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ハルジオン~口だけ野郎一代記~  作者: 曖昧
嘘を重ねて引き返せなくなる第一部
60/204

鬼母の宴 終

「……あ、うぅ……!」


 冷たい雨が顔を叩く。

 混濁する意識を無理矢理に繋ぎとめて、アリスは身体を起こす。

 見れば何処かの民家に突っ込んだらしく家人が不安そうにこちらを見ていた。


「だ、大丈夫かいお嬢さん? きゅ、救急車呼ぶから待――――」

「何 も し な く て 良 い か ら 黙 っ て 寝 て な さ い」


 面倒に構っている暇は無い。

 洗脳を発動させて家人を遠ざけると、フラつく身体に鞭打って立ち上がる。

 どうやらそこそこの距離を吹き飛ばされたらしい。


「ッッ~~! し、紫苑お兄さん……!」


 直に回復するだろうが、今は一刻も早く戻らねばならない。

 よろめきながらも逆鬼家を目指す道中でアリスは思考を巡らせる。

 逆鬼雲母――――あれは異常なまでに強い。

 アリス・ミラーは見た目こそか弱い少女だが中身は別物だ。

 単純な身体能力一つ取っても常人のそれとは比較にならない。

 例え三トントラックが突っ込んで来ようともケロっとしているだろう。

 その彼女が僅か一発、それも攻撃とも呼べないような一撃で意識を飛ばされた。

 それは尋常ならざる事態だ。


「どう言う、ことなの……?」


 詳細な情報は知らない。

 だが電車でモジョはこう言っていた。

 "辛うじて生き残ったのは雲母だけ"――――と。

 どうやらダンジョンでパーティが彼女を残して全滅したらしいと言うことは分かる。

 だが、あれだけの力を持っていながら?

 どれだけ難易度の高いダンジョンならそうなるのだ?

