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ハルジオン~口だけ野郎一代記~  作者: 曖昧
嘘を重ねて引き返せなくなる第一部

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雲母、再び 前

 お盆明けの今日、空は何処までも澄み渡っていた。

 あらゆる憂いを打ち祓い、旅立つ者の前途を祝福するような美しい蒼天の下、

お日様の光を全身に浴びながら立ち尽くす女が一人。

 彼女の名は逆鬼雲母。非業に愛され幸福に疎まれ果てに一度狂った哀しき女。

 雲母は我が子の墓の前に立ち、静かに祈りを捧げていた。


「……名前もあげられなかった、私の可愛い子」


 語りかけるその声に憂いは混じっていたが見る者を狂気に誘う絶望は混じっていない。

 それは逆鬼雲母と言う女がある種の解脱を果たしたからだと言えよう。

 お友達、小さな女の子、そして――――健気な優しい男の子。

 三人の善なる者が彼女の闇を祓ったのだ。

 まあ、約一名は善人でもなければ雲母を救う気もなかったのだが。

 徹頭徹尾自分のために身を削っただけ。

 だと言うのにそのおかげで幸せになれる誰かが居るのだから世の中と言うやつは面白い。


「愚かな母親だったけど、あなたのために祈ることくらいは赦されるわよね?」


 お盆が済んで、あの子も天へ還っただろう。

 そして今度こそ輪廻の輪に入って何処か遠くで生まれ変わるはずだ。

 今度は私じゃない、もっと素敵な母親の下で幸せになるために生まれて来る。

 この手に抱くことは二度と無いだろう、でも祈らせて欲しい。

 あなたの次の生が幸福に満ちたものでありますように。

 誰かを愛し、誰かに愛され、そうやって日々を穏やかに過せますように。

 雲母の祈りは一時間ほど続いた。

 また帰って来ることもあるかもしれない、けれどもこれは決別だ。

 決して忘れはしないし、存在を消すつもりはない。

 それでも、やはり決別なのだ。

 母は新たな人生の一歩を踏み出し、子もまた新たな人生へ向けて歩き出すのだから。


「――――じゃあ、行ってきます」


 肩口で綺麗に切り揃えられた髪が風に揺れる。

 雲母は振り返ることなく墓地を去り、我が家を目指す。

 歩調がゆっくりなのは旅立つ前に生まれた町をしっかり目に焼き付けておきたいからだ。

 この目に映る景色は、かつてと比べて何と輝かしいことか。

 闇の中に居た雲母にとってはどれもこれも愛しくてしょうがなかった。

 だが、何時までものんびりしているわけにもいかない。

 惜しむ気持ちを押し殺して家に戻った彼女は旅行鞄を手に取り家を出る。


「あぁ、雲母ちゃんか。もう行くのかえ?」


 玄関を施錠したところで、隣家に住む老婆が声をかけて来た。

 思えば彼女にも随分と世話をかけた……雲母は感謝の念を込めて一礼する。


「はい。後のことはよろしく御願いします」


 家の手入れや墓の世話などは老婆が請け負ってくれる。

 最初は業者を雇おうと思ったのだが、

その話をした時に自分が生きている間は任せてくれと言ってくれたのだ。

 老婆は皺皺の顔を歪めて優しげな笑みを作る。


「ああ……と、そういや聞いとらんかったが、雲母ちゃんは何処へ行くんだい?」


 この町を出るとは聞いていたが、何処へ行くとは聞いていない。

 今更過ぎる問いではあるが、一応聞いておかねばならないだろう。


「大阪へ、行こうと思います」

「大阪ってーと……女威ちゃんのとこかい?」

「挨拶には行きますが、女威ちゃんのところに身を寄せるわけじゃないですよ」


 勿論会って話して改めて感謝を告げたいし、そうするつもりだ。

 けれどもそれは旅立ちの目的ではない。


「両の手で抱えきれないくらいの優しさをくれた子に、恩返しに行くんです」

「よく分からないけど……今のあんたは良い顔しとる。頑張っといで!」

「はい、それではまた何時か」


 もう一度深くお辞儀をして雲母は駅を目指す。

 その足取りは軽く、彼女が未来に向けて歩き出したことの何よりの証左だった。


「意外と、覚えてるものなのね……」


 数年ぶりに町の外に出ることもあり、何か不手際をしないかが不安だった。

 何せ四六時中嘆いていて他のことなど考える余裕もなかったのだ。

 要らない記憶はどんどん削げ落ちていると思っていたが、

どうやら切符を買って電車に乗ること、路線図を読むことくらいは覚えていられた。

 そのことに安心しつつ雲母は電車に乗り込む。

 彼女が乗り込むと電車はすぐに発車し、景色が流れていく。


「そう言えば、あの時はどうやって戻って来たのかしら?」


 総てを喪った後のことだ。

 雲母は自分がどうやって故郷に戻り、生活を始めたのかが思い出せない。


「……本当に、堕ちるところまで堕ちてたのねえ」


 黒歴史として葬ってしまう――――わけにもいかないだろう。

 目を逸らしてしまいたいけれど、あれも確かに自分だった。

 なので苦しかろうとも飲み込まなければいけない。

 そんなことを考えていると乗り換えの駅に辿り着く。


「えーっと……ここからは天王寺まで、よね?」


 まず最初に訪れるのはモジョのところと決めている。

 だが、生憎と雲母は一度しか友人が勤務する学校に行ったことがない。

 多少不安ではあるが、向こうでタクシーを拾えば問題は無い。

 そう思い直して彼女は天王寺行きの電車に乗り込んだ。


「……ふぅ」


 席に深く背を預けて瞳を閉じる。

 思い浮かぶのは自分が大阪行きを決めた一因となる出来事だ。


『はじめまして、逆鬼雲母さんだね?』


 そいつがやって来たのはお盆の初日だった。

 俗世のことに疎く、紫苑らの手で正気に戻ってからもテレビなどを見ていなかった彼女は、

名乗られるまでそいつが誰だか分からなかった。


『私はアレクサンダー、アレクサンダー・クセキナスだ。アレクと呼んでくれたまえ』


 雲母とて冒険者の端くれだったのだ。

 当然ながらその名は知っているし、見覚えが無いでもなかった。

 だが何故こんなお偉いさんが辺鄙な田舎にやって来たのだ?

