僕、京子ちゃんとなら一緒に生きていける気がするんだ」
「そんな大人になったらお互い結婚してるよ」
冗談っぽくあたしが言うと、ユウキはむっと黙り込んだ。あたしもつい、一緒に口をつぐんでしまった。だって、大人になったら自然とみんな結婚するものでしょう? 当時のあたしは確かに、そう信じていたのだ。
「僕は一生結婚なんてするつもりないよ」
その声はいつものユウキとは比べものにならないくらい、低い声だった。だからか、ぞっとした。なぜだかお父さんのことを思い出したからかもしれない。
ざああっと風がなびいた。
「ユウキは変わってるね」
「そうかな? 変わってるなら、京子ちゃんだって大概変わってるよ」
「類友かもね」
「だったらうれしいな」
未だにあたしは親友が何なのかがわかっていない。そもそも友達が何なのかすらはっきりとわからない。そんなあたしでも、ユウキははっきりと友達で、親友だと言い張ることができた最初で最後の女の子だった。
それほどに心が通じ合っているような気がしていた。毎日深夜に少し話すだけなのに、お互いのことを何もかも理解できた気になっていた。いやな現実から目を背けることができた。
「もうお父さんに会いたくない」
こんなこと、ユウキにしか言えなかった。弱音を吐いたらいつも父さんに殴られていたけれど、彼女は殴ったりなんて一切せずに、ただ微笑んであたしのことを抱きしめてくれた。抱きしめてくれると、心がふわっと少しだけ軽くなったような気がした。
「僕もお父さんに会いたくなんてないよ。もちろん、お母さんにも」
ユウキからはお母さんの愚痴も聞いていた。あたしはお父さんが飲んだくれのどうしようもない男ってだけで、お母さんはまともな人だったから、ユウキの家庭環境にただただ同情した。
だって、お母さんもお父さんも敵なんだとしたら、家で逃げ場なんてないじゃないか。 その状況を知っていたからこそ、あたしはユウキの逃げ場になってあげたかったのかもしれない。
「いつか、絶対に二人で逃げ出そうね」
いつもそう言ってから別れていた。
「よくある話じゃないか。別に珍しくもなんともないだろう」
そのくそジジイはあしらうように言った。あたしはこんな反応をされるとわかっていたから言いたくなかったのだ。
「俺にもこんな間柄の不良仲間がいたよ。お互い傷をなめ合うだけのな。ただ、そんな関係は不毛だぜ。生産性もない」
今の俺たちみたいに、とそいつは付け加えた。
「あんたとあたしの関係が生産性がないことは認めるが、一緒にはされたくないね」
「一緒だろう。そりゃ、思い出だからきれいに思えるんだよ。誰だって十代の頃の記憶はきれいに映るもんさ。俺にだってきれいな思い出の一つや二つくらい持ってるぜ」
「これは、きれいな思い出なんかじゃないよ」
「じゃあ、そのきれいじゃない部分を聞かせてみろよ」
たぶん、あたしはムキになっているのだと思う。久々に頭に血が上っているのがわかった。じゃなきゃ、こんな侮辱された後に話をするはずがないだろう。
「わかったよ。じゃあ続きを話すさ」
あたしとユウキの関係性が一気に変わったのは、あの日だった。
その日もあたしは二十二時には神社の石段似座って、ユウキのことを待っていた。今日は本を持っていたが、なんとなく読む気になれなくて、石段の上から階段の下を眺めていた。この上から落下したら、たぶん死ぬだろうなあとか、今死んだら誰かが悲しんでくれないかなあ、とか考えていた。こんなことを考えるのは、疲れているからかなあとか。
この日は夏なのにすごく涼しかったのを今でもよく覚えている。
二十三時頃にいつものようにユウキがやってくると思っていたのに、ユウキはなかなかやってこなかった。
その代わりに見知らぬ顔の女性がやってきた。あたしのお母さんと同い年くらいだろうか。白髪交じりでしわやほうれい線が目立つその女性は、目を三角にしてあたしをにらみつけた。もちろんだが、その女性とは顔見知りでも何でもない。
「あんた、何者なのよ」
突然、知らないおばさんに何者なのかと聞かれても、頭の中にはハテナマークが浮上するだけで、言葉が出てこなかった。
「あんたが毎晩ユウキをたぶらかしてることはわかってるのよ」
「ユウキ?」
つい、口にしたのが間違いだった。あたしの反応にその人は食いついてくる。
「あんた、やっぱりユウキを知ってるのね」
「ユウキのお母さんですか」
「あんたにお母さんと呼ばれる筋合いはないわ」
初対面の女性に、ここまで強く当たられたことはなかった。
「お母さん」
