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*許容の領域

 遠ざかる影に溜息を漏らし、剣を仕舞う。

「なんで、あんなことをしたんだ」

 ようやくの落ち着きを取り戻したラーファンは戸惑うようにつぶやいた。

「そうしなければ、こちらがやられていた」

 あの男たちの言葉を聞いただろうにまだ解ってくれないのかと、ナシェリオはやや苛つきながらもそれが表情に出ないようにおもんばかった。

「解っているのか!? 相手を斬りつけたんだぞ。怪我をさせたんだぞ!?」

 思わず声を張り上げる。臆病で、いつも隅っこに隠れるようにしていたナシェリオが突然、名も知らぬ兵士に斬りかかりこれを追い払った。

 思いもしない出来事に驚き、ずっと傍にいた自分が知らないナシェリオの一面を垣間見た気がして、どうにもやるせない気持ちになる。

「攻撃していなければ、殺されていたか奴隷商人に売られていた」

 ひるむことなく応えたナシェリオから視線を外す。少しでも強く言えばすぐに謝っていた今までとは、やはりどこかが違う。何が彼を変えたのだろう。

「……どうして、あんなことが出来るんだよ」

 混乱しながらも詰まる声を絞り出す。共に実戦経験などあるはずがないのに、兵士たちの企みに瞬時に気付き、剣を手にしたナシェリオに驚駭きょうがいする。

 初めての出来事に未だラーファンの手は微かに震えているのを一瞥し、ナシェリオはこうべを垂れた。

「少なくとも、私は全てが幸せだったという訳では、なかったから」

 ラーファンはそれに目を見開き、眉を寄せて視線を外した。両親を亡くし、しばらく笑うことがなかった事を思い出して表情を苦くする。

 ひとりぼっちになったナシェリオを守ってやれと父親に言われ、今までずっとそうしてきた。村に残せば、またいじめられてしまう。

 ナシェリオは俺の次に強いが繊細で優しすぎるから、村の奴らに反撃なんて決して出来はしないだろう。

 優しい我が友、ナシェリオ。

「だからって……斬りつけることは、無かった」

 吐き捨てるように馬にまたがる。ゆっくりした足取りに、ナシェリオも馬に乗り前方の歩みに従った。

 ──空は二人の胸の内を表すように厚く雲を作り、これから沈もうとする太陽を覆い隠した。

 雨までは降ることはないだろうとナシェリオは空を仰ぎ、黙って進むラーファンの背中を見つめる。

 放浪者アウトローや騎士になりたいと言うけれど、彼はその本質を知らない。

 全ての人間が優しいのならば、どうして傭兵や渡り戦士が存在しているのか。騎士は何と戦うための存在なのか。全ての戦う者たちが、人間以外を対象としているとでも思っているのか。

 人だから攻撃してはいけないというのなら、罪のない動物を殺すことはどうなのだ。

 目的のドラゴンには、命を奪われるほどの罪はあるのか。ネルオルセユルが倒したドラゴンのように悪評が流れている訳じゃない。

 ドラゴンは倒すべき対象と見なされているが、彼らは多種多様で必ずしも人間に敵対的という訳じゃない。

 目指すドラゴンに罪はなくとも、倒すべき存在であるのか。それを吐き出せば、必ずラーファンとの言い合いになる。

 虚しい口喧嘩を思うと、ナシェリオは意見する気にはなれなかった。

 危険なのか、そうでないかの境界線を知る事は難しい──それを知る者がいくら説明したとしても、詰まるところ経験しなければ理解する事は出来ない。しかし、死んでからでは遅すぎる。後悔すらも敵わない。

 この世界は容赦もなく慈悲もないけれど、揺るぎのないことわりがある。それだけは、決して忘れてはならないのだ。

「ナシェリオ。あれ」

 沈黙を続けていたラーファンがふいに口を開いた。彼が示す方向に目を向けたそこには、かつての記臆にある獣の姿があった。

 獅子に似た風貌はブラウンの体毛で覆われ、黒いたてがみは雄である証だ。

「プレオイシス──」

 それは、北の民の言葉で「草原を走るもの」という。その獣は雄大な風景にとけ込むように堂々と草原に身体を横たえ、風を感じているようだった。

 かたわらにいるのは仔どもだろうか、数匹の小さな獣が戯れているのを黒い瞳が優しげに見つめている。プレオイシスは本来、人を襲う事のないウサギや鹿などを狙う穏やかな肉食獣なのだ。

 だから両親は倒すことを躊躇い、どうにか追い払えないのもかとその動きを鈍らせた。野を駆けていた頃の感覚を捨ててしまったのか、この世界の非情さを忘れてしまったのか。

 二人はプレオイシスの目が覚めてくれるかもしれないという、ささやかな希望に潰されたのかもしれない。

 そんな二人を愚かな奴だと笑う者もいるだろう。しかし、ナシェリオは父と母を誇りに思っている。

 彼らは力の限り闘ったのだ。それを愚か者だと言い捨てて、全てを無駄にする事などナシェリオに出来はしなかった。

 目の前に漂う蝶にすら、学ぶものは山ほどある。あらゆる存在に敬意を払い、どんなに小さな事も見逃してはならない──両親の教えは常にナシェリオの心に刻まれていた。

 心優しき獣の姿にナシェリオは、父と母は間違っていなかったのだと小さく笑みを浮かべて静かに目を閉じた。

「ナシェリオ」

 ふいに名を呼ばれ振り返る。

「ありがとう」

 思ってもいなかった言葉に目を丸くした。ラーファンはそんなナシェリオから視線を外し草原を見やる。

「あのとき、お前が剣を抜いてなければ俺たち、どうなっていたか解らないんだよな」

 苦虫を噛み潰すように発した。あのとき確かに、その後の二人の人生を大きく左右する瞬間だったのだ。

 にもかかわらず、ナシェリオに俺はなんと情けないことを言ったのか。

「怖かっただろう。一人で闘わせてすまなかったな」

「いいんだ」

 解ってくれただけで充分だと安堵する。本当はこのまま「お前とは旅は出来ない」と引き返してくれれば良かったのだが、そうもいかないようだ。

「でも、これで俺も安心して旅が出来るよ。お前を守らなきゃとずっと、思っていたから」

 ああ、彼にはそういう意識があったのかとナシェリオは嬉しく思う反面、ならば何故私と旅をしようなどと考えたのかと複雑な気分になる。

 このとき、ラーファンは彼の腕前に発した言葉以上の期待をしていた。目指すドラゴンも、彼がいれば易々と倒せるのではないだろうかと──

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