 アレクの出で立ちは軽装でともすれば観光をしている外国人にも見える。

 が、そもそもからして己が住んでいる町に観光出来るような場所など無い。

 本当に寂れた町で、だからこそ友人達は町を飛び出したのだ。


『私に、何か御用かしら?』


 その時雲母の脳裏によぎったのは例のダンジョンだ。

 ギルドのトップに名を知られているとしたらその一件しかあるまい。

 何せ自分達の蛮勇のせいであのダンジョンの存在がギルドに知れたのだから。

 しかし、だとしてもわざわざギルドのトップが会いに来るとは思えないし、

例のダンジョン絡みだとしても一体どんな用件があるのかが分からない。


『私はね、今、とある少年の足跡を辿っているんだよ』


 何故だか分からないが雲母はそれが紫苑のことだと直感した。

 彼女は気付けば武器を召喚し、その切っ先をアレクに向けていた。

 無礼なんてレベルではない。

 これが現役の冒険者ならば下手をせずともギルドから除籍されていただろう。

 だが生憎と雲母は現役ではない――どころか既に引退済みだ。

 例えここで世界最強に刃を向けたところで何の問題も無い。


『やれやれ……この分じゃ、あなたの次に会いに行く子にも敵意を向けられそうだ』

『対話をすることを放棄するのは良くないわよ?』


 それは自虐にも似た批判だった。

 しかし、アレクは気を害した様子もなくただ笑っている。


『あなたは何故紫苑ちゃんの足跡を辿っていて、私に会いに来たのかしら?』


 あの夜以降、異常な力を自覚したことはなかった。

 それでもこの時は不思議とあの夜のように止め処なく力が溢れて来る気がした。

 ずるずると人知及ばぬ領域に足を踏み入れているような感覚。

 それに対する恐れはあれども、雲母は総て黙殺した。

 アレクが紫苑に不吉を齎す存在ならばこの場で殺さねばならない。

 そしてそのためならばこの力だって都合が良い。


『流石、無自覚のままその域に達しただけはある。桁が違っているな。

だがこのままじゃ会話も出来ない。まず明言しておこう、私は彼に敵意を持っていない。

むしろ尊敬と友愛の情を抱いている。分かるだろう? あなたならば。

誰もが持っていたはずなのに、気付けば捨ててしまったり忘れてしまったり擦り切れてしまう大切なもの。

それを大事に持ち続けて"当たり前"の優しさを他人に施すことが出来る彼の尊さが』


 その言葉に一切の嘘はなかったように思う。

 目の前に居る男は自分よりも遥かに年下であろう紫苑に敬意を抱いている。

 それが分かったからこそ雲母も臨戦態勢を解除した。


『ええ、分かるわ。だって、私はそれに救われたんだもの』


 ただ、今になって思うこともある。

 そしてアレクもそれに気付いている、根拠はないが雲母はそう思った。


『若さゆえか、溢れる愛ゆえか。他者のために身を削り過ぎる。

善き人であることは素晴らしいし、好ましいが……自分を労わることも知るべきだ。

彼は泣いていた誰かが笑ってくれるおかげで心を満たされるようだが……どうもな。

もう少し欲深ならば安心出来るし、生きるのも楽だと思うんだがね』


 日本人ゆえの謙虚さかな? そう言ってアレクは苦笑する。

 実際は紫苑ほど欲深な人間もそうはいないのだが。


『そうねえ……少し、心配になるわ』


 だからこそ、この時の雲母はぼんやりと大阪へ行こうかと考えていた。

 とは言ってもこの段階で具体的なビジョンはなかったのだ。


『まるでお母さんだね。

彼は早くに両親を亡くし天涯孤独だからね、君のような人間が居ると安心出来る。

とは言っても何時かの夜のようなのは関心しないが。

子と見るにしても春風紫苑くん本人を見つめてやらなきゃ不健全と言うものだ』


 その言葉に雲母が眉を顰める。

 どうしてコイツがあの夜のことを知っている?

 知っているのは自分も含めて四人だけで、他の者らが話すとも思えない。

 と言うよりアレクに会う機会すらないだろう。


『疑問は当然。あなたにならば少しは明かすとしよう。私はちょっとした力を持っていてね』


 左手を使って髭を撫でるアレク。

 どうにも左腕に刻まれた炎のタトゥーが目につく。


『強い思念が残った場所に行くと、過去の映像が見れるのさ。

彼が多くの者らと絆を結んで来た場所には例外なく強い思念が残留している。

何処もかなりの修羅場だったからねえ……それでも彼は何処でだって一生懸命だった』


 魔法――――ではないと思う。

 少なくとも雲母はそんな魔法があるなんて聞いたことがなかった。


『何、そう大したものではない。私のそれはちょっとした余技だ。

他者のプライバシーだって侵害しているし、褒められた業じゃない。

それでも使わなくてはならないのだから……内心忸怩たる思いだよ』


 そっと左腕のタトゥーを撫でるアレク。


『……どうでも良いけど、あなたって日本語上手ね』


 アレクが何処の国の人間だったかまでは思い出せない。

 それでも日本人でないことは確かだ。

 だと言うのに、"内心忸怩たる思いだよ"――などと言う言い回しをする。

 よっぽどの日本好きなのだろうか?