石段の下からいつも聞き慣れた声がした。ユウキだった。彼女は石段を駆け上がる。
「お母さん、何してるんだよ。早く家にかえってよ」
今度はユウキに睨み付けて、駆け上がってくる彼女の二の腕をユウキは掴んだ。その掴んだ指はめりめりとユウキの肉に食い込んでいて、あたしはつい「やめてください」と叫んでしまった。
「ユウキは私のものなんだから、あんたに指図される筋合いはないわ」
「誰かのものなんかじゃない。お母さんだからって傷つけて良いわけないでしょう」
「うるさい!」
あたしはユウキの腕をつかんでるお母さんの手を叩いた。そうすると、その女はあたしの頬を叩いた。するとユウキは唇を噛んで、「京子のことを殴るなよ!」と怒鳴りつけた。「僕ならまだしも、京子ちゃんには手を出すな!」と叫んでからユウキは母親の頬を叩いた。お母さんの顔はあっけにとられていた。
「あ」
と声とともに、お母さんは落下した。
サンダルを履いていたこともあってか、バランスを崩したのだろう。
その落下していく様子をあたしとユウキはただ、黙って見ていた。ごろごろ転がって、ぱさんと一番下まで落下し終えた。
「どうしよう」
あたしのほうがずっと戸惑っていた。ユウキはただ無表情を貫いて「どうしようもないよ」とつぶやいた。
「警察が来たらどうしよう」
言った自分の声がひどく震えているような気がした。たぶん、本当に震えていたのだと思う。
「この街から出よう」
ユウキはあたしの手を取って、石段を駆け下りた。ユウキのお母さんが倒れている横を過ぎ去るとき、ちょっとした罪悪感があったけれど、ユウキの爛々とした顔を見ると「やめよう」と提案することもできなかった。
昼間の病院は人で賑わっている。
いくら精神病院だとはいえ、皆が皆、意思疎通が不可能なわけじゃないし、皆が皆あたしたちみたいに見舞いしてくれる人間がいないわけでもない。ほとんどの人間にはちゃんと家族がいて、ちゃんと心配してくれる人間がいるのだ。
「あたしが思うに、人生の価値は大事に思ってくれる人間の数で決まるんだよ」
「じゃあ、俺たちは価値がないってこった」
「そらそうさ。あんたは自分の人生に価値があると思ってるのかい」
「ないね。俺の人生なんてゴミくず同然さ」
あたしも同じだよ、と言ってから二人で笑い合った。
二人きりの空間は思った以上に楽だ。このジジイのことは一切好きにはなれないが、いやな性格故か一緒にいるのは楽だった。楽なことは良いことだ。この歳になると、それが何よりも大事に思えてくる。
若い頃は人づきあいをするなら、尊敬できる相手が良いとか、信頼できる相手、顔が良い相手などと言っていたが、五十も過ぎるとそれらに価値なんて見いだせなくなる。娑婆で生活していたら別かもしれんがね。
ジジイは腕を組んで、うーんとうなった。
「しかし、おまえの話結構面白いじゃないか。俺にもそんな過去があったのを思い出したよ。ババアほどドラマチックじゃないがね」
「ジジイも苦労してるのな」
「そらそうさ。苦労してなきゃ、こんな病院にぶち込まれちゃいねえよ」
「面白いことを言うね、あんた」
「俺だって昔は正義感とか、まじめさとか持っていたのさ。育ちが悪かったから努力もした。そこそこ仕事も頑張ったし、妻子を持ったこともあったよ。だけどこのざまだ。落ちるときは一瞬だよ」
「意外とあたしたちは気が合うかもしれないね」
「だとしてもお断りだよ。俺はアル中のばあさんとなんて仲良くしたくねえよ」
「あたしもお断りだね」
外からミンミンと蝉の鳴き声が聞こえる。もう夏になったのか。ここにいると季節感がなくなるのだ。少し肌寒いときは冬、外から蝉の鳴き声が聞こえるときは夏と、なんとなくは理解しているつもりだが、あくまでなんとなくだ。娑婆で生活しているときとは段違いに季節感を失ってしまった。
もうここ数年、桜なんて見ちゃいない。
「本当に死ぬまでここにいるんだろうかね」
寂しいのかもしれない。じゃなきゃ、ジジイに弱音なんて吐きやしないさ。
「ナーバスになってるのか」
「そりゃあ、あたしだってちょっとは気が滅入ることもあるよ。こんな監獄に死ぬまでいるだなんて、地獄としか思えないだろ」
「外はもっと地獄だぜ」
ごもっともだ。ここ以上に外では居場所がない。自活することもできない身で外に放り込まれても死ぬだけだ。ここなら最低限の食事と寝床はあるし、コミュニケーションだって取れる。わかっているのだ。ここ以上に外が地獄なことくらい。