 そう言うダンジョンも知らぬだけで存在しているのかもしれないし、

死因だって戦いで死んだとは限らない……だが、どうにもしっくり来ない。


「考えられるのは……」


 全滅して田舎に引っ込んだ後で鍛えて強くなった――のかもしれない。

 だが、それにしたって可能性が低いとアリスは睨んでいる。

 何せ初めて河原で会った時の様子を見るに鍛錬が出来るような真っ当な精神状態ではなかった。

 加えて、鍛錬どうこうであそこまで強くなれるとは思えない。

 明らかなる格上との戦いアリスにとっては初めての経験だった。


「だからって、負けるわけにはいかない……!」


 愛する人を奪われて黙っておけるものか。

 命を賭して取り返す、そんな最低限でもない、

呼吸をするのと同じくらいに当然のことが出来なくて何が愛か。

 アリスの裡から溢れ出る愛の狂気は降りしきる雨をも蒸発させかねないほどに滾っている。


「ッ……ミラーか……」


 逆鬼家に戻ると、同じくダメージが身体に残っているモジョと遭遇する。

 二人で紫苑が寝ていた部屋に向かうが……やはり、居ない。


「し、紫苑お兄さん……」


 泣いてしまいそうになるほどの不安が少女を襲う。

 それでもここで膝を折るわけにはいかない。

 取り戻さなければ――――愛しい人を。


「先生、あの女は何処へ……? 心当たりは!?」


 唯一の手がかりとなるのは以前から雲母を知っていたモジョのみ。


「ある……が、まずは回復だ。取り戻すのならば、万全の状態でなければいかん」


 胸を引き裂くような後悔に襲われているのはアリスだけではない。

 むざむざと親友に教え子を連れ去られたモジョだって同じなのだ。

 それでもここで悔やむ暇は無いと分かっているから、

こうやって必死で感情を押し殺してこれからのことを考えている。


「そう、ね……」

「ああ……」


 お互いに手酷くやられている。

 あんな攻撃とも言えないようなものでこの有様。

 ふざけているにもほどがあるだろう。


「ねえ先生、あの女……昔から、あんなに強かったの……?」

「いいや……そんなことはない。むしろ昔は私の方が強かった」


 記憶にある雲母の実力はあんな化け物染みたものではない。

 一流を名乗れるだけの力はあったが、それでも自分よりは弱かった。


「鍛えた、と思う?」

「違う――――あ れ は そ ん な 次 元 じ ゃ な い」


 モジョとアリスの考えは同じだった。

 モジョもまた、雲母のあの強さが鍛錬で得られるようなものではないと看破している。


「技術は磨ける、身体だって鍛えれば多少は強くなる。

だが……あれはそんなレベルじゃなかった。どう考えてもおかしい」


 二人がかりでも勝てるかどうかは分からない。

 だが、勝って教え子を取り戻さないといけないのだ。

 それが教師として、そしてこんなところへ連れて来てしまった桃鞍女威個人としての責任だ。


「じゃあ、何が原因だと思う?」

「さあな……少なくとも、私の経験上あんな風に強くなる相手など見たこともない」


 召喚した手甲を嵌めながら精神を研ぎ澄ましていく。

 一線を退いてからは使うこともなかった武器だ。

 こんな形で再び愛器を装備するなどモジョは予想もしていなかった。


「だが、敢えて言うのならば――――母の妄念か。

いや、にしても精神どうこうで辿り着けるレベルではないな」


 母の妄念――――それはアリスには理解し難いものだった。

 何せ彼女は愛されていなかったから。

 "あ の 怪 物 が 私 の 息 子 を殺 し た の よ ! !"

 実の母親にそう罵られたアリスにとって母と言う存在は酷く軽いものだ。

 否、重さなど皆無と言って良いかもしれない。

 だからこそ雲母の哀しみや、そこから生じた狂気を理解出来ない。


「……知ったことじゃないわ」


 結局のところそれだ。

 我も人、彼も人、同じ人ではあるけれどその心の裡を完全に把握出来るわけがない。

 知ったことではないと斬り捨てて我を通すのが一番だ。


「よし! 私はもう動けるが、お前はどうだ?」

「問題ないわ。先生の知る心当たりまで案内して頂戴」

「分かった」


 更に激しくなった雨の中を駆ける。

 踏み入った山の中はぬかるんでいて、酷く走り難いが文句を言っている暇は無い。


「何処に向かっているの?」

「……山奥にな、打ち捨てられた神社があるんだよ」


 モジョが八つか九つくらいの頃だ。

 冒険者としての肉体を持ったお転婆娘達は日がな一日あちこちを駆け回っていた。

 その時に偶然とある神社を見つけた。

 周囲の草の生え具合からかなりの時間放置されていたであろうことが察せるが、

どう言うわけか御堂の中はまったく朽ちておらず住もうと思えば住めるほどだ。

 ゆえに少女らはそこを秘密基地とした。

 親に怒られた時、テストで悪い点を取った時、

特別良いことがあった日、田舎を飛び出すまでモジョ達は足繁くそこに通っていた。

 都会に飛び出すことを決めたのも秘密基地でだ。

 それだけ思い入れが深い場所――――雲母はきっとそこに居る。


「……アイツも、もしかしたら……」


 雲母もかつて故郷を飛び出す前にそこを訪れたかもしれない。

 そこで未来の幸せを祈って――――そこまで考えたところでモジョは頭を振るった。

 余計なことを考えていたら鈍るだけだ。

 その鈍りが命取りになることを彼女は知っている。


「着いた、ここだ」

「……居るわね」


 山中深くにポツリと立っている神社。

 モジョの記憶と寸分違わぬこの場所に雲母達は居る。

 御堂の中に感じる気配は二つ――――語るまでもなく紫苑と雲母だ。


「出て来い雲母ァ!!!!」


 雨を弾けさせる大喝破が轟く。


「――――あの子が寝てるのよ。静かにしてちょうだいな」


 御堂の中から日本刀を片手にゆらりと現れたのは狂える鬼子母神、逆鬼雲母。

 殺意も敵意も何も発していないと言うのに、

そこに居るだけで相手を押し潰してしまいそうな存在感を放っている。

 アリスとモジョもこうして改めて対峙して分かった。

 あれは怪物だ、人の姿をした怪物だ。

 圧倒的な存在感と次元を隔てたような精神性、どれも人のものではない。

 人であって人にあらじ――――そう評するしかないだろう。


「……春風を返せ。アイツは、お前の子供じゃない!」


 そんなことを口にしてみるが無論言葉で何とかなるとは思っていない。

 仕掛ける機を窺っているのだ。


「女威ちゃん。どうして、私の紫苑ちゃんを奪おうとするの?