『まあ、勉強は得意でね。大人になってから学ぶことの大切さを知ったのさ。

ま、それはともかくだ。私がこの町に来たのは理由の一つが彼のことを知るためだ。

あなたに会いに来たのもその一環、私は諸事情で今は彼と直接話すことが出来ないのでね。

だから直接その心に触れたあなたに彼のことを聞きたいんだ』

『理由の一つ、と言うことは他にもあるの?』

『ああ。あなたに会いに来た理由がもう一つあるのさ。

だが、それを話す前に彼について、感じたままに語って欲しい』


 雲母の中から警戒心は失せていた。

 彼女は請われるがままに紫苑のことについて語って聞かせた。

 話し終えると彼は嬉しそうに笑っていた。


『ああ、私も出来るならば早く会いたいものだ。夜を徹して語り明かしたいよ』

『会いたいならば会いに行けば良いじゃない』

『そうしたいのは山々なんだがね。そうもいかん事情がある。

それに、私と彼が顔を合わせる時は……そんな暇があるかどうかも……』


 困ったように笑うアレクは大きな決意を背負った人間特有の目をしていた。


『さ、次だ次。あなたに会いに来たもう一つの理由を果たさねばな』

『そう言えばそんなことを言ってたわねえ。私に何の用なの?』

『――――ギルド日本支部にあなたを迎え入れたい』


 寝耳に水とはこのことだ。

 冒険者としての実績はあれども中学校中退である自分がギルドの職員に?

 一体何の冗談だ。

 冒険者上がりのギルド職員が居ないわけでもないが、最低でも冒険者学校か普通の高校を卒業している。

 なのに最終学歴が中卒ですらない自分がギルドの職員? 意味が分からない。


『自慢じゃないけれど……私、かなりの馬鹿よ?』


 あれはまだ、幼馴染達と冒険者をやっていた頃のことだ。

 雲母は大学に入学するために猛勉強していたモジョの参考書を覗いたことがある。


『高校レベルの参考書の解説を読んだだけで私は知恵熱を出したわ』


 馬鹿だ馬鹿だと自分でも思っていたが、あの一件で更に自分の馬鹿っぷりを思い知った。

 そして今に至るまで勉強なんて何もしていないので馬鹿は更に加速しているだろう。


『アハハハハハハハハ!!!』


 雲母のカミングアウトは馬鹿受けだったようでアレクは腹を抱えて笑っている。

 しかしこうも大爆笑されると雲母も苛ついてくる。

 握り締めたままの刀に自然と力が篭った。


『おっと、すまないすまない。私の話を聞いてくれ。

職員と言っても通常業務に携わるわけではない。君も知っているだろう?

