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ハルジオン~口だけ野郎一代記~  作者: 曖昧
嘘を重ね続けた末路を知る第二部

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163/204

三月の悪夢

 三月三十一日、二十三時二十分――虐殺が終わりを迎える。

 半日にも及ぶ戦いの果てに、広大な中国大陸は比喩でも何でもなしに血と屍で埋め尽くされた。

 無辜の民、暴虐に抗い人々を護るために戦った冒険者達、

そして彼らが戦った神魔や英雄と英雄が率いる軍勢の屍と血で染め上げられた地獄。


 日付が変わり、三月最後の今日を迎えた時、誰がこんなことを予想しただろうか。

 朝が来て、昼が来て、そうして普通の夜が来るはずだったのだ。

 白昼に幕を開けた悪夢。世界はまざまざと幻想の恐ろしさを刻み付けられた。

 生き残った冒険者達、一般人、皆が泣いている。絶望に、喪ったものの大きさに打ちひしがれている。


 今、この広い大地の上に居る者達は皆が皆、泥のような疲労と痛みに膝を折っていた。

 こんなはずじゃなかった、どうしてこんなことに。

 多くの人間がそう思っている。これは悪い夢なのだと思いたい、しかしこれは夢ではない、現実だ。

 悪夢が顕現したこの地には当然、春風紫苑とその仲間達も居た。


「…………言い訳のしようもないくらい、僕らの負けだ」


 骸の山に腰を下ろし、肩で息をする外道天魔。

 纏っている衣服はボロボロで下着が露出し、右の義肢が欠損している。

 顔面は疲労と力の酷使により蒼白に染まり、唇は真っ青だ。

 天魔は己が全力で戦い抜いたという自負があるし、実際に相対した敵は総て屠った。それでも、これは敗北だ。


 正直なところ、何人死のうがショックを受けることはない。

 本当に大切な一人が失われ無い限り、天魔の心が折れることは無いのだから。

 かと言って、悔しさが無いと言えば嘘になる。

 ここまで良いようにやられてしまえば普通に腹が立つ。


『まあ、始まりからして負けが決まっていた戦いだしねえ。君も言ってたじゃないか、上手く負けるための戦いだって』


 そも、始まりからして詰んでいたのだ。

 出来ることと言えば負けの規模を少しでも小さくすることくらい。

 分かっている、天魔にもそれは分かっている。だが、納得出来るかと言えばそれはまた別だ。


「分かっているさ……でも、もう少し、何か出来るかと思ったんだよ……」


 別に総てを救おうなんて気はさらさら無い。自分が聖人ではないことくらい自覚している。

 だが、問題は別にある。天魔にとって"趣味"の遊びを除く戦いの総ては紫苑のためだ。

 今回もそう。紫苑のために戦った。彼の心が少しでも傷付くことが無いようにと命を賭して多くの敵を屠ったのだ。

 だが、どれだけ殺そうとも救えなかった命の方が多い、眩暈がするほどに。


 この広い大陸の何処かで戦いの終わりを迎えたであろう愛する人を想う。

 きっと今、打ちひしがれているはずだ。

 紫苑を探して傍に行くための力すら今は無く、己の無力がどうしようもなく腹立だしい。

 抱き締めてあげたいのに足を動かすことすら出来ない現状。天魔は深く溜息を吐く。


「……まあ、紫苑くんの傍にも誰か居るだろうし、そっちに譲って……あ、げ……る……」


 限界を超越して動き続けていたが、戦いの糸が切れたことにより意識を失う。

 天魔が眠りに就いた頃、かつて大都市だった場所では醍醐姉妹が罅割れた大地に仰向けで転がり、空を仰いでいた。


「姉様、生きてます……?」

「ええ……まあ、見ての通りよ……というか、ついさっきまで同化してたじゃないの……」


 力なく笑う紗織、彼女も天魔と同じように隠し切れない疲労に包まれていた。


「ふふ、そうですね……はぁ……もう、指一本動かすことも出来ません……」


 精も根も尽き果てた。

 もしこれが勝利で終わっていたならば、あるいは納得が行く成果を残せていたなら疲労の感覚も違っただろう。

 総てを出し尽くして何かを掴んだのならばきっと心地良い疲労に包まれるはずだ。

 しかしそうはならず。あるのは泥のように重く、粘っこい疲労だけ。