「あんたはまだ人生に期待してるのさ。だからここを地獄だなんて呼ぶんだよ。俺にしてみれば天国だぜ。ここじゃ人殺しだなんて呼ばれないしよ」
「人殺し?」
聞き返しても、そいつは口をつぐんだ。口を開いたと思えば、
「さっきの話の続きをしてくれよ。気になって今夜眠れないだろ」
といつもの嫌味な笑顔で言った。
二人で街を出ようと言ったものの、あたしたちは出る当てもなかった。
もう終電もないし、車も運転することができない。下手に出歩いたら補導されかねないし。とりあえず、朝になるまで神社の裏にいようと話した。朝になったら電車に乗って、街を出ようと。
いつも以上に胸が高鳴っていたのをよく覚えている。非行なんて深夜徘徊くらいしかしないあたしにとって、初の試みと言っても過言じゃなかったし。
神社の裏に大きな石が三つほど置かれていて、あたしとユウキはそれに座って様々なことを話した。
あのとき話した内容を、今ではよく覚えていない。ただ、感情はよく覚えている。ただただ、ユウキと話すのが楽しくてしかたなかった。ずっとユウキと二人きりでいられたら良いのにと思った。それから、もう、現実に戻りたくないとも。
今思えば、あの頃の現実は、今以上に地獄だった。
今はまだ関わる相手を選べるけれど、あの頃は選択の余地がなかった。今の病院だって、監獄みたいな空間だけど、それ以上に監獄で地獄だったのだ。
学校も、家も、自分の居場所なんてあると思えなかったし、何より誰かが自分のことを排除しようとしているような気がしていた。考えすぎだったのかもしれないし、事実なのかもしれない。ただ、それくらいまでに、当時のあたしは追い詰められていたのだと思う。
だから、ユウキが何かを変えてくれるんじゃないかと期待したんだろう。一緒に逃げることに大それた意味があるとは、当然思っていなかった。どうせ子供なんだから、うまくいくはずがない。どうせすぐに補導されてしまうんだろう。それに、一人で生きていけるほどの度胸なんてものも皆無だった。
監獄よりも外の世界の方が、ずっと生きづらいこともわかっていたから。
「死にたい」
と当時はよく言っていた。死なないと自由な世界に行くことができないことがわかっていたから。大人になって何か解決すると考えられなかったし、何より、大人になるまでの数年間を耐えられるとはとうてい思えなかった。
ユウキと話している間に、いつの間にか眠ってしまっていた。目が覚める前に、頭の痛みを感じてつい、「痛い」と声に出たほどだ。そりゃあ、野外で座ったまま眠ったら頭の一つも痛むだろう。
「どうかしたの?」
隣にいたユウキはすでに起きていたようで、なんだかあたしは安心した。自分だけ置いて帰られたらどうしようと、頭のはじっこで不安に思っていたから。
隣のユウキは髪の毛をぐしゃぐしゃにしながら、伸びをした。
「ただ、ちょっと頭が痛かっただけ」
「そっか。なら大丈夫だね」
大丈夫なのだろうか。でも、ユウキがいつも殴られたり蹴られたりしていることに比べたら、全然大丈夫なのだろう。
「じゃあ、朝ご飯でも食べて出ようか」
「行く当ては?」
「わかんないや」
眉をひねってユウキは困ったように笑った。「僕も何も考えてないんだよ。ごめんね」
「二人でしたことだから。謝る必要なんてないよ」
共犯者、なんて言い回しをするか悩んだけれど、あたしはあえてしなかった。共犯者なんてかっこよい存在じゃないと思ったのだ。もっと子供っぽくて、泥っぽい何か。その言葉をうまく言い表せなかった。ただ、一ついえることは、この時のあたしはとても興奮していた。状況になのか、それとも、ユウキと一緒に朝までいられたことになのか。
「ありがとうね」
ユウキにありがとう、と言われたのはこのときが最初で最後だった。
あたしたちはコンビニで朝ご飯のサンドウィッチを購入した。あとボトルの飲み物。
当時のコンビニは今のようなコンビニとは違って、九時から開店だった。もちろん夜遅くなんて開いていない。夜の九時には閉店する。そう考えると今は便利になったと思う。昔はよかったと言うが、今昔に戻ったなら、絶対に不便さに耐えられない。それが良いという変わり者も少なくないけれど、あたしにとっては信じられない。
コンビニで買ったご飯を持って、あたしとユウキは駅へ行き、電車に乗りこんだ。ラッシュ時間を過ぎていたからか、人は少なかった。乗り込んだ車両にはあたしとユウキしかいなくて、こっそりご飯を食べた。お互いにお腹がずっとぎゅるぎゅると鳴り続けていた。
「この電車ってどこに行くんだっけ」
「たぶん僕らの知らないところ」
「へえ」