ようやく巡り合えたのよ? 私を赦して私に会いに来てくれたのよ?

もう二度と離れないって誓ったのに……どうして邪魔をするの?

もう放って置いて。私達をそっとしておいて。大それた望みなんてない。

ただ親子揃って静かに暮らしたいだけなのに……」


 悲しげに目を伏せる雲母――今が機だ。

 地を蹴ったモジョが射程距離まで一気に詰め寄る。

 放たれるは拳の弾幕。

 アリスの動体視力ですら影しか掴めない乱打を回避する術は無い。


「はぁああああああああああああああああああああ!!!!」


 正拳、手刀、裏拳、掌底、鉄槌、弧拳、平拳、一本拳、鶏口、貫手、熊手、虎口。

 一発一発が必殺の威力を備えたそれを容赦なく全身の急所に打ち込み続ける。


「――――どうして、私に意地悪をするの?」


 打撃音の中に紛れてそんな問いが耳を擽る。


「ようやく気付いたのさ! お前は……もうどうしようもない!

ここで終わらせねば悲しみが広がるだけだ! お前をここで殺す、それが私の友情だ!!」


 喋れると言うことは攻撃が効いていないことの証明。

 だがそんなものはとうの昔に分かっていた。

 一発たりとも何かを破壊した感触が無かったのだから。


「ゆっこちゃん達を殺してしまったことを怨んでるのね……。

確かに私は酷いことをした。でもね、ごめんなさい。

今の私は友達よりも何よりも――――この世界よりも大事な子供が居るの」

「ッ!」


 頭上を刃が通り過ぎる。

 咄嗟に前に倒れなければ今ので終わっていただろう。


「ハンプティィィィイイイイイイイイイイ……!」


 片手で刃を横薙ぎに振りぬいたまま固まっている雲母の瞳にアリスが映る。

 モジョの背に重なるようにして今の今まで存在を消していたのだ。

 気配をまともに感じることも出来ない今の雲母からすれば突然現れたようにしか見えないだろう。


「あら……」

「ダンプティィィイイイイイイイイイイ……!」


 滞空状態から繰り出された小さな拳はそのまま雲母の口に飲み込まれる。


「弾 け ろ ! !」


 即座に口から手を引き抜くと雲母の口内で大爆発が起こる。

 自走式卵型爆弾――ハンプティ・ダンプティを直接口の中に叩き込んで爆発させたのだ。


「ママだか何だか知らないけどね、こっちは実のママにすら見捨てられてるのよ!」


 口内爆破によってよろめいた雲母、追撃のチャンスだ。

 アリスは着地するとめいっぱい足に力を溜めて再び飛び上がった。

 雲母の背後ではモジョも追撃の準備をしている。

 そして、


「でも、紫苑お兄さんはそんな私を愛してくれたのッッ!!」


 雲母の前後からその細首に回し蹴りが叩き込まれた。

 女二人の渾身の蹴りを使った変則クロス・ボンバーは、

通常であれば確実に相手の首を圧し折る――――どころか軽く刎ね飛ばしていただろう。

 だが、敵対しているのは生憎と普通の相手ではない。

 狂える鬼子母神は絶命必至の一撃にすら耐えてのけた、どころかまるで効いていない。


「――――もう良い」


 力任せに両腕を振るっただけでアリスとモジョが吹き飛ばされる。

 それでも来ると分かっていたから最初のように意識を失うことはなかったが……。


「づぅ……! 渡さない、渡さないわ……! 私の、私の紫苑お兄さん……!!」

「くぅ……! 雲母ァ!!」


 それでもダメージが皆無と言うわけではないのだ。

 完全戦闘状態だからこそ一度は耐えられたがそう何度も耐えられそうにはない。


「――――もう良い」


 再び繰り返す、そのもう良いは――――決別の言葉だった。


「私の子供を奪う人間は誰であろうとも赦さないわ」


 その瞬間、モジョの感情が爆ぜた。


「この馬鹿娘がぁああああああああああああああああああああああああ!!!」