「……今、襲われたら確実に死ねるわね」


 神魔はともかくとして、英雄辺りにも殺されそうだ。


「大丈夫ですよ。ほら、空にもうあれはありませんから」


 空を指差す栞。天空にはつい先ほどまで広大な大陸を覆い尽くす巨大な太極図が浮かんでいた。

 それこそが地獄を作り出した元凶であり、自分達がここまで戦えた恩恵でもあった。


「そうね……今はもう、現世の空気に満ちてるものね……」

「ええ。それにしても、サクヤ姫とイワ姫にも随分無理をさせちゃいましたね」


 胸にそっと手を当てて裡に宿る女神を感じ取る。

 姉妹をバックアップするために力を酷使した女神達は限界を超えて眠りに就いていた。


「起きたら改めて感謝を伝えなきゃいけないわ。

私達が此処まで戦えたのは……というより、生き残れたのは彼女達の助力あってこそだもの」


 紗織は静かに目を閉じる。


「姉様?」


 何処か剣呑な空気を醸し出している姉に小首を傾げる栞。


「……カニ」


 忌々しそうにその名を口にする。

 かつて友であった紗織だからこそ分かるのだ。今回の一件、その裏で糸を引いていたのは奴だと。


「……葛西二葉、ですか?」

「ええ……どうにも、あの女の匂いがするのよ……」


 神魔や英雄を駒として使えるほどに幻想内で影響力を強めていたのか。

 どうしてこうなる前に殺しておかなかったのか。

 近い将来――いや、もう目前にまで愛する人にまで迫っているのかもしれない。

 紗織は忸怩たる想いで憎き元友人の顔を思い浮かべる。


「紫苑さん、大丈夫でしょうか……?」


 カニのこともそうだが、それ以上にこの地獄を前にして彼は傷付いているはずだ。

 もう自分には無辜の人間が死んだところで痛む心は無くなってしまった。

 だけど、無明の闇の中でも尚輝きを放ち無謬の正しさを体現する彼は……。


「きっと、誰よりも心を痛めているでしょうね……」


 だが、きっと弱音は吐いていないはずだ。

 キュっと唇を噛んで耐えているはずだ。彼は悲し過ぎるほとに強い人だから。

 今すぐ傍に行きたい、なのに身体が動かない、今ほど己を恨めしく想ったことはない。

 本当に辛い時に傍に居てあげたいのに……。


 醍醐姉妹が己を責めている頃、アリスは黙々と死体を弄っていた。

 彼女にも当然、紫苑を想う気持ちはある。

 あるからこそ、先を、次を見据えて既に動いて居るのだ。

 幸いにして死体は腐るほどある。その中でも性能の良さそうなものだけを見繕って人形にすれば……。


「あれ……? アリス、ちゃん……?」


 大木に寄り掛かっている雲母の前にアリスが現れる。


「こんばんは雲母お姉さん。ねえ、強い敵の死体は何処にあるか分かるかしら?」


 一番、自分が戦っていた場所に近かったのは雲母だ。

 自分と同じく強敵と当たるために先行した彼女の下になら強い死体があるはず。

 そんな思惑を以ってアリスは此処にやって来たのだ、道中で死体を人形に変えながら。


「ごめんなさい……無我夢中で斬ってたから……」

「そう。でも、分かり易そうなのも幾つかあるし別に良いわ」


 言って、近くに転がっていた翼を持つ巨大な黒虎の骸に手を突っ込む。

 ぐちゅぐちゅと中身を弄くって、己に忠実な傀儡へと変化させる。

 魔の類で多少のスペックダウンは否めないが、それでも十分役に立つはずだ。

 黙々と作業を進めるアリスを見て、雲母は羨ましく想った。


「……アリスちゃんは、強いわねえ」


 同じ男を愛しているからこそ分かる。

 アリスも今、紫苑を想って胸を痛めていることに。

 そして胸を痛めながらも紫苑のために出来ることを必死でやっているのだ。


「強くないわよ。でも、好きな人のためなら強くならなきゃ駄目でしょ?」

「――――そう、ね」


 成るほど、それは正論だ。

 何処までも強くならねば愛した人を護れないのだから。

 今、心で涙を流している紫苑の下に行って抱き締めてあげたい。

 だが、


「私も手伝うわ。死体を運ぶことぐらいしか出来ないけれど」


 それに耐えて先を見据えて動こう。

 雲母は軋む肉体に鞭を打って立ち上がり、己が斬り殺した敵の中でもそれなりに強かった者の死体を探し始める。


「ん、ありがと」

「いえいえ。ところで、此処に来るまでにも人形は作ったんでしょ? その子達は?」