知らないところがどこなのかもわからない。そもそも、地元を出たことなんて小学校の修学旅行と野外活動以外なかった。お父さんはいつも飲んだくれで車なんて運転できなかったし、あたしも旅行なんてしたくなかったから。
だから、車窓から見える田舎の風景がなんだか新鮮で仕方なかった。
「でも、あたしお金あんまり持ってないよ」
「僕が持ってるから大丈夫。心配しないで」
突っ込むのも野暮だと思ったから、何も言わなかった。どこからお金が出ているのか、自分の分まで出してどうするのかなんて、考えたらいけないんじゃないかって。
車窓から光線が差し込んできた。
その光線で車内はきらきらと輝いて、つい、目をぎゅっと細めてしまった。外には青い海が広がっていた。海の水面はきらきらと、これまで見た何よりも輝いていて、とてもきれいだと思った。きれいだなんて感想を抱いたことはこれまで一切なかったのに、つい、「きれい」と口にまで出た。
ユウキはぎょっとした顔であたしを見た。
「海を見たことないの?」
「見たことないことはないけど、ちゃんと見たことはないよ」
ありそうで一度もなかった。
海で泳いだ経験は皆無だし、海を眺められる場所に行ったこともない。お父さんが車に乗ることは基本的にないし。お母さんも運転することができないから。
「砂浜を歩いたこともないの?」
「もちろん」
「なんだか、変わってるね」
共犯者としてついてきたことより、海を知らなくて浜辺を歩いてないことの方が変わっているという、ユウキのほうがずっと変わっていると思った。だって、あたしたちがしていること、ちゃんとわかってるでしょ? 人を殺したんだよ。
ユウキが変わっていることは自覚している。 そんなユウキに変わっていると言われてむっとした自分に驚いたのだ。
ひとまず電車を降りようとユウキが言った。彼女の言う通りにあたしも一緒に電車を降りた場所は、潮の香りがする田舎町だった。
「ここどこなの?」
「尾道ってところ」
「ふうん」
尾道という街は聞いたことがあった。けれど、具体的にどんなところなのかは知らなかった。
少しだけ海を見ようと言って、海沿いを二人で歩いた。きらきらと輝く水面が目前にあるのがなんだか不思議でたまらない。これまで見たことのない風景が目の前に広がっていることの不思議。熱帯地域に住む人間がはじめて雪を見たら、まさに今のような感情を抱くだろうとなんとなく思えた。
横を歩くユウキの横顔は、いつになく真面目そうな顔をしていた。
ユウキがあんな家庭に生まれなかったら、このまじめな表情をこんな場所で向けずに、教科書に捧げるような人になっていたんじゃないか、と思った。だとしたら、きっとあたしとは出会わなかっただろうし、もっとちゃんとした友達をたくさん作ることができる普通の人になっていたのだろうな。
なんとなく、この先逃げ続けても、結末は変わらないだろうと予感できていた。
あたしたちはまともじゃない。ユウキとあたしはきっと警察に捕まってしまうんだろうし、その後はとうぶん学校や家には帰ることができなくなるんだろう。学校の友達には会えなくなるだろうし、少年院とかいう施設でおいしくないご飯を毎日食べるのだろう。
普通の子供なら、いやに決まってる。
ただ、不思議とあたしはいやじゃなかった。その先にユウキが一緒にいてくれるなら、どこへだって一緒についていけると確信できた。むしろ、逃げ続けた先でユウキを失うくらいなら、あたし自身がなくなったほうがましだといえるほど。
じりじりと照りつける太陽が、雲に隠れた。ユウキは突然立ち止まって、少し後ろを歩いていたあたしの顔をじっと凝視した。
「僕ら、このままじゃいけないよ」
今にも泣きそうな顔をしていた。つい、あたしはユウキの手を取った。その手は夏なのに氷みたいに冷え切っていて、思わず手を離してしまった。
「どうしていけないの? もっと遠くへ行こうよ。ね?」
「だめだよ。一緒に帰らなくちゃ」
「どこへ?」
「家にだよ」
「そうしたいの?」
「したくないけど、そうしなくちゃいけないでしょ?」
「なぜ?」
「僕たちが子供だからだよ」
子供っぽくない顔をして、ユウキはつぶやいた。あたしはユウキとなら、どこまでも遠くへ行けると思えたのに。
「僕、お父さんを殺したんだ」
ざばん、と波がコンクリートに打ち付ける音が響いた。
「殺した? 本当に?」
「だから、母さんが追いかけてきたんだ」
「どうやって殺したの?」
「そりゃあ、包丁を使ってだよ。寝ている父さんの胸を刺したんだ。本当に死ぬなんて思ってなかった」
