*進めぬ記憶
ナシェリオは村に近づくにつれて、記憶にある香りが少しずつ強さを増している事に気付く。鼻につくような強さではなく、ほのかに広がる爽やかな香りは自然と心地よい気持ちにさせる。
「マレストか?」
「はい。ガネカルはこの香りが苦手だと聞き、少しでも助けになればと常に焚いているように言うておりました。幸いにもこの辺りには多く自生しており、干して粉にしたものを固めて香にしております」
マレストはどこの草原でも度々見かける草花で、夏場には可憐な薄紫の花を咲かせる。葉を乾燥させて粉にし、香辛料や香として加工する。
旬を迎える暑い季節には、摘み取った葉をそのまま使用しマレスト独特の感覚を楽しむ。その冷涼感は清涼、解熱などの薬としても用いられ、様々な料理や酒にも使われている。
「ああ、村は無事だ。わたしは間に合ったのだ」
ニサファは、ようやく全てが解決した喜びに待ちきれず村の手前で馬を下りた。入り口を示す簡単な木製の門を見上げ、成し遂げたという達成感に体を震わせる。
「ようやく、ようやく終わったのだ。これで平穏に暮らせる」
目に涙をにじませて、煌々と灯されているたいまつを見つめる。そうして、客人を迎えるべく胸を張った。
「さあ、ナシェリオ様。こちらへ」
しかし、振り返った先に居るはずの英雄の姿はなく、まだ謝礼を払っていないというのにどこに行かれたのかと周囲を見回す。
「ナシェリオ様?」
吹き抜けてゆく緩やかな風の音だけが辺りを満たしていた。隠れるような場所もなければ、そんないたずらをする方でもないだろう。
「ナシェリオ様!」
いくら呼べども返事はなく、一体どうしてなのかと呆然とした。ふと、足元に転がっているものに目が留まり、腰をかがめて手を伸ばす。
「呼び笛?」
手に収まるほどの木彫りの小鳥は、よく見れば笛の細工がしてあった。小鳥を呼ぶのに使われる子供の遊び笛だ。
「なんと見事な彫刻か」
それは、まるで本物のように精巧なだけでなく、細かな模様まで彫り込まれ緻密で繊細な造りに溜息が漏れる。
たったいま完成したかのような新しい感触に、ニサファは平原を視界全体に捉えて目を眇めた。
彼は英雄など望んではいなかったのだろう。
多くの物をその手で作り出し、年老いたのちに幸せだったと言い残して此岸(この世)から解き放たれ、遙かな彼岸に悔いなく旅立つ──そんな人生を描いていたのかもしれない。
死ぬことの出来ない恐怖など考えた事がなかった。終わりなき孤独に生き続けなければならない現実など、想像すら出来はしない。
人は果たして、そんなものに絶えられるのだろうか。
「永久の英雄に安息の地を──貴方に、安らぎの刻が与えられんことを」
死ぬことは適わずとも、貴方の世にそれがありますように。ニサファは木彫りの小鳥を握りしめ、静かに祈りを捧げた。
──ナシェリオは、おぼろに見えるたいまつの灯火をしばらく眺め、ゆっくりと馬を進ませる。
どうせ、あの村も数百年もすれば消えてゆくのだろう。何かのきっかけで大きな変貌を遂げる可能性は無いに等しい。
多くのものは繁栄と衰退を繰り返している。だからといって、いまそこにある人々は過去の存在ではない。彼らは今を生き、前に向かって進んでいる。
自身の記憶にあるものとは異なる存在だ。過去は今じゃない、現実と重ねてはならない。心では解っているのに、苦い記憶がナシェリオを足止めさせる。
そこに留まる事の方が辛いはずなのに、その苦しみはまるで真綿のようにじわりじわりと心地よい痛みで締め付けてくる。
当て処もない旅に、いい加減うんざりする。今すぐに誰かが終わらせてくれるというなら、代わってくれるというのなら、私は喜んでそれを受け入れるだろう。
子供は純粋などではない、ただ無知なだけだ。それによって大きな罪と過ちを犯す。償いきれない過ちを、どうすればいいというのだろうか。
英雄は忘れられずに堂々巡る苦しみの記憶を、再び辿る──
†††
「昨日はごめん」
言い争いをした日の翌朝、ナシェリオはいつものように家を訪れたラーファンに謝罪した。
「ああ、そんなの気にするなよ。お前と俺の仲だろ」
ナシェリオに明るく返し、村の畑で今朝採れた野菜をダイニングテーブルに並べる。
「そうだね。ありがとう」
口ではそう応えたが、ラーファンの言葉と面持ちにナシェリオはどこか納得しきれなかった。
彼はまるで、夢見事のように明るく笑みを浮かべている。
自分の放った言葉に対して気にするなと言われたならば安堵もしよう。しかし、彼はその内容にまでをも無かったこととしている。
あれは一時の昂ぶった感情によるものであり、本心ではないと考えているのだ。思わず口にした事には変わりないが、あれが気の迷いだと思われるのには疑問が残る。
多少なりとも私の心情と外の危険を考察してもらいたかったというのに、これではあれだけの言い合いをした事が全て無駄ではないか。
そんな危険も、お前の想像に過ぎないと言われてしまえば終いかもしれない。しかし、少なくともナシェリオの両親は外の世界をよく知っていた。