「他の所に死体探しに行かせてる。この国は広いもの。人手は幾らあっても足りないわ」

「あ、そっか……そうよね」


 場所を絞るにしてもアリスが戦っていた場所と今この場を除いても後三つは行くべき場所がある。

 もっとも、アレクが戦っていた場所では死体が残っているのか少々疑問だが。


「……ねえアリスちゃん、どれくらいの人が生き残れたのかしら?」

「さあ? 十数億のうち……どれぐらいが死んで、どれぐらいが生き残ったのか……」


 正確な数を把握することは出来ない。

 戦っている最中にそんな余裕は無かったし、終わった今でもすぐには把握出来ないだろう。


「紫苑お兄さんは、多分、今、すごく辛い想いをしてるけど……それでも、お兄さんは強い」


 取り乱すことなく、静かに痛みに耐えているだろう。

 問題は彼の傍に居るであろう人間だ。

 まずルドルフ・フォン・ジンネマン、ショックは受けているだろうがそれでも心が折れることはないだろう。

 アイリーン・ハーン、自身と同じく絶対の一人を至上としているから敗戦の悔しさぐらいしか無いとアリスは見ている。


 ルーク・ミラー、彼が動じることも無い。そういう人形だから。

 問題は――――麻衣、桝谷麻衣だ。彼女は紫苑の仲間達の中で異端と言えるほどに普通が過ぎる。

 紫苑も真っ当な性格ではあるが、その心の強さは常軌を逸している。

 しかし麻衣は違う。心の強さは強くても普通の域を出ることはない――アリスの懸念は当たっていた。


「――――」


 破壊された都市を埋め尽くす死体、あちこちに飛び散った真っ赤な血。

 それらを呆然と眺める麻衣の瞳は完全に死んでいた。

 戦いが続いているうちは目の前で死にそうな誰かを助けることに必死だった。

 しかし、終わってしまったことで嫌が応にも現実が襲って来る。


 誰一人として助けられなかったわけではない。

 魔力を使い果たして酷い頭痛と眩暈、空腹を覚えるまでに麻衣は奮闘した。

 それでも、救えた数は目の前の地獄に比べればどれほどだ?

 十分の一? 百分の一? それとも、もっと下?


 力の限りに誰かを助けても、それ以上に救えなかった者が多いのだ。

 そんな救えなかった者らを見て自分が何かを出来たなんて言えはしない。

 麻衣の瞳から真っ赤な真っ赤な血涙が零れ出す。

 もう駄目だ、耐えられない。麻衣の心は完全に砕け散った。


「う、ぅあう……あああああああぁぁああああああああああああああああ!!!!」


 慟哭が響き渡る。無理だ、もう無理だ。

 麻衣とてこれまで人の死にまったく触れて来なかったわけではない。

 だが、これほどまでに多くの命が喪われる場に直面したのは初めてだった。

 膝を折り、赦しを乞うように泣き続ける麻衣。何度も何度も地面を叩く拳は血塗れになっていた。


「死んだ人らが何したって言うんや!? ただ、生きとっただけやないか!

何でこないなことになるねん!? 神様だか何だか知らへんけどそないな権利あるんか!!

あんたらを大昔にどないかしたのはうちらやない、別の人間や!

何で大昔の人間のツケをうちらが払わなあかんねん! 何でや! 何でや!!」


 死んだ、沢山死んだ。男も女も老いも若きも沢山死んだ。

 あまりに理不尽だろう。生きることを否定されるほどの悪徳を犯した人間がどれだけ居た?

 当たり前に苦しい現実を必死になって生きていた人間の方が多いだろう。

 そんな人達をどうして無慈悲に蹂躙出来るんだ。麻衣の慟哭は虚しく響き渡った。


「……」


 アイリーンは友の叫びを少し離れた場所から見守ることしか出来なかった。

 彼女は自分が人として落第であることを自覚している。

 絶対唯一を定めて生きている己に、それ以外の者の死に心から憤ることも出来ない。

 そんな自分がどうして慰めの言葉をかけられようか――まあ、口下手なのでどの道同じだろうが。


「麻衣……」


 ルドルフもどんな言葉をかければ良いか分からなかった。

 同じようにこの理不尽に怒ってはいるが、それでも彼は戦う者。

 心の何処かでこれも戦いの結果だと納得してしまっている。

 で、僕らのヒーロー春風紫苑だが……。


「(負けた負けた負けた負けた負けたぁああああああああああああああああああああああ!