春風紫苑くんとその仲間達がかつてあなたが総てを喪ったダンジョンと同じような場所に潜っていることを』

『……ええ』


 だからこそ自分はアムリタを託した。

 自分のような喪失を味わって欲しくないから……。


『現在、彼らには鎌田桐緒くんと言う子がついてくれている。

あなたにはその鎌田くんと共に彼らの面倒を見て欲しい。ちょっとしたアドバイスや、鍛錬の相手だな』


 常軌を逸した力こそ失せているが、素の状態でも雲母は強い。

 前衛三人にとっては良い鍛錬相手になるだろう。


『そう言われても……随分と鈍っているし……』

『ああいや……誤魔化しは止めよう。私はあなたに頼みたいんだ』


 アレクの表情が真剣なものに変わる。


『――――どうか彼を守ってあげて欲しい』

『……どうして、会ったこともない紫苑ちゃんのためにそこまで……』


 自分のように彼に救われたと言うのならば分かる。

 だが、アレクと紫苑に面識は無い。

 だと言うのに世界中のギルドを束ねる男が何故一学生をここまで気にかけるのか。


『まあ、疑問に思うのも当然だろう。だがね、これは必要なことなのだよ』


 彼の瞳は何処か遠くを見据えているように見えた。


『彼はこれから先の人類に必要な存在だ』


 どうやら紫苑は本人も気付かぬまま大きな流れに囚われていたようだ。

 冒険者を辞めるとか辞めないとか言ってる場合じゃない。


『絶対に私と同じ道を選ぶとは限らない。

それでも足跡を辿り、こうやって話を聞いていると……可能性は限りなく高い。

そうなれば私も彼も、魁にならねばならんのだ。

だが、私と違って彼には力が無い。

その高潔な魂こそが力とも言えよう、だがそれは直接敵を屠れるようなものではない。

だがしかし、私はそれで良いと思っている。

弱いからこそ、ちっぽけな人間だからこそ痛みを知って優しい今の彼が在るのだからね』


 ただ力が強い、そんなものは探せば幾らでも居る。

 真に尊いのは心が、魂が強いことだとアレクは語る――――何て酷い茶番だろうか。

 春風紫苑と言う人間はそんな立派なものではないのに……。


『だからこそ、一人でも彼の傍で彼を護ることの出来る人間が必要なんだ。

実際に彼と心を触れ合わせたあなたのような人なら信に値する。

どうか頼まれてくれないだろうか? 住居、給与、ポスト、総て私が手配しておく。

あなたの行動を阻むものがないように根回しだってしよう。

だからどうか、どうか御願いだ。真に尊い輝きが喪われぬように力を貸してくれ』


 そこまで言われて雲母に否は無い。

 だが、聞いておかねばならぬことがある。


『喜んで承るわ……でも、一つ聞かせてちょうだい。一体何があるの?』


 アレクの口ぶりでは紫苑の身に危険が迫っているように思える。


『まだ目に見える危険ではない。そしてそれは彼にのみ降りかかるものじゃない。

そして兆しが見えるのは遠くない未来としか言えない』

『……』

『だが――――あなたはそれをあのダンジョンで聞いたはずだよ』

『え……』


 意味が分からない、あのダンジョンで聞いた?

