*現れし者
「おまえ、女か? 男か?」
大きな木製のカップに入った酒を威勢よくあおっていた男が通りすがりに尋ねた。
無論のこと、真摯な問いかけではないだろう。男の顔つきを見るに、揶揄が混じっている事に思い至る。
青年の面持ちは中性的なれど、その物腰は繊麗されたなかに男性特有の力強さがあった。故に、見定めれば誤ることもない。
ナシェリオには今更言われ慣れた事なのか男を一瞥し、少しの反応も示すことなく歩みを進める。
「聞こえてんだろ」
そんな旅人の態度に酒の助けも相まってか、男は気が大きくなっていた。
酔った勢いというものほど怖いものはない。先ほど見せつけられた、素早い動きなど忘れたかのように鼻息荒く立ち上がった。
「お? おっとと」
しかし、男は矢庭に立ち上がったせいか一気に酔いが回り、一歩二歩とふらついて隣の席に手を突いた。
その拍子にテーブルにあった酒のカップが床に落ち、漁師であろう男は静かに酔っぱらいの背中を睨みつけた。
漁から戻ってようやくひと息つけると心弛び席について早々に、あおろうとした酒は伸ばした手に触れることなく床にまき散らされた。
液体は板張りの床に広がり、漁師の心情を物語るかのように黒く染まっていく。
漁師は理不尽に奪われた愉しみに無言で立ち上がると、酔っぱらいを無理矢理に振り向かせて胸ぐらを掴み、殴る訳でもなく強く押しやる。
「なにしやがんだ!」
男は息巻いて張り合うがしかし、その足元は心許なくふと崩れた体勢を立て直せずに他のテーブルに体ごとぶつかった。その勢いはテーブルを大きく揺らし、そこにあった皿やコップはことごとく床に散らばる。
この町の男たちはみな寡黙なのか、やはり無言で立ち上がり謝れと言わんばかりに突き飛ばす。
突き飛ばした男はそれでも怒りが治まらないらしく、腹立たしさをぶちまけるように腕を大きく振った。その腕は近くのテーブルにある料理の入ったボウルに当たり、大きな音を立てて床に転がる。
「てめえ!」
酒場とは、言うまでもなく酒を呑む場所だ。故に酒を呑んでいる者がほとんどである。酒は感情のタガを緩め、良くも悪くも気持ちを大きくさせる。
「うるせえ!」
「なんだとてめえ」
あちこちで殴り合いの喧嘩が始まり、聞くに堪えない怒号が積み重なるように酒場中を満たしていった。
それは、あたかも噴火した火山のように、爆発した感情が周囲に飛び火し激しく広がっていく。
さすがに、ここまでの騒動になるとは予想もしていなかったニサファとナシェリオは目を丸くして収拾のつかなくなった酒場を眺めた。
「なんと申してよいやら」
「まあ仕方ない」
勝手に大騒動になった酒場をぼんやりと視界全体で捉え、ナシェリオはラーファンと大喧嘩をした時のことを思い出していた。
†††
──あれは、珍しく渡り戦士が村を訪れた時のことだ。
渡り戦士は放浪者とは違い、腕を請われる場所にしか赴くことはない。然るに、こんな辺境にまで足を運ぶ渡り戦士は珍しかった。
その男は三十代半ばだろうか、硬いブラウンの短髪をかきあげ、どこか自信ありげに笑みを浮かべていた。
辺境の村にまでたどり着いた己に自賛でもしたいのかもしれない、男は一度深く息を吸い込むと胸を張って誇らしげに集落を見渡した。
村人たちは珍しい渡り戦士に羨望の眼差しを送り、その冒険譚を傾聴するべく丁寧に迎え入れ、中ほどにある広場へと案内した。
たき火を囲み、柑子色に染まる村人の顔は物語を早く聞きたいとせがむように渡り戦士を見つめている。
男はネルオルセユルと名乗り、村が用意した食べ物を前に腰を掛け、背中に背負った剣と分厚いマントを脱いで脇に据えた。
背中に装備するためなのか、剣の抜き出しを滑らかな動作で行えるようにと鞘は途中から片面が抜けている。その刃は炎を赤く照り返し、さながら血の如くラーファンを魅了した。
ネルオルセユルは屈強な戦士なのだろう。どの村人よりも体格が良く、突き出た腕は彼の強さを物語るに足るほどに鍛えられている。
枯れ葉色の瞳は心に何かを留めているのか、堅固なまでの輝きを宿していた。





