力を視るはなし
目に入ってきたのは白い天井だった。
情けない姿を晒してしまった。彼女にも見られただろうか。きっと見ただろう。彼女はかなり高性能な双眼鏡をもっているから。
夏休みに入ってすぐに告白して付き合って夏休みの途中で別れてしまった。彼女はもう俺のことなんてなんとも思っていないだろう。けど俺はまだ彼女が好きだ。この恋心が絶対に実らないことはわかってる。それでも俺は彼女を守る。
そんな考えも自己満足に過ぎないのかもしれない。俺が彼女を守るのは彼女の笑顔が見たいからだ。俺が彼女の笑顔を見たいだけなのだ。俺は俺の欲を満たすために彼女を利用していると言われても否定はできない。俺が好きなのは、彼女なのか、それとも彼女を想って幸せな気分に浸っている自分自身の心なのか。俺が守っているのは本当に彼女なのか、俺の中の彼女という存在を守っているだけではないのか。俺が彼女を好きでい続けるためには彼女を守らなければいけない。“俺が好きでいる彼女”を守らなければならない。俺が守っているのは彼女ではない、俺が守っているのは俺の彼女なのだ。
俺が彼女を意識し始めたのは中学一年の夏休みが明けた頃だった。
休み明けの彼女は、「こんな女子生徒いたっけ?」と誰もが疑うくらいに雰囲気が様変わりしていた。
休み前の彼女のことは俺もよく覚えていないが、彼女が誰かと話しているところを見たことはなかった。きっとひとりぼっちだったんだと思う。
そんな彼女が登校日の数日後にはクラスの皆から話しかけられる人気者となっていた。
休み時間になれば必ず彼女の周りに人が集まってくる。噂も広がり、次第に他の教室の生徒も見物に来るようになった。
こんなに人が集まって来ているのは彼女が髪を染めただとか彼女の制服のスカートが短くなっただとか彼女の制服のシャツがはだけているだとかそんな下心のあるものではなく、彼女が年上の男と付き合っているだとかその相手が大学生だとか教師だとかサラリーマンだとか不良だとか複数いるだとかもう妊娠しているだとかそんな思春期の子が食いつきそうな話題があるわけでもなく、それはただただ単純に彼女の笑顔が可愛いからだった。
彼女の笑顔は男子も女子も関係なく教師すら魅了した。彼女も魅了の仕方がわかっていた。
彼女はたまにしか笑顔を見せない。普段無表情で無愛想な彼女の笑顔が実は可愛かったと知れば誰しも一目見てみたいと思うだろう。生活の中で一瞬だけ見せるその笑顔が本当に可愛ければまたもう一度その一瞬を見たいと思うだろう。そのくらい彼女の笑顔は魅力を秘めていた。
彼女もそのことをわかっているから一瞬しか笑顔を見せないようにしているのだった。彼女をなんとか笑わせようと面白い話を持ってくる生徒もたくさんいた。きっと作り笑いよりも心から笑ってくれた方が魅力的だと本能で感じているからなのだろう。その面白い話を聞いても彼女はたまに笑うだけでほとんどつまらなそうな顔をしていた。
それでも俺はわかってしまった。
彼女がこの状況を楽しんでいることを。
夏休みが明けて彼女の笑顔が可愛くなっていたように、夏休みの間に俺の目も良くなっていた。
だから俺には見えてしまった。
無愛想に振る舞っている彼女がわずかに微笑んでいるということが。
俺は魅入ってしまった。
彼女のその微笑みは心から笑っていたから。
彼女の微笑みは俺にしか見えない。彼女の微笑みには俺しか魅入られない。
彼女だけを見ていた中学校生活はあっという間に卒業式へと飛んでしまった。
卒業間近の彼女の周囲は静かだった。中学生活最後の一年間、彼女は笑わなかった。
上辺だけの関係に飽きたか疲れたのだろうか。皆彼女の笑顔を見ることを目的に集まってくる。そこに彼女の人格は含まれていない。
まさに今の状況がそれを具現化している。
