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*まとわりつくその名

 誰もいなくなった波戸で、ナシェリオはそよぐ潮風を浴びていた。頑丈には造られているものの、木製の波戸は凪いだ海の波にもどこからか微かなきしみを上げる。

 波間を漂う流木にどこにもたどり着けぬ我が身を重ね、耳に伝わる海鳥の鳴き声が妙に愛おしく胸にこだました。

「何か用か」

 まどろみから目覚めるように発すると、乱暴に積み上げられた木箱の影から老齢の男性がゆっくりと姿を現した。

「さすがですな」

 その老人は六十代後半ほどだろうか、手入れされた肩までの白髪と白く長い髭、ブラウンのローブは長く引きずるほどだが良い品である事が窺える。それ相応の立場にいる人物かもしれない。

 ナシェリオは、何がさすがなのかと肩をすくめて老人の黒い瞳を見つめた。

「その剣の輝きと柄にある模様が、貴方が何者なのかを物語っております」

 あえて、それが何であるかを語らない老人に眉を寄せる。己が何者かを自覚しろとでも言うのだろうか。

「魔獣退治を──」

「渡り戦士にでも頼めばいい」

 言い切るのを待たずに返した。何者なのかを知っていて声をかけてくる者など、頼み事でもなければ居るはずもなく、ましてやそれを最後まで聞く気もない。

 老人は青年の態度に、やや驚いたような顔をして視線を外す。

「申し遅れました。わたしはニサファと申します。ここから南の方角にある、岩山近くの小さな村の長老をしております」

 ニサファと名乗った老人は諦めるつもりはないらしい、面倒だと顔に表すナシェリオに知らぬ振りをして話を続けた。

「今まで幾人もの渡り戦士や魔法使い(ソーサラー)放浪者アウトローに頼みました。しかし、誰一人として戻って来る者はおらず──」

 ニサファから伝わるギリギリの思いは、ナシェリオの胸に痛みを与える。だからといって、私がそれを受ける理由はないとナシェリオは苦い表情を浮かべた。

「我々にはもう、貴方しかいないのです」

 切実なまでの訴えにナシェリオは断る言葉を逸する。それでも、何かに抗うように素直に服する事は出来なかった。

「決めるのは話を聞いてからにしたい」

 聞いてしまえば一層、はねつける事など出来なくなるというのに、呆れるほどに悪あがきをしている。

「ありがとうございます。では、酒場に戻りましょう」

 つい先刻にひと悶着あった酒場に促され、複雑な表情を浮かべた。ニサファはそれに古老ころうに似つかわしい笑みを見せる。

「そろそろ落ち着いている頃合いでしょう」

「だといいがな」

 つぶやいて、ゆっくりと酒場に向かうニサファの後を追う。さほど大きくはない港町といえど酒場は町の中ほどに位置しており、のんびりした足取りでは速やかな到着という訳にはいかない。

「吟遊詩人どもはそれらしく英雄を謳うものですが、貴方はまさに彼らの奏でる美しい音色そのままに輝いておられる」

 気を紛らわせるためか互いの距離を少しでも埋めるためなのか、のんびりと歩いていたのはそのためかとナシェリオは顔をしかめる。

 どちらにしても、彼にとっては面倒でしかない。

「私はそんなものじゃない」

 吐き捨てるように応えた青年を自分の息子か孫にでも重ねているのだろうか、ニサファは口元を緩めて笑う。

「ドラゴン退治の英雄と言われることがお嫌とみえる」

「やつが勝手に死んだだけだ」

 素っ気なく返してふいと顔を背けるこの厄介な英雄はまだ若いのだろうかと想察するも、ニサファが英雄の語りを聞いたのは幼少の頃だ。

 死から見放された英雄というのは、本当らしい。

 ナシェリオは心持ち折れ曲がった背中を視界に捉え、いつまでも英雄を求める世間は残酷なものだとうなだれる。

 英雄に憧れてはいても、その英雄になろうと思った事は一度もなかった。

 それでも、一つの伝説として語り継がれる英雄の一人になってしまった事は、ナシェリオにとって大いに不本意なものだった。

 英雄になるべきはラーファンだったのだ。どうして私のような弱い者が英雄などともてはやされる。

 ──酒場は、再び訪れた人物に瞬刻しゅんこく目を移し、あとは見て見ぬ振りで賑やかにしつつも、その視線は時折ナシェリオを意識していた。

 ナシェリオはその視線から逃げるように被っていたフードをさらに深く被り、壁際の席を探す。

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