 ここで逆鬼雲母と言う存在の幕を降ろしてやらねばならない。

 使命感を抱いて突撃したモジョは今までよりも更に速く重い攻撃を繰り出し始めた。

 勢い良く旋回しながらの乱打。

 回避されないと分かっているからこそ遠心力をフルに利用した攻撃が放てるのだ。

 加えてモジョは脳内のリミッターを意図的に排除することにより身体能力を向上させている。

 もう二度と戻さぬと言う決死の覚悟、自壊をも恐れぬ不退転の前進。


「うぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 小さくではあるが、徐々に徐々に雲母の肉体にダメージを刻んでいく。

 嵐のような猛攻は連携相手であるアリスですら割って入れないほどだ。

 だが――――終わりと言うのは必ずやって来る。


「あ」


 ぴたりと動きが止まる、そう……魔法が解けたのだ。

 モジョの身体は限界を迎えて糸の切れた人形のように崩れ落ちてしまう。


「さよなら……女威ちゃん」


 反撃しなかったのは友達だったからではない。

 母でもないモジョ如きにやられはしないと確信していたからだ。

 母は無敵でなければならない。

 我が子に降りかかる総ての禍を跳ね除けるためには強くあらねばならないのだ。

 決して誰にも我が子を傷付けさせはしない、それが出来なくて何が母親か。

 母親と言うのは母親になった時点でこれまでの自分を捨てねばいけない。

 己のために何かを欲すなど言語道断。

 総てを我が子に捧げるからこそ母親なのだ。

 それが出来ない母親は弱い。

 だからこそかつて愛しいあの子を他所へ行かせてしまった……。


「けど、もう大丈夫よ紫苑ちゃん。お母さん、全部捨てたから。

もう前みたいに情け無い姿は見せないし、紫苑ちゃんを傷つけもしないからね?

だから安心して。目が覚める頃には悪い人たちはぜーんぶいなくなってるから。

お母さんが全部やっつけるから……お母さんは強いのよ? だって紫苑ちゃんが居るんだもの」


 倒れ伏したかつての友には目もくれずに狂気の愛を謳う雲母。

 鬼母の宴はまだまだ終わらない……。


「ふ、ふざけ……!」

「あら――――震えているの?」

「え」


 そこでアリスはようやく気付く、自分の身体が震えていることに。

 この震えの理由は雨に打たれた寒さでも傷付けられた痛さでもない。

 これは、恐怖だ。逆鬼雲母と言う女に怯えていると言う他ならぬ証拠だ。

 答えに辿り着いた途端アリスの頭は真っ白になった。


「寒いのかしら? だったら帰った方が良いわよ? 風邪は怖いものねえ」


 が、こちらを気遣うような雲母の態度に一瞬にして恐怖が吹き飛ぶ。

 怯える、恐怖を抱くと言うことは紫苑を見捨てて逃げるのと同義だ。

 不退転であらねばならないはずなのに。

 どんな強く恐ろしい敵であろうとも一歩も退いてはいけないのに。

 だって、そうじゃなきゃ届かない。

 大好きな人の手をもう一度握りたいのならば恐怖など抱いてはいけないのだ。

 考えることは一つで良い――――紫苑を取り返す。

 それだけ、それだけを考えなければいけないのに。

 アリスは今、人生最大の後悔を味わっていた。

 彼女にとって恐怖を抱いたことは紫苑への裏切りに等しいのだ。

 何せ永久不変の愛が揺らいだも同然なのだから。


「……駄目、こんなんじゃ駄目よ」


 自分の情け無さに怒りが収まらない。

 恐怖でブレるような愛ならば死を前にして消し飛ぶかもしれない。

 その程度ならば快楽の泥に沈められれば溶けてしまうかもしれない。

 その程度ならば記憶を消されでもしたら思い出せないかもしれない。

 その程度ならば心を無くしてしまえば取り戻せないかもしれない。

 そ ん な も の は 愛 で は な い !