彼女が笑わなくなって少し経つと次第に彼女の周りから人は減っていった。
それでも俺だけは彼女に惹かれ続けた。
俺の視力が上がり続けているのと同じように、彼女の魅力もまだ上がり続けている。
彼女が笑わなくても俺の目は彼女の魅力を捉え続けている。
もはや彼女の笑顔は関係ない、彼女が存在しているだけで俺は彼女が目が離せなくなっていた。
そんな中学生活を送った俺の成績は悲惨なものだった。
母親は何度も学校に呼び出された。
どんなに説教を受けても俺の成績が上がる事はなかった。
怒られる辛さよりも彼女を見ていられる幸せの方がずっとずっと大きかったのだ。
そのころ一度だけ不安になったことがある。中学を卒業したら彼女と離れ離れになってしまう、と。
彼女が受験する高校は知っていた。何度も職員室に呼ばれているのだから彼女の進路調査票を見るのは容易かった。
しかし真面目な彼女が行く高校は随分と偏差値の高い学校だった。学年最下位の俺なんかじゃ入ることができない事は俺でもわかった。
それでも俺は俺自身の欲求に従い、彼女と全く同じ進路調査票を担任に提出した。
担任からは考え直せと何度も言われたが、今までの説教を無視してきた俺が今更自分の言うことを聞くわけないと悟ったのか、その高校を受験させてくれることになった。
筆記試験の問題は絶望的に難しかった。それを反映しているかのように空は黒い雨雲に覆われ、正反対に俺の回答用紙は真っ白なまま時間だけが刻まれていった。
生物は窮地に陥ると脳がフル回転し、生き残るためにまったく考えもしなかった新しい発想をすることがあるらしい。俺の場合まさしくそれで、彼女を見られない日々が続くなんて命がないのと同じなのだ。だから俺は、この視力を不正に使うことを思いついた。彼女以外を見るなんて今まで思いもしなくて、初めて目を凝らして世界を見た。試験は至極簡単なものになった。斜め前の回答様紙なんて彼女の笑顔よりもよく見えるし、窓ガラスに反射され映っている文字も読み取れた。残りの試験も同じようにカンニングだけで乗り切った。
無事、俺は彼女と同じ高校に入学することができた。
入学式、彼女とは別々の教室になってしまった。
休み時間は必ず彼女のいる教室を見に行った。相変わらず無愛想をしている彼女が、俺の目にはとても楽しそうに見えた。ひたすらノートに筆を走らせている。何を書いているのか、俺には見ることができなかった。楽しそうな彼女から目を離すことができないのだ。
始業のチャイムが鳴り彼女の表情が一瞬だけ変わった隙に、俺は彼女から目を離し自分の教室へと戻った。
高校生活中、彼女と同じ教室で勉強することは叶わなかった。
休み時間になるたびに彼女を見ることが俺の唯一の幸せだった。俺の知る限り彼女は一度も笑わなかった。いつだったか忘れたけれど、彼女が職員室に呼ばれたことがあった。何故呼ばれたのかは興味がなかった。その後数週間は彼女の周りに大勢の人が押しかけて来たが、彼女はそれらを全て無口に無表情で応対した。そんな態度を取られれば当然良い気がする訳もなく、彼女の周りはすぐに元通りになった。
楽しいという感情を抑えつけてひたすらノートに何かを書き込んでいる彼女を捉えることができているのは俺の目だけだった。
三回目の夏休み、彼女の進路調査票が白紙なのを見た。
俺は焦った。
彼女がどこに行くのかわからなくて不安になった。
彼女が俺の知らない彼女になってしまいそうで怖かった。
だから夏休みに入ってすぐ、彼女を見つけるため街中を探し回った。彼女は進学も就職もする気がないらしく、他の三年生と違って夏休みは学校に来ていなかった。
俺の目はどんなに良くっても透視はできない。あくまで視力しか上がらないらしい。
