*遠けきかつての歌声
──改めて突きつけられた過去に表情を苦くする。もう放っておいてくれと頭を抱えたナシェリオに、
「わたしが村を去ろうとしたとき、一人の女性に呼び止められました」
それにふと顔を見合わせる。
「赤毛がとても綺麗な、レイアと言ったかしら」
ナシェリオはその名に大きく目を見開き、埋もれた記憶が湧き出すように次々と脳裏を横切っていく。
「居場所を訊かれたけれど知らないと答えると、とても悲しそうな瞳をしていた。彼女はあなたのことを、とても気に掛けていました」
ナシェリオは懐かしむような表情を浮かべ、同時に心苦しい思い出も蘇ったのか愁いを帯びた瞳を伏せる。
「彼女は幼少から、私を少しも怖がらなかった」
「怖がる?」
「子供というものは、純粋なだけに残酷だ」
自分たちとは少しでも異なるものに恐怖する。北方の民は気が荒いとも伝わっていたためもあるだろう。
ささいな顔立ちの違いは、それだけで異質なものと混同される。その感情の区別を明確に成せる子供は多くはない。
自分でも理解出来かねる感情は不安でしかなく、その不安を与えている対象より少しでも己を優位にし、かつ安心させるために行う事は決まっていた。
無論のこと、ラーファンやレイアのように全ての子供がナシェリオをその対象としていた訳でもない。
「彼女はあなたを慕っていたようね」
私があなたとの思い出について尋ねると、とても嬉しそうに夕日色の瞳を輝かせていた。他の誰よりも聡明で手先がとても器用だから、あんなことがなければきっと凄い細工職人になっていただろうとその光景を浮かべたのか顔をほころばせた。
「そして、こうも言っていたの。あなたを想い、独りで居続けると」
「──何故」
初めて聞かされたレイアの感情に声を詰まらせる。
「彼女は知っていたのね。あなたが村を去った理由を」
彼は優しい人だから、村のみんながああなってしまったのは、きっと自分のせいだと思っているのでしょう。彼がいなくなってしまったことはとても寂しいけれど、嬉しくもあるんです。
「わたしはそれに、どうしてかと尋ねた。すると、静かに強く答えました」
だって、彼がずっとそうしたかったことが出来たのですもの。彼の両親が村のみんなを守って死んだことで、あの人は自分もそうしなければと思っていたのではと──。
「あなたには、自分の進みたい道を歩んで欲しいと言っていた」
村人たちの罪はせめて自分が背負うからと、まるで祈りにも似た言葉だった。
「彼女は、あなたのことをよく見ていたのね」
ナシェリオは今更に、彼女の言動を深く思い起こす。あれは、私への好意によるものだったのかと我ながら気付きの遅さに呆れて口角を吊り上げた。
レイアは、せめて自分だけはとラーファンの両親と共に彼の死を悼み、その帰りの道にナシェリオが村を去ろうとする姿を目にした。しかし、それを見ていて引き留めなかった。
引き留めることで、ナシェリオ自身を苦しめることになると彼女は解っていたからだ。
どんな理由にせよ、彼はようやく自分のしたいことが出来るのだ。己の哀しみよりも彼の幸福を願おうと、遠のく背中をいつまでも見つめていた。
泥にまみれて遊んだ日々はとうに過ぎ、それぞれの性別や性格に適した暮らしに移り変わっても、レイアが見つめていたのはただ一人だった。
彼がどれほど、外の世界に思いを馳せていたのか。自分たちがその足枷であることが歯がゆく、彼の背中を押すことの出来るきっかけはないだろうかと、そればかりを願っていた。
「彼女のためにも、少しくらい自分を赦してあげたらどうだろう。もっとも、今に至るまで友人だと思っていた女性の胸の内を知らされたからといって、どうしていいかなんて解らないでしょうけど」
しかも、数百年も前に死んだ相手だ。そんな人間に、義理立てさせてどうなるのかともエスティエルは思ったがしかし、それでもこの英雄を陽の当たる場所へ誘い出すにはと考えての言葉だった。
「解らない。どうしていいのかなんて」
その表情にエスティエルはようやく、彼が前に進もうとはしていた事を知った。彼を縛り付けている亡霊は、ナシェリオ自身が作り出した幻影だ。
友を失った自責の念は、罪を背負い続けることで自身の償いとしようとした。それが間違っていることも、彼は充分に解っていたのだ。それでも拭い去る勇気はなかった。
「何かに執着していなければ、辛いのでしょう?」
その言葉は、精神的にというだけではない事を意味している。
やはり知っていたのかとエスティエルから視線を外し、忘れようと心の奥に追いやった記憶を呼び覚ます。
†††
英雄と呼ばれるようになって、およそ百年後──馬の背に乗り、草原を歩いていたときのことだ。
空から大きなはばたきが聞こえ剣の柄に手を添えてすぐ、眼前に見知った姿が降り立った。
ナシェリオの数倍はある体長は藍色の硬い鱗に覆われ、黒く分厚い皮の翼、尖った口にはずらりと鋭い牙が並んでいる。
ナシェリオは苦々しく思いながらもその存在に敬意を示すため馬から下り、のそりと距離を詰めるドラゴンを窺う。
[そなたがナシェリオか]
ドラゴンは低く、しかし威厳のある物言いで小さな人間を見やった。このようなドラゴンまでもが自分を知っていて、探していたのかと不可解に感じ眉を寄せる。
「だったらどうした」
深紅の瞳は、睨み返す英雄を見極めるかのように視線を外さない。一体、己の何を見ているのかと沈黙を続けるドラゴンを同じく見つめた。
[なるほど、脆弱なる強き者だ]
相変わらずドラゴンの言い回しはよく解らない。命に余裕があるだけに、性格がいささかおおらか過ぎるのではないだろうか。
[そなたからは、かの同胞の力を確かに感じる]
誰の事を差しているのか、ドラゴンの同胞ならばすぐに察しがつく。大きな罪と罰を背負わせたその影を思い起こし、表情を険しくした。
[我もまた、過ぎ去った同胞と同じくするものなり]
唸るように紡がれた言葉が頭の中でこだまする。こいつは何を言っているんだ。
「他をあたればいいだろう」
人間にお前たちの意思を押しつけるな。
[そなたは相応しき者として選ばれた]
「勝手に決めるな──やめろ!」
ドラゴンはナシェリオの叫びを聞き入れる事なく、鋭い爪で自らの胸を切り裂きナシェリオに血しぶきを浴びせた。
まだ罰が必要だと言うのか……。弄ぶのもいい加減にしろ。
残されたナシェリオは片膝をつき束の間、地の底に恨みをぶつけるようにその足元を睨め付けた。