「嗚呼、なんて……なんて……愚かで醜いの……殺さなきゃ」


 今までの自分を、そして生まれ変わろう。

 目の前の女を殺して紫苑を取り返すために――アリスの瞳に光が宿る。


「――――紫苑お兄さん、愛してるわ」


 愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛。

 愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛。

 愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛。

 愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛。

 愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛。

 愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛。

 愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛。

 愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛、愛で己の総てを塗り替える。

 必要なのは愛だけ、愛を胸に戦おう、不可能なことなんて何一つ無い。


「……悪い虫だわ。紫苑ちゃんを刺す前に駆除しなきゃ」

「駆除されるのはそっちよ馬鹿女」


 狂気の愛に対抗出来るのは狂気の愛だけ。

 母性愛なんて知らない、それでも一人の男性として紫苑を愛している。

 そのことだけは誰にも負けない。

 雲母と同じく現実から外れてしまうほどの想念が少女を鬼子母神と同じステージへと押し上げた。


「ここはアリス不思議の国(ワンダーランド)、お前なんか御呼びじゃなくってよ」


 言うや否や山中の木々が生き物のようにうねり始める。

 魔法でも何でもない、洗脳や人形造りと同じまったく別種の力。

 だが、アリスはついさっきまでこんな力を持っていなかった。

 けれども今はある、そしてそのことに何の疑問も抱いていない。

 だってそんなことを考えられる頭は愛で塗り潰されてしまったから。


「悪い大人は首を切られて死んでしまえ」


 瞬間、号令を待っていた木々達が刃のように姿を変えて敵に襲い掛かる。

 だが、雲母も黙ってやられるつもりはない。

 手にした日本刀で無数の木々の刃を弾いている。

 本当は斬ろうと思ったのだが、どう言うわけだか斬れずに弾くことしか出来ない。

 それどころかあれだけやってもロクにダメージを与えられなかった雲母にダメージを与えているではないか。


「アハハハハハハ! 形勢逆転ね? でも手は緩めないわ!」

「ッッ……!」

「三月ウサギ、帽子屋、眠りネズミ! お茶会を始めましょう!!」


 雲母の足元の泥が形を成したのは狂ったお茶会の面々だ。

 彼らはフォークとナイフを手に容赦なく雲母を攻め立てる。


「そうよ! お茶菓子はその薄汚い誘拐犯! ぺロっと丸呑みにしましょう♪」


 一片たりとも慈悲が見えない猛攻を防いでいた雲母だが、どう言うわけか防御を止めてしまう。

 フォークが眼球に刺さろうとも、ナイフが肉を削ごうとも、動かない。

 最初のように自分にダメージを与えられないと分かっているから防御を止めたのではない。

 普通にダメージは蓄積されているし、それが分からないわけではない。

 これは理屈で考えても辿り着けない問題だ。

 逆鬼雲母の壊れた母性が導き出した選択の結果なのだから。


「……ううん、大丈夫よ。お母さん、これぐらいへっちゃら。

紫苑ちゃんにはこれまでもっと辛い思いをさせたものね?

お母さんだってその万分の一で良いから痛い思いしなきゃダメだわ。

でもダメ、全然痛くない。ごめんなさい、ダメなお母さんでごめんなさいね。

あなたの痛みを分かってあげられない……嗚呼、紫苑ちゃん……紫苑ちゃん……」


 血で血を洗う戦いの最中、けれどもその声は穏やかだ。


「こんな子供に私の可愛い紫苑ちゃんを渡せるものかぁあああああああああああああ!!」


 今度は堰を切ったように怒りを露にして捨て身の猛攻を開始する。

 ……狂っている、この戦場は狂っている。


「紫苑お兄さん、待っててね? すぐにこの女を殺してあげるから!

そしたらアリスの頭を撫でてね? 頬にキスをしてね! それからいっぱいっぱい抱き締めて!