うわああああああああぁあああああああ! これ絶対俺の経歴の汚点になるよぉおおおおおおお!!)」


 何億人死のうとも心は揺れず、徹頭徹尾自分のことだけしか考えていなかった。

 血涙を流し顔面蒼白で表面上は凄まじいショックを受けている演技をしているわけだが、内心はこんなもんだ。


「(だってさぁ……これ絶対俺をバッシングする奴出て来るよ!?

なまじっかこれまで上手くいってたから余計に! うわぁあああああああああ!!

想像するだけでゲロ吐きそう! クソ、最悪だ……かと言ってここに来なかったらそれはそれでバッシングの嵐だし!)」

『いやいや、最初から詰んでたんだしよぉ、しょうがねえだろ』

「(馬鹿野郎! 人間の薄汚さを舐めるな!)」


 それは紫苑を見ればよーく分かる。いや、たまに人間かどうかすら怪しいが。


「(無責任な立場に居て、当事者じゃなかったら好き勝手抜かすんだよ!

日本では総て上手く行っていたのに他国のことになると……手を抜いてたんじゃないかとかな!)」


 紫苑の言葉は人間というものを実に端的に表していた。

 無責任な第三者である限り、人は何処までも身勝手になれるのだ。


「(だから俺が表立って動く時は全部、完璧にこなさなきゃいけないのに……。

クソ! こんなんどうやって完璧に片付ければ良かったんだよ!?