そりゃあ、胸を包丁で刺したら死ぬに決まっているじゃないか。ユウキは何を言っているんだ。
彼女の呼吸がわなわなと震えているのが、すぐにわかった。けれど、あたしは抱きしめたり、手を握ったりもできなくて、ただ、その顔をじっと見つめることくらいしかできなかった。見つめることすら、精一杯だった。
「僕は本当の人殺しだよ。それでも一緒にいてくれるの?」
「そりゃあ」
もちろんだよ。と言いたかった。はずなのに、口に出てこない。さっきまではずっと一緒にいるつもりだったのに、ずっと一緒のつもりだったのに。どうしてだろう、なんで怖くてたまらないんだろう。
「あたしは、ユウキの味方だよ」
のどが詰まってうまく声が出なかった。言わなくちゃいけない気がしたのだ。これが本音なのだろうか。本音に決まっている。
「ごめんね」
ユウキは大きな目からしずくをぽろぽろと流しながら言った。あたしもそれを見て、つい泣いてしまった。泣く資格なんてないのに。
ジジイに話して幾分か時間がたったような気がしていたが、まだ夕方にもなっていない。話した後も奴は一言も言葉を発しなかった。
「それより、あんたがさっき言った、人殺しってなんだい」
聞いてももちろん返答はなかった。
おっさんとユウキの存在が妙に重なって気持ちが悪い。ユウキと奴は違う。重ねるだなんてユウキに失礼だ。だいたい、性別が違うのだから……。
「あたしは、あんたの素性を聞いたところで恐がりも驚きもしないよ。こんな底辺で生きてるんだ、どんな過去があっても同じだろう」
話したところで男はふて寝を突き通した。
あたしは鈴木のジジイのことを、少しだけ見直していた。ユウキと重ねてしまうほどには、同情しているのだろうし、変な仲間意識みたいなものも生まれているのだろう。
こんな病院で敵対したところで、何かが生まれるわけでもあるまい。
「あの、鈴木さんはいらっしゃいますか?」
病室の扉を控えめに開けたのは、一人のマダムだった。マダム、という呼び方なんてこれまで一度たりともしたことはないが、彼女はまさしくマダムと呼ぶに値する風貌をしていたのだ。
「横で眠ってますよ」
言うとゆったりと首を下ろして「ありがとう」と微笑んだ。微笑みはあまりに慈愛と優しさに満たされていて、心の内がこそばゆくなりそうだった。
彼女はあたしとおっさんの間に、丸いすを用意して腰掛けた。女性が動くたびに、ふわんと甘ったるい匂いが漂う。
女性はあたしのほうを向いて、首を少しだけ傾げた。
「はじめまして、伊藤和代と申します。いつも鈴木には迷惑をかけられていると思いますが、悪い人ではないんです。生暖かい目で見守っていただければ幸いです」
「おまえは俺の保護者かよ」
さっきまでの柔らかい表情は消えて、きりっとした顔で
「今はあんたの保護者同然でしょ。口答えしないでくれん?」
きっぱりと言い放った。
「いつ俺の保護者になったんだ。大体見舞いに来てくれなんて一度も言ってないだろう。どうして病院に来たんだ」
ジジイの言葉を女性は無視して、ただニコニコと微笑んでいる。
「二人はどういう関係なんですか?」
「ただの親戚です。特に仲が良いわけでもなく、ただの腐れ縁です。よくいるでしょう、半年に一度くらい連絡する程度の仲の友人っているでしょう? まさにああいう関係性です」
「じゃあ、仲が良いじゃないですか」
「まさか。仲が良いなんてとんでもない。私は彼のことを軽蔑していますし、関わり合いたくもありません。ただ昔から関わりがあるから関係を絶つこともできないだけです。かわいそうな独身男性に優しくしてあげられるのなんて、私くらいなもんでしょう」
二人の関係が無性にうらやましかった。あたしなんて腐れ縁の仲すらいやしないんだ。じゃなきゃ、ここ一年見舞い人皆無なんてことありえないだろう。
このジジイのほうが人望がなさそうなもんなのに、見舞いにやってくる人間がいるなんて憎たらしくてたまらないね。
これまで人が来ている様子を一度たりとも見たことがなかったのに、あたしと違って鈴木のジジイには見舞いに来てくれる人間がいるんじゃないか。
「そこのジジイ、彼女のことを大切にしてやりなよ。自分のことを心配してくれる人間は大事だからね」
「わかってるわ。んなこと」
だとしたら、あまりにぶっきらぼうすぎやしないか。ありがとうの一言もないなんて信じられないね。未だに布団にくるまってそっぽ向いてやがるし。
「いいんですよ。彼はずっと前からこんな感じだったので。あ、それよりあなたの名前を伺っても良いですか?」