好きよ? 大好きよ! だから絶対アリスが護ってあげるからね!!」


 互いが互いを見ていないのに殺し合っている。

 重ねて言おう、狂っている、この戦場は狂っている。

 これはこの世のことならず、何処か遠い世界の戦いだ。

 現実を見ていない二人が協奏し創り出した幻想の世界。

 鬼母が狂騒し、木々が刃となり、泥が命を持ち、降りしきる雨がその身を貫く針となる。

 そんな狂乱の領域に踏み入れる人間なんて何処にもいやしない。

 そう、


「――――そこまでだ!!」


 春 風 紫 苑 を 除 い て。


「紫苑ちゃん……?」

「紫苑お兄さん……?」


 アリスが覚醒を果たした辺りで目を覚ました紫苑。

 最初は傍観するつもりだったが現状はそれを赦してくれない。


『おい、出る必要あったのか?』

「(よく見ろカッス。あのクソガキ、一見張り合っているように見えるが……)」

『あ』


 見ればアリスの目、鼻、口からは大量の血が流れ出している。

 それは雲母によって刻まれたものではない。


「(……人間の常識をブッチしたコイツらのパワーアップについてはよく分からん。

でもな、身体に甚大な負荷がかかってるんだよ……多分な)」


 アリスは特にそれが顕著だった。

 だからこのまま傍観していても彼女が雲母を殺せる可能性は低い。

 そうなれば……。


「(ガチで打つ手無しだ。俺はあの狂った女から逃げられない……)」


 雲母に囚われてしまえば築き上げたものが総て無に還り、望む生活を遅れない。

 それどころかいずれやって来る破綻を今日か明日かと待ち続ける地獄の日々が待っている。

 冒険者は辞められるかもしれないが同時に失うものも多過ぎる、そんなのはごめんだ。


『だから動いて何とかするつもりか? でもよ、何とかする方法無いんじゃなかったか?』

「(言っただろ? 他人ならば――――ってな)」


 今の紫苑は雲母の息子、つまりは身内だ。

 それも彼女が世界よりも強く大事にしている愛しい愛しい息子。


「(こう言う状態なら打つ手も出て来る。まあ……心底やりたくなかったがな!)」


 それでもその決断が出来たのは御堂の中にアムリタがあったからだ。

 恐らくは家を離れる時に雲母が一緒に持って来たのだろう。

 それがあるならば多少の無茶は出来る――――心底嫌だが。


「大丈夫よ紫苑ちゃん。すぐにこの子を片付けるからね?

雨に濡れて風邪をひくといけないわ、中でお母さんを待っていて」

「紫苑お兄さん! すぐにこの気狂いをぶっ殺すわ! だから沢山褒めてね?」


 やはり二人は互いを見ていない、その視線も想いも総て愛しい彼だけに注がれている。

 今すぐにでも胃の中身を出してしまいたい衝動に駆られる。

 それでもここでゲロるわけにはいかない、まだやることがあるのだ。

 紫苑は意を決して槍を召喚し、深く息を吸い込んで――――自分の腹に突き刺した。


「(いてぇええええええええええええええええええええ!!)ッッ~~!!」


 込みあがって来るものを総て飲み込んで強く意識を保つ。

 ここで途切れてしまっては意味が無いのだ。


「し、紫苑ちゃん!!!!!」

「紫苑お兄さん!!!!」

「――――来るな! 俺の話を聞け!!」


 槍を突き刺したまま紫苑は叫ぶ。

 正直身体に響いて痛いとかそう言うレベルではないのだが我慢だ。

 ここで雲母をどうにかせねば狂母の地獄へ一直線なのだから。


「俺を息子と呼ぶのならばその声に耳を傾けろ! 母親を名乗るならばな!!」

「ッッ……!」


 その気迫に雲母が僅かにたじろいだ。

 それを好機と見た紫苑は保身回路をフル回転させて言葉を紡ぎ始める。


「見ろ、俺の腹からは赤い血が流れている。

生きているからだ、そして――――死ぬからだ。だから赤い血が流れる。

俺も、お前も、アリスも、桃鞍先生も、永遠になんてなれない、死んだらそこまでの生き物だ!」


 死の先が無いとは断言出来ない、だが死んだらそこで終わりだ。

 生者は死者は決して交わることはない。


「お前が俺を自分の子の代替とするのも良いだろう(ホントは良くねえけどな!)

だが、俺は死ぬぞ。病か、事故か、他殺か、寿命か、ちゃんと死ぬぞ(って言うかお前が死ね!)

死の危機に陥る度にアムリタを飲ませるか?(お前みたいな奴には豚に真珠だクソが!)