何日かたったある日、本屋で彼女を見つけた。
自分の昂ぶる感情を抑えることが出来ず、俺はその場で彼女に、好きだ付き合って欲しいと告白してしまった。
はやく自分のものにしてしまいたかった。
しばらく見つめ合っていると彼女はこくりと頷いた。
それから彼女とは色んなことを話したけれど俺の記憶には彼女の姿しか残っていなかった。初めて見る彼女の私服姿に、夏だからか少し多く露出された綺麗な素肌に、俺の目は奪われていた。
だから、いつ、どこで、どのようにしたのかはあまり覚えてない。
確かなのは、彼女があまりにも魅力的だったから性行をしたということだけだ。
彼女は俺と同じマンションに住んでいた。中高の六年間まったくそれに気づかなかったのは本当に間抜けだったと思う。しかし俺はそこの十三階、彼女が住んでいるのは二階、これだけ離れていれば気付かないこともあるかもしれない。
毎日彼女に会いにいった。
彼女が俺と同じ景色が見たいと言って高い双眼鏡を買ったりもした。
しかし、その幸せも長くは続かなかった。
彼女は鞄のデザイナーとしてかなり有名らしい。
この夏休みの時間もその活動に捧げるつもりだったのに、俺と出会ってしまったことで何もアイデアが浮かばなくなったと彼女は泣いた。
俺が彼女の夢を壊してしまったらしい。
俺は彼女に「わるかった」とだけ謝った。
俺が彼女を壊してしまったらしい。
俺には彼女に対してそれ以上に謝る言葉が浮かんでこなかった。
俺が俺の知らない彼女を壊してしまったらしい。
俺の好きな彼女は俺の好きな彼女であり続けるということだ。
ある日俺は思い付いた。彼女を彼女として保つための計画を。デザイナーとしての彼女を終わらせてしまえばいいんだ、と。
アイデアが何も浮かばないのなら、無理にデザインを描いてそれが大衆に受けてしまうよりも、何もない状態で発表すればいいのだ。
何もなければ受けることもない。
しかし何も発表しなかった彼女が大勢から責められるのは俺が心苦しい。だから彼女のとびきりの笑顔で大衆には許してもらおう。彼女の笑顔にはそれと釣り合うくらいの価値があるはずだから。
俺は彼女に「夏休みが終わったら教える」と意味ありげに伝えた。計画の詳細は教えずにただ奥の手があるということだけ理解してもらった。
人間は心が弱ってるときに逃げ道があればそれに頼りなくなるだろうと俺は思っていた。だからそれを彼女に与えた。逃げて欲しかった。彼女に思考を停止して欲しかった。成長を止めて欲しかった。万が一にでも彼女がデザインを完成させてしまい、それが大衆に受けることのないように、と。
夏休み最後の日、彼女はデザインを一枚描き上げてしまった。それでも彼女自身がそれを気に入らなかったのか、ぐしゃぐしゃに丸めて捨てていた。彼女もぐしゃぐしゃだった。
今の彼女の眼は俺だけを見てくれていた。
俺は考えていた計画を彼女に話した。それを書いた台本も渡した。
当日、彼女には手ぶらで発表会に参加してもらった。鞄を持っているふりをして歩く彼女は最後にとびきりの笑顔をみせた。
全てが俺の想像通りに進んだ。それなのに、結果は俺の想像を遥かに超えていた。
多くの人にとってはそれで良いのかもしれない。俺以外の人はそれで喜んでしまうのかもしれない。
俺の視力が今もまだ上がり続けているように、彼女の魅力もまだ上がり続けていたのだ。
彼女が笑ったことで今まで隠していたそれが一気に爆発したようだった。
俺は久しぶりに彼女の初めての最大級の笑顔が見れたことで、もうこの後のことなんてどうでもいいと思えた。
街中はすぐに彼女の見えない鞄で溢れかえった。俺の目でも見えない鞄だ。
こんなものが流行るなんてこの世界は狂ってる。いや、狂わせてしまったのかもしれない。