 雲母の脳裏を駆け巡る疑問は増えていくばかりだ。


『すまないが、これ以上は言えない。逆鬼雲母さん、さっきあなたは承諾を返した』


 それに偽りは無いか? アレクは確認の問いを投げた。


『ええ。私にはよく分からないし、聞いたのだとしても思い出せないけど……それは関係無いわ』


 だって、護りたいと思う気持ちに嘘は無いのだから。

 降りかかる脅威を総て討ち払おう。

 どれだけ己が傷付いたって良い。

 彼が笑顔で居てくれることが、何よりもの救いなのだから。


『ありがとう。なら、これを』


 差し出されたのは封筒だった。


『新しい住所やら専用口座やら……まあ、諸々のことが書いてある』

『私が受けなかったらどうするつもりだったのよ……』


 言いながら、雲母にも予想はついていた。

 アレクは彼女が断らないと半ば以上に確信していた。

 だからこそこうやって諸々の準備を整えていたのだろう。


『そうはならないと言うのが私の見立てでね。では、私は大阪に戻らねばならぬので失礼するよ』


 これが逆鬼雲母が旅立った理由の総てだ。

 アレクの手でぼんやりとしていたビジョンが確たる形を得たのだ。


「……私は、何を聞いたのかしら?」


 天王寺到着を知らせるアナウンスを聞き雲母は目を開けた。

 あの日アレクが言っていたことは未だに思い出せない。

 一体自分は何を聞いたと言うのか。

 彼女はもやもやしたものを抱えたまま電車を乗り換えて冒険者学校最寄の駅を目指す。


「天王寺駅でも思ったけど、大阪って……人が多いわぁ……」


 久しぶりの人込みは雲母を随分消耗させた。

 それでも、何とか人に聞いたりして冒険者学校へと辿り着く。

 ギルド職員としての身分証明書は既に発行されているので、あっさりと敷地内に入れた。

 事務室でモジョの場所を聞いたところ彼女はどうやら体育館に居るらしい。


「やっぱり、目立つわよねえ。関係無いおばさんが居るんだもの」


 体育館への道すがらすれ違った生徒らがチラチラ自分を見ていたのは分かっていた。

 だが、雲母は勘違いをしている。

 チラチラ見ていたのは男子生徒だけで、彼らは突然現れた美人に驚いていたのだ。

 どうにもこうにも彼女は妖しい色気を放っている。

 それは思春期の男子にとってはかなり刺激的なのだ。


「オラァ! ちんたら走ってんじゃない! 気合入れろ気合!!」


 体育館に入ると、快活な友人の声が雲母の耳を擽る。


「女威ちゃん」

「あ? って……雲母!? 何だってここに……いや待て、少し待ってろ」


 話をするのなら騒がしい体育館より別の場所が良い。

 そう判断したモジョは受け持っている部活の生徒らに自主練を言い渡す。


「場所を変えよう。着いて来てくれ」

「分かったわ」


 モジョに導かれるままやって来たのは生徒指導室だった。

 ここは内緒話をするのには丁度良いのだ。


「さて……雲母、どうして急に大阪に?」

「ええ、それなんだけど……私、ギルドの職員になったの」


 身分証を差し出すとモジョは驚きに目を見開いた。

 それも当然だろう。

 例の一件があってからまだ一月も経っていないのだ。

 だと言うのに何時の間にこんな……そう思っても仕方ないだろう。


「何時の間に……」

「少し前よ。ギルドの職員さんが来てね、紫苑ちゃん達の面倒を見て欲しいって」