だがそれだって限りあるものだ。どうする? また汲んで来るのか?

同じ場所に行ってまた手に入れられる保障はあるのか?」

「大丈夫よ。私はお母さんで、紫苑ちゃんをずっと護――――」

「れるわけねえだろうが! 目を逸らすな! 終わりは必ずやって来るんだ!!」


 そもそもからして雲母は限りある命を持つ人間だ。

 永遠に紫苑と寄り添えないし、紫苑だって限りある命である以上は必ず死ぬ。


「お前が先に逝くか、俺が先に逝くかは分からない……だがな、俺が先に逝けばどうする?

また何処からか子供を攫って来て繰り返すのか!? 何度も何度も愚行を重ねるのかァ!!

それともまた石を積むか!? そうやって子供の魂を永劫縛り付ける気か!?」


 腹から槍を引き抜くと鮮血が噴き出す。

 残された時間はそう多くはない、ここから畳み掛けねばならない。

 そしてアムリタを飲んで命を繋ぐことが絶対の勝利条件だ。


「……これが俺の生きている証拠であり死に向かっている証だ」


 よろよろと雲母に近付き、腹から掬い取った血を彼女の頬に擦り付ける。

 ガタガタと震え始めた雲母の肩を強く掴む、決して離すまいと強く強く。


「俺は男で、母親じゃない、だからこそお前の辛さは分からない(分かる気もねえがな)