「山田京子です。このおっさんにはまず、名前で呼ばれることはありませんがね」
彼女の表情がみるみると硬直した。
「いや、待ってくださいよ。あなたと同姓同名の女性を知ってるんですが、まさか彼女じゃないですよね?」
「何を言ってるんですか」
あたしはもちろん、伊藤和代なんて女性のことを一切たりとも知りはしない。
大きな黒目をぱちぱちと瞬かせた。
「ユウキって人間のことを覚えてますか?」
尾道の街をぶらついてから、ユウキはあたしに「僕のおばあちゃんの家が近いんだけど、泊まっていこうよ。きっと笑顔で迎え入れてくれるよ」
と提案した。
あたしはユウキの提案なら大丈夫だろうという、不思議な信頼をしていた。今思うと同い年の女の子にあんなに信頼を置いていたのが不思議でたまらないし、あたしもおかしかったんだろうと思う。おそらくユウキ以外ろくに頼れる人がいなかったからなのだろう。
ユウキのおばあさん宅は尾道にあるらしかった。ユウキのお母さんお父さんとの直接の親族なわけではないらしく、なんともまあ複雑な関係らしいが、仲は良かったようだ。
海沿いを少し離れたところに住宅街がある。木造建築が並んでいて、時折子供たちが走り回っているのを横目で見た。
家々の並ぶ坂道を上りながら、あたしはついきょろきょろとあたりを見渡してしまった。あたしの地元とは明らかに異なる風景だったし。道ばたには野良猫がゆったりと歩き回っていた。
「なんだか変わった街だね」
「でしょ? 僕は好きなんだ」
ユウキはどこか誇らしげに言った。
「あたし、ここに生まれたかったなあ。田舎にあこがれるんだ。田舎の人は優しそうだし、時間もゆったりしてるし」
ここならば、お父さんもまともでいられたんじゃないか。仕事に追われて、ばかみたいに働かなくてもここなら許されそうだと思った。
「そんなことはないよ」
「そうかな」
「あ、あそこだよ」
坂道の上に大きな屋敷があった。堂々としたその風格に、思わず怖じ気づいてしまった。「本当に大丈夫なの?」
「うん。おばあちゃんは優しいから大丈夫だよ」
たったとユウキは先々と走って屋敷のインターホンを鳴らした。あたしはその背中をついていった。肩で呼吸をしながら。
ユウキの言うとおり、おばあさんは良い人だった。
朗らかなおばあさんで、あたしたちを一切疑うことなく迎え入れてくれた。ご飯はおいしいし、風呂は広くて暖かかった。家は風呂が狭いから入る習慣がなかった。風呂は無駄だからと言っていつもお母さんが不機嫌になるし。
空き部屋があるからとおばあさんがあたしとユウキに部屋を与えてくれた。一つの部屋に二人で泊まることなんて、これまで経験したことがなかったから、ちょっぴり胸が高鳴った。
二人で部屋で一息ついていると、がらりとふすまを開けて女の子が入ってきた。彼女は良いところのお嬢さんみたいな、きれいな水色のワンピースを着ていて、栗色の髪の毛はきれいに巻いてあった。おそらくあたしたちと同い年なのだろうが、にじみ出る品の良さは明らかに年相応には見えなかった。
「何で、ユウキが戻ってきたの? その子誰?」
テディベアを抱いた彼女は、脇に熊を携えてどたどたとユウキに迫った。
「何で和代に説明しなきゃいけないんだよ」
「和代はあなたの腐れ縁だもの。知る権利があるわ」
同世代の女の子が権利なんて言葉を使っているのを初めて聞いた。
「あたしは山田京子。ユウキの友達だよ」
「へえ、友達」
彼女の声はどこかとげがある。ぎろりとにらみつけた茶目に、なんだか吸い込まれてしまいそうだった。しかし、和代さんはぷいとそっぽを向いてしまった。
「友達とわざわざアポなしで尾道にまで来るとは思えませんわ。彼女だってユウキと同い年くらいでしょう? 親御さんはなんて言ってますの?」
勘の鋭い女の子だ。
おばあさんがわざと黙っているのか、それとも何かしらを察しているのに黙っているのかはわからないが、普通は何かしら疑問を抱くのが自然だろう。
「おばあちゃんには黙っていてくれないか」
ユウキがいつもよりずっと低い声で言った。だからか、彼女も黙り込んだ。
「黙るのはかまわないけど。いったいなぜ?」
「今は何も言えない」
「言えないなんて勝手だわ」
「僕はいつも勝手じゃんか」
「知ってるけど」
和代さんもうすうす感づいているんじゃないだろうか。これがただ事じゃないことくらい。いつもの勝手なユウキとは違って、何かしらの意思があって行っていることだと。
「ごめんなさい」