 友人に隠しごとをするのは後ろめたいがアレクのことを話すわけにもいかない。

 そう判断した雲母は真実をぼかして事情を説明する。


「それで大阪に引っ越して来たのよ。

って言っても、まだこっちの家にすら行ってないんだけどね」

「直で私に会いに来たのか?」

「うん。だってお友達だもの」

「……そうか、ありがとう」


 照れ臭くなったのかモジョは恥ずかしそうに視線を逸らした。

 あの雲母がここまで立ち直ってくれたのだ、これほど嬉しいことはない。


「となると、春風にはまだ会ってないんだな?」

「ええ。今日は女威ちゃんと話して、新しいお家に行こうと思ってたから。

挨拶は……うん、明日にでもしようかなって。駄目かしら?」


 会いたい、今すぐにでも会いたい、でも何故か恥ずかしい。

 雲母は紫苑と会うのに心の準備をする時間が欲しかった。

 ほんのり桜色に染まった頬はまるで恋する乙女のようだ。


「いや、良いんじゃないか? アイツも帰って来るのは明日みたいだし」

「お出かけしてるの?」

「ああ、父母の郷里に戻っているらしい。お盆だったしな」


 紫苑達は学生なので、お盆が明けてすぐに仕事と言うことはない。

 なので帰省のピークを外して帰って来るつもりなのだ。


「そう……なら丁度良かったわね」

「だな。して、新しい家は何処なんだ? それと連絡先も教えてくれ」

「あ、ごめんなさい……住所の方はともかく、連絡先はまだ携帯買ってないのよ」


 田舎に戻った際に携帯は解約して何処かへ捨ててしまった。

 それでもあっちには家電があったので問題は無かったのだが……。

 これからはそうもいかない。

 雲母は忘れぬようにと携帯を含む必需品リストを脳内でまとめる。


「そうか、なら私の連絡先を渡しておくから買ったら教えてくれ」


 モジョの連絡先が書かれたメモを受け取った雲母はそれをそっと懐に仕舞う。


「分かったわ。あ、これが新しい住所よ」

「へえ……って、おいおい近いな。確か春風のアパートもここの近くだったぞ」


 パッと見脳筋ではあるが、モジョは頭が悪いわけではない。

 なので生徒の個人情報などもしっかり頭に入っているのだ。


「そうなの?」

「ああ。まあ、お前はこっちの地理に疎いからしょうがないか。うん、なら案内するよ」

「お仕事は良いの?」


 時刻は四時を少し回ったところで、まだ終業時間ではないだろう。


「大丈夫だ。他の仕事は片付けてあるし、後は部活の監督だけだからな。

それも自主練をやっておくように言っておいたから問題無い。さあ行こう」

「ええ、なら御願いするわ」


 こうやって友達と肩を並べて街を歩くのは何時ぶりだろうか。

 ただ歩いているだけだというのに、こんなにも楽しい。

 雲母の胸の中は温かな気持ちで満ちていた。


「ところで女威ちゃん」

「ん?」


 今更ながらに三十路女がちゃん付けで呼ばれるって(笑)。


「紫苑ちゃんの……お腹の傷、大丈夫かしら?」

「はは、大丈夫だよ。翌日も元気だったじゃないか。それに、お前がアムリタを飲ませたんだろう?」

「そうね。でも……」


 一つだけ、腑に落ちないことがある。

 雲母がそれに気付いたのはごく最近だった。


「――――傷が残ってるのよ」

「んん?」

「アムリタを飲ませたはずなのに紫苑ちゃんのお腹に、傷が……残っているの」