でもな、一つだけ分かることがある。母が子を想うように子もまた母を想っているんだよ。

逆鬼雲母、お前の子はこの世に産まれることもなくこの世を去ってしまった。

今もあの世で石を積んでいるのかもしれない、でもな……もう、解放してやれ」


 立ち尽くす雲母の身体に凭れ掛かるように抱き締める。

 既に視界は霞み始めていた。それでも、まだ終われない。

 ここで死ぬ気は更々無い。

 雲母を正気に戻してアムリタを飲んで命を繋がねばならないのだ。


「"親の嘆きは汝らの苦患を受くる種となる"――――その嘆きで何時まで我が子を苦しめる?」

「――――あ、あぁ……!」


 逆鬼雲母の狂気に亀裂が刻まれる。

 これが関係無い第三者のままならばどうにもならなかったかもしれない。

 だが、息子として認識されている今だからこそ言葉を届かせることが出来るのだ。


「自分の母親が心配で、お前の子は地蔵様に着いて行くことも出来やしない」


 今、雲母の中では酷い混乱が巻き起こっている。

 目の前に居る我が子、既に居なくなってしまった我が子、

重なりながらも剥離していくそれを前にしてどうすれば良いか分からないのだ。


「わ、私は……」


 "お母さん"ではなくて"私"に戻っている。

 終わりは近い。紫苑は〆に入るべくよりいっそう気合を入れる。


「俺に子供になって欲しいなら、なってやる。俺も、随分と昔に母さんを亡くしているからな。

そうしなきゃ生きるのも辛いってんなら付き合うさ。お前を母と呼ぼうじゃないか。

でもな、あくまで俺は俺だ。産まれるはずだった我が子じゃないんだ。

もう居ないんだ。お前が腹を痛めて産もうとした子はもう、居ないんだ。

遠くに逝ってしまったんだ……もう、その子を行かせてやれ。そして――――」


 強く、強く抱き締める。


「いい加減に自分を赦してやれよ――――"お母さん"」


 その瞬間、総ての狂気が弾け飛んだ。


「……私は、赦されるのかしら?」


 子を喪った日から絶えず苛み続けていた罪の棘。

 どんな痛みでも足らないと叫び続けた日々だった。

 だと言うのに今はそれが――――こんなにも痛い。

 雲母は今、ようやく一つの終わりを迎えようとしているのだ。


「さぁな……でも、赦さなきゃいけないよ……だって、生きているんだから……。

産まれるはずだった子供が生きられなかった今日を、生きているんだから進まなきゃいけない……」


 全身の気力体力を振り絞って、言葉を続ける。


「涙で出来た湖に、痛みの花を捧げる憂いの旅はもう終わりだ。

今度こそ本当に始めよう、涙を拭って新たな旅の一歩を踏み出せ――――生きるために」


 それを最後に紫苑は黙り込んでしまった。

 混濁する意識、自分が何をやっているからすら分からない。


「紫苑ちゃん……?」


 頭の中はごちゃごちゃで感情の整理なんて仕切れていない。

 でも今、この子を死なせてしまうことだけは駄目だ。


「死なせない、今度こそ……!」


 紫苑を抱いたまま御堂に飛び込んだ雲母は即座にアムリタを口に含む。


「――――生きて!!」


 万感の祈りを以って重ねられた唇。

 我が子を死なせてしまった。それはもうどうしようもない。

 でも、今目の前に居る誰よりも優しい子供を救うことは出来る。

 御願い、助かって! 生きて! 雲母の願いは――――今度こそ届いた。


「う、ぐぁ……!」


 急速回復が齎した痛みが紫苑を強制覚醒させる。

 目を開けば超至近距離には雲母が居て、安堵の表情を浮かべていた。


「……った……かった……良かったぁ……。

わた、わたし……今度こそ、死なせずに済んだ……! あり、がとう……助かってくれてありが、とう……!」


 言葉をつっかえさせながら何度も何度も礼を述べる雲母に紫苑は優しく微笑み返す。


「ああ、俺は生きている。あなたのおかげで生きている――――助けてくれてありがとうございます」


 これでミッションコンプリート、渾身の保身策は完全成功だ。


「雲母さん、アムリタを貸してくれますか? 先生にも、飲ませなきゃ……」

「あ……え、ええ!」


 雲母に支えられながら外に出た紫苑は気絶しているモジョの口にアムリタを含ませる。

 すると、みるみるうちにダメージが癒えて穏やかな寝息を立て始めた。


「し、紫苑お兄さん! だ、大丈夫!?」

「……ああ、迷惑をかけたな。アリス、先生を御堂の中に運んでやってくれ」

「分かった!」


 降りしきる雨の中、紫苑と雲母は立ち尽くす。


「紫苑ちゃん……私は、ずっと私の子供を苦しめ続けていたのね……」

「……悲しむのは悪いことじゃない。だが、強過ぎる想いは時に呪にだってなる」

「……これが、これが最後だから」

「――――分かりました」


 紫苑の胸に顔を押し付け小さな嗚咽を漏らし始めた雲母。


「う、うぅぅ……ぁ、あぁあああああああああああああああああ!!」


 始まりの喪失から十数年、雲母は初めて心の底から涙を流した。

 わんわんと童女のように、恥も外聞もなく、ただ悲しみにのみ身を任せて泣き続けた。

 だがそれは我が子を縛る悲しみの涙ではない。

 我が子を解き放つための――――決別の涙だ。


「(アフターケアもバッチリ……流石俺! でもコイツは死ねば良いと思うよ。

この俺に俺を傷付けさせるなんて真似をさせた御馬鹿さんはコイツが初めてだ……ん? いや、あのクソガキも居たか。

どっちにしろ絶対赦さんぞ! じわじわと嬲り殺してや――――れる力があれば良いのになぁ!!)」


 そして、涙に濡れた夜が明ける……。

 分厚い黒雲が裂けて優しい朝日が雲母を包み込む。


「……あの子が生きられなかった今日を、私は迎えているのね」


 そっと紫苑から離れて空を仰ぐ雲母。


「もう何年も無為に生きて来た。でもこれからは……」


 鬼母の宴は終わり、新たな朝がやって来た。

 今日を告げる朝、明日へと繋がる希望の朝だ。


「しっかり生きよう――――命の続く限り、精一杯生きよう」


 前に進もう、途上には辛く悲しい現実があるかもしれない。

 それでも、この胸の鼓動が続く限り――――生きよう。


「それが、遺された私の権利であり義務……私、間違えていないわよね?」


 朝日を背負って微笑む雲母に鬼母の面影は見えない。

 彼女は鬼から人に戻ったのだ。


「ええ(知 っ た こ っ ち ゃ ね え。と言うか俺的にはむしろ死ねと言いたい)」


 朝焼けよ――――ど う か コ イ ツ を 焼 き 尽 く し て く れ。

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