つい、あたしは和代さんに謝ってしまっていた。だって、ここで部外者なのはあたしだけだったし、いてもたってもいられなかったのだ。
「謝ってどうにかなると思ってるの? あなたも勝手ね」
言い捨てて、和代さんは部屋から出て行ってしまった。あたしはつい、言葉を失ってしまって、何でか涙が出てしまった。
「気にしないで、ごめんね」
いつもいつも、ユウキは謝ってばかりだった。ユウキに謝られるだけで、胸が一杯になる。それ以上謝らなくても良いのに。ユウキが謝る必要もないのに。
二人で黙りこくって部屋の隅にいたら、またがらりと戸が開いた。
「ねえ、あなたたちも一緒に花火をしない?」
和代さんが花火のセットを持ってずかずかと部屋に入った。
「何きょとんとしてるのよ。一緒に花火するわよ。する相手が一人もいなかったから、ちょうど良いわ」
「おまえ、正気なのか?」
ユウキが口角を上げて皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ええ、和代が正気じゃないことがあった?」
「いや、ないね」
「でしょ? 私は退屈してるのよ。だから一緒にしましょ。山田京子さんも」
そのときの和代さんの得意げなほほえみがずっと忘れられなかった。
ご飯の後に、花火はお屋敷の庭で行うことになった。庭には木々が植えられていて、花壇や池まである。古き良き名家の屋敷といったたたずまいだ。蝉の鳴き声がさっきよりうるさく聞こえる。
和代さんは水を入れたバケツを用意して、花火の詰め合わせを三セットほどもってきた。
あたしはもちろん、花火なんてしたことなかった。打ち上げ花火を見たことはあったが、手持ち花火を誰かとしたことはなかった。する相手もいなかった。
ユウキは手慣れているのか、花火のセットを開けて、地面にろうそくを立てて置き火をつけた。
「ユウキは花火をしたことあるの?」
「そりゃあ、あるよ。君はないの?」
「うん。一回もない」
あこがれはあった。けれど、特別したいとも思わなかったし。ユウキは目を丸くして、すぐうつむいた。
「じゃあ、今日は楽しもうね」
目を合わせないでユウキは言った。
「ほら、もたもたしてないで、さっさと花火に火をつけましょ」
和代さんはあたしとユウキに呼びかける。すでに彼女の手持ちにある花火は勢いよく火が吹き出していた。しかも二つも持っている。あたしたちも適当な花火に火をつけて、重い腰を上げた。
ドラマや漫画じゃ、花火は青春のワンシーンみたいに描かれるから、すごく楽しいものなのだと想像していたけれど、案外楽しくもなかった。ただぱちぱちと輝く花火を眺めるだけ。それに楽しさを見いだせなかった。
それでも、ユウキがいつも見せないような表情で遊んでいる姿を見られただけで良かった。和代さんと一緒にいるユウキは、いつもとは顔が違う。あたしの前ではいつも真剣な顔をしているのに、和代さんの前では人なつっこい顔をしたり、眉をつり上げたりする。 すごく、うらやましかった。
あたしのそばにいないユウキのほうが、ずっと年相応で健全なんじゃないかって思えた。 ユウキがトイレへ行くといって消えたときにすぐ、和代さんはバケツに花火を入れた。
「なんとなく、あんたたちのことは察しがついてるのよ」
言い放った言葉を無視したい気持ちでいっぱいだったし、耳をふさぎたかった。けれど、きっと逃げられないから、あたしも火がついたままの花火をバケツに投げた。
「逃げてきたんだろうなって、わかるわ。ユウキの親のことだって知ってるし。隠したって無駄なのに、なんであいつはすぐに隠したがるのかしら」
じっと目を合わせながら話す彼女から、必死に目をそらしていた。
「詮索はするつもりないけど、あんたは深く関わらない方が良いわよ。ろくなことがないって自分でもちょっとはわかってるでしょ?」
自分がこれまで考えないようにしてきたことを、いとも簡単に言語化されてしまうと「違う」と言いたくなった。けれど、彼女の言う通りなのだ。全くもって違わない。あたしはこれ以上ユウキと関わるべきじゃないのだろうし、今ならばユウキから逃げることだってできるのだろう。今を逃してしまうと、逃げることもできなくなる。あたしは殺していないのに、一緒に犯罪者として扱われるのだろう。
そんなの、まっぴらごめんだ。
「今なら、あんた、引き返すことができるのよ?」
和代さんはおそらく、さっさと引き返せと言っているのだろう。初対面の人間に対して、あまりにお人好しすぎるんじゃないか、と思うほどだ。あまりに親切にされすぎている。