 薄めたものならばともかく、雲母は原液のアムリタを紫苑に飲ませた。

 それで完全復活したのだが……傷だけが消えていないのだ。

 他にあの場でアムリタを飲んだアリスとモジョの傷は完全に消えていたのに紫苑だけが残っている。

 これはどうにもおかしなことだ。

 傷の具合で言うならば女二人の方が大きかったし、傷を負ってからの経過時間だって長い。

 彼が後衛だから自己治癒が低かった? いいや関係ない。

 アムリタは前衛だろうと後衛だろうと問答無用で完全治癒させるはずだ。


「だが、特に異常は無さそうだったぞ?」

「そう……それなら良いのだけど……」

「余り気にし過ぎるなよ――っと、着いたぞ」


 目の前にあるのは結構立派な一軒家。

 モジョも、雲母も知らないがそこは奇しくも紫苑の生家だった。

 恐らくはアレクが気を回してここを買い取ったのだろう。


「鍵は持ってるな?」

「ええ」


 中に入ると驚いたことに家具などがバッチリ揃えられている。

 しかもどれも真新しいのだ。

 ここまでの厚遇に少し居心地の悪さを感じながらも、

折角の好意だからと心の中でアレクに感謝の言葉を告げる雲母。

 これが紫苑だったなら自分を厚遇するのは当然だと胸張っていたはずだ。


「良いところじゃないか」

「そうねえ、私には勿体ないくらいだわ」

「フッ……そうだ! 折角だ、お前の引っ越し祝いと言うことで今日は飲もう」

「え、そんな……悪いわよ……」

「気にするな。友達だろ? 私は買い物に行って来るからお前はゆっくりしてろ」


 あっという間に出て行ったモジョ、

残された雲母は困ったように笑ってソファーに腰掛ける。


「ふぅ……」


"俺に子供になって欲しいなら、なってやる。俺も、随分と昔に母さんを亡くしているからな。

そうしなきゃ生きるのも辛いってんなら付き合うさ。お前を母と呼ぼうじゃないか"


 一人になった途端に、あの日紫苑が告げた言葉が蘇る。

 多分、近所に彼が住んでいると知ったからだろう。


「紫苑、ちゃん……」


 名前を口にするだけで胸の奥がぎゅーっと熱くなる。

 雲母は酷い男に騙されて以降、恋なんてものを経験したことがない。

 なので本人は紫苑に抱く気持ちを母性愛だと思っているし、実際それは正しいのだろう。

 だが、そこに別の愛情が無いかと言われると……あるのだろう。

 本人が自覚していないだけで。

 本当に本当に、何て罪作り。地雷を集めさせたら紫苑の右に出る者は居ない。


「紫苑ちゃん」


 もう生まれなかった我が子とは重ねていない。

 それはどちらに対しても失礼だと理解したから。

 あの子はあの子、紫苑は紫苑。

 決して重なることはないのだ。

 それでもほんの少し期待して良いのならば。

 あの場での言葉を信じて良いのならば。

 彼自身も両親を喪ったことで孤独を抱えているのならば。

 勿論、これは逃避ではない。

 血は繋がっていないし、本物ではないと分かっている。

 だが、血が繋がっていなければ、本物ではないのならば、そう呼んで欲しいと願ってはいけないのか?


「"お母さん"――――またそう呼んで欲しいわ」


 母と女が合わさって最強に見える。

 頭がおかしくなって死ぬかどうかは紫苑次第だ。

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