その責任はこれを提案した俺にある。彼女は何も悪くない。悪い部分は全部俺が背負えばいい。
今日の昼にインターネットで騒ぎを知った俺はマンションの屋上へ登った。エレベーターを彼女のいる二階へ降ろしておく。あとで彼女も来るだろうと思い、屋上へ出る重い扉は開けたまましておいた。
急いで騒ぎの場所を探す。情報によると背の高い男女らしかった。
探している間に彼女が来ていた。俺に気付かずフェンスの側で双眼鏡を構えている。
「すごい景色だよな」
俺はそんな声を掛けながら彼女の隣に立った。
そしてふと、目的の者を見つけた。少し遠くの歩道橋の上で暴れる二人組。
「見つけた」
無意識に呟いた後に、しまったと思った。これでは彼女が付いて来てしまう。彼女が傷付いてしまう。
争っている二人に目を凝らしていると、予想した通り彼女が「どこ?」と訊いてきた。
彼女のその質問には答えず、「危ないから来るな」とだけ言って俺は屋上を後にする。
さっき見つけた争っている二人は、共に長身で若い男女だった。歳も俺とそんなに変わらないだろう。そう判断したのは二人共学生服を着ていたからだ。男は黒い学蘭を、女は赤いセーラー服を着ていた。特に、女の方は赤い髪が目立った。まるで血液のような赤みを帯びている。
その二人を見た感じでは、どうやら争っているというよりも男が一方的に暴力を振るっているだけのようだった。女はそれを受け止めるだけで、手を出すことは全くない。
不思議なことに、俺の視力ならばその二人がいる場所くらい余裕でくっきり見えるはずなのに、それなのに女の動きがよく見えなかった。
俺の目にはその女が男の攻撃を避けたりしているようには映らないのに、見えない鞄を持ったままの女は男のありえない速度のパンチを顔面に受けても顔色ひとつ変えずに立っていた。男が手を抜いたようにも見えない。俺の視力で捉えられないほどの速度で動いているとでもいうのだろうか。
マンションを出て走りながら考える。あの二人を止めるにはどうすればいいか。
女の見えない動きも以上だが男の攻撃行為も以上だ。普通の人間なら耐えきれないだろう。それに比べて女は一切手を出していなかったので、男さえなんとか出来ればこの争いは止められる気がした。男がこの程度の攻撃速度ならば、あの女よりも速く動くことがなければ、俺は男の攻撃を避けることかできる。
俺が歩道橋に着いたときにはもう二人だけではなくなっていた。家具は武器になり、大勢が歩道橋の階段を登ろうとしてるところだった。
俺は急ぐ。視力を使って人と人との隙間が大きい空間を見つけてそこを次々と抜けていく。
歩道橋の上に立つ。息を整える暇もなく臨戦体制の男と目が合った。男の目はまっすぐ俺の顔を捉えている。
慌てて俺は左に跳んだ。ほとんど同時に、男の右ストレートが俺の顔のあった場所を空振りしていた。
すぐに安心はできない。
男の目がぎろりと俺を睨む。瞬間、俺は屈み、男の左ストレートが再び俺の顔があった場所を貫く。隙なく俺は後転して距離を取り立ち上がる。
屈んでしまった俺を男が蹴ろうとすることは予測できた。実際、男の蹴りは空振りに終わった。
ここまでは想像通り。女と男の間に割って入ることが出来た。
女を後ろにして立つ。害があるのは男だけだと思ったからだ。
男を正面に見据える。そして叫ぶ。
「この騒ぎの原因は俺にある! 今すぐにこの争いをやめてくれないか!!」
内心、これで決まった。と俺は思った。
それも束の間、ありえない衝撃を股間に受けた俺の体は勝手に倒れていった。意識が消える直前に男を見る。まさか、この男が俺の見えない速度で動いたとでもいうのか。
最後に俺の目に映ったのは、男の瞳に映る俺の後ろで右足を蹴り上げている姿の女だった。
視力のはなし 終