「どうして、和代さんはそこまでいうんですか」
彼女は立ち上がって砂を蹴った。
「あなたがかわいそうだったから」
心の底から同情をする目であたしをじっと凝視した。それがたまらなく悔しくて、苦々しくて、いやだったのだ。
結局、あたしは逃げたのだ。
こうやってたくさん悩んだり葛藤を続けながら、言い訳やへりくつを並べながら、結局のところ、あたしはユウキがトイレに行っている隙に逃げた。
泣きながら逃げた。本当にこれで良いのだろうか、と考えながら逃げた。帰りの鈍行はぎりぎり間に合って、間に合わなければ良かったのにと一瞬頭によぎった。けれど、ちゃんと切符を買って、まっすぐ地元にまで帰った。朝に来たときはすごく遠くに思えたのに、あんがい近くって肩をすかした。地元に戻っても、ユウキのことを考えた。今ならまだ尾道に戻ることができる、と引き返そう化と思ったけど、引き返さずに家に帰った。
家に帰るとお母さんの怒号が飛んできた。心配してたのよ、どこへ行っていたの、と質問攻めにするお母さんが、あたしの顔を見たとたん黙り込んだのをよく覚えている。目がすごく腫れていたらしい。「どうしたの? ハチにでも刺されたの?」と冗談めかすお母さんのほほえみを見てまた泣いた。
言うまでもないが、あたしは誰にもユウキの話をしなかった。
和代さんがあの和代さんだと気がついたとき、思わずしずくが頬を伝った。罪悪感がないわけじゃないけれど、あたしは和代さんに感謝している。あのとき、帰らなければどうなっていただろうか。きっと、今以上に酷い状況に陥っているんだろう。
和代さんはあたしが山田京子だと知って言葉を失ったままだった。
「あの、和代さんはユウキがどうなったか知ってますよね? どうなったんですか。いつか彼女に会って謝りたかったんです」
「彼女?」
さっきまでずっと黙ったままだった和代さんが、顔を上げた。明らかに和代さんはあたしのことを侮蔑していると確信した。
「ユウキは男よ」
は? とつい声をあげた。
しかしよく思い返すと、ユウキの性別のことを話したことは一度もなかった。それどころか、確認すらしたこともなかったし、女の子だと根拠もなく思い込んでいた。
和代さんは深々とため息をついた。
「今更謝ったって意味ないわ。もう何年前だと思ってるのよ。思い出にしてしまっているんでしょう? なら、そのままが一番だわ」
「俺がユウキだよ」
奥のベッドでふて寝していた奴が身体を起こして言った。あたしは、なんとなくこの時点で察しがついていたから、特別驚きもしなかった。ただ、ジジイ……いや、かつてのユウキみたいな真剣な顔に、どこか戸惑っていた。あの頃の少女に見えたユウキの面影はほぼないのに、なぜか面影を探してしまうのはなぜだろうか。
「まさか、あんたがユウキだなんて」
失笑しか出てこない。まさか、以外の言葉も出てこない。だって、ありえないだろう? ずっと心の片隅にいた人間とこんな場所ですでに会っていたなんて。
彼はふてぶてしい顔のまま、じっとあたしを凝視していた。
「あんまりじろじろ見るんじゃないよ。育ちが悪いのかい」
「あんたには言われたくないね。どんぐりの背比べだろ」
和代さんはばつが悪そうな顔をして「手洗いに行ってくるわ」と言って病室から出て行った。
いつも以上にしんと静まりかえった病室は、どこか新鮮さすらあった。常に二人で喋っていたし、そうしなくちゃいけない気がしていたからだ。でも、今は違う。本当のことを知った後、どんな話をすれば良いのかわからないのだ。
ドラマや映画なら、再会した感動だの感想なんかを述べる場面なのだろうが、言葉がどうにも浮かばなかった。何から話したら良いのだろうか、とすら思わないほどに。
だって、もう何十年前のことだと思ってるんだよ。あたしたちは、外の世界の酸いも甘いも吸ってきて、結果ここにたどり着いたんだ。あれこれと詮索するほうが野暮ってもんじゃないか?
「何で俺が女だと思い込んでたんだよ」
ぶっきらぼうに奴は言い捨てた。
「そりゃあ、あんたの髪の毛が無駄に長かったからだよ。それに声だって高かっただろう?」
「それでもわかるだろ、普通」
「遠い昔の話をしないでくれ。恥ずかしいだろ」
あたしたちはけらけら笑った。
おっさんの笑った顔は、いつだかの少女に似ていた。目をずっと細くして、人なつっこく笑うところ。
「こんなところで再会だなんて、腐れ縁なのかもしれないな」
「だとしたら、最悪だよ」
にやっとユウキは口角をあげた。
外ではみんみんとうるさいほどに蝉が鳴いている。