何だよこれ無理ゲーじゃねえか! 難易度調整おかしいだろしっかりデバッグしろや制作スタッフ!!)」


 かつてないほどに混乱している紫苑。

 何億人死んだか分からないが、それ自体はどうでも良い。

 大事なのはこれからの自分。どうやってこの失態を挽回するのか。

 いやそもそも挽回する機会はあるのか、紫苑はそれしか考えていない。


『……確かに、今回のはあまりにも予想外だった』


 カス蛇を以ってしてもこのような手段を取って来るとは予想していなかった。

 確かに多くを殺せるけれども、幻想側にとっても喪う者は大きいし、人を苦しめるという意味では下策だ。

 一気に首を絞めて殺すよりも真綿でじわじわと首を絞める方が絶望は大きいはずなのに。


「(チッ……アムリタも屑共を助けるために使い果たしちまったしもう最悪だ……。

つーか今回使った回復道具だけでもどれだけの損害か……踏んだり蹴ったりとはこのことだな)」


 落ち込みながらもやるべきことは忘れない。

 覚束ない足取りで麻衣に近寄り、その傍に膝を突く。


「しおん……くん……」


 縋るように顔を上げる麻衣。

 紫苑は顔を悲痛に歪ませながら無言で彼女を抱き締めた。

 ここは言葉を使わない場面だと分かっているのだ。


「う……ぐぅ……うう!」


 抱き合い、涙を流す二人だが紫苑は欠片も麻衣のことなんて考えていなかった。


「(……待てよ。ちょっと待て。今回の戦い、アレクのクソも参戦してるわけだよな……?)」

『そりゃそうだろ』


 むしろ出張って来ない方がおかしい。


「(馬鹿みたいな数と質を兼ね備えた敵……消耗は、避けられなくて……!!)」


 紫苑がその答えに至った瞬間、その脳内にとある映像が流れ込んで来る。

 荒涼とした大地に佇むアレクサンダー・クセキナスと葛西二葉の姿だ。

 紫苑は自身の想像が正しかったことを察し、更に顔を青褪めさせる。

 今この映像は総ての人類に向けて流されている、そう、元旦の時のように。


「やあやあ、ご機嫌麗しゅう最強殿。気分はどうだい? やり切った達成感はあるか?」


 ケラケラと笑うカニはご機嫌そのもので心底愉しそうだ。

 そして一方のアレクは凍らせた万匹の苦虫で作ったスムージーを一気飲みしたように苦い顔をしている。

 ことここに至って分からないほど愚かではない。

 今回の戦いは総て己を弱らせるためだけにあったのだと痛感する。


「……今ほど、今ほど後悔したことはない」


 空に浮かんでいた太極図が消えたのは時間切れというわけではない。

 自身を削るという役目を終え、更に言えば恩恵を与えないためだ。

 総てのピースが繋がっていく。まさかここまで、ここまでするとは思っていなかった。

 アレクは今、心底から悔いていた。どうしてあの時殺しておかなかったのかと。


「"私をここで殺さなかったこと、死ぬほど後悔させてやる"――有限実行だなぁオイ」


 何ヶ月か前に自身が口にしたことなぞるカニ。

 その顔に浮かぶ凶笑はこの上なく不吉で、誰もが嫌な予感を隠しきれなかった。


「にしても最強殿、あんた意外とメンタル弱いんだなぁ。そんな顔するなんて……」


 心底、驚いたと言わんばかりの表情だが、これは嘲りだ。


「た か だ か 十 数 億 死 ん だ だ け な の に」

「ッッッ~~~~!!!!」


 噛み締めた奥歯が砕け散る。

 昼頃から始まった十時間以上にも及ぶ激戦、喪われた膨大な人命。

 それらの要因がアレクサンダー・クセキナスを大いに消耗させていた。

 太極図があればまだマシだったが今は無い。


 結果として、今の彼が発揮出来るのは七割程度の力だ。

 その七割でも多くの者にとっては決して届かぬ領域なのだが、葛西二葉にとっては別である。

 三割も削れば十二分に勝機は見えて来る、勝てない相手ではなくなった。

 三割、一個人の全力から三割削るために喪われた命……敵味方合わせれば十億どころではない。


 勝つためならば何でもする、今回カニが打ち出した策は彼女の生き方そのものだった。

 大国が滅ぶほどの激戦、人神魔入り乱れる大戦ですら総てが前座。

 本命を討ち取るための布石でしかない。

 アレクを消耗させ、そして邪魔になるであろう神の力を宿した者らの介入を避けるために多くの命を磨り潰したのだ。


「今、確信した……命に代えても貴様を討たねばならんことをな」


 アレクは今ほど、自分の選択を後悔したことはなかった。

 どうして夏に出会った時、カニを見逃したのか。

 しかし彼の選択を責めるのは酷だろう。あの段に置いて葛西二葉は脅威ですらなかったのだから。


「"俺"の命に代えても貴様だけは今日、この場で殺す!!!!」


 瞬間、アレクから天を貫く火柱が上がる。

 不退転と決死を己に課し魂の奥底から力を振り絞るその様は命の炎を燃やし尽くしているようで……。


「上等だ! やってみろや最強殿ォ! あの屈辱、今日、この場で万倍返しにしてやるよぉおおおおおおお!!!!」


 互いの蹴りが交差した。インパクトの瞬間に生じた衝撃は地を砕き、天を割る。

 分厚い黒雲が吹き飛び顔を出した満月はおぞましいほど紅く、この上ないほど不吉を漂わせていた。


『アレク、奴の力……聖書の蛇の予想通りらしい』

「分かってる……俺に届く段階にまで強くなってやがる……!!」


 埋め難い実力差を埋められる程度の差にまで埋めてしまう。

 何ともふざけた力だ。努力も何も無しに、ただただ勝利への飢餓のみで出鱈目を体現するなど。

 だがアレクはまるで怯んじゃいない。最強に至るまでの己を信じているから。

 血反吐を吐きながら前に進み続けた自分の道を誇っているから、あんな屑には負けない。


「うぉおおおおおおらああああああああああああああああああああ!!!!」


 拮抗を押し切って蹴り飛ばす。

 カニは総身に響く衝撃と共に吹き飛ぶも、即座に体勢を整え一息で数キロ上空へと逃れる。


「真正面からぶつかるのは流石に厳しいなぁオイ」


 アレクは即座に左腕に力を集中させて天を焼く業火を放つ。

 だが、それが失敗だった。それが彼を更なる窮地に追い込むのだ。


「――――キヒヒ、甘く見過ぎだバァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアカ!!」


 カニはアレクが炎を放つのとまったく同時に両手を突き出した。


「な!?」


 その瞬間、総てがスローになった。

 巨大な業火を阻む壁が現れたのだ――――そ れ ら は 総 て 人 だ っ た。

 数万の人間、それも冒険者でも何でもない一般人だ。

 彼らは皆、何が起きたか分からないという顔で落下を始めていた。


「止めろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


 何が起きたかを理解するよりも早くに、阿鼻叫喚を上げるよりも先に人の壁は総てが焼き尽くされた。

 アレクの炎を一般人が受けたのならば灰すら残らない。

 壁にされた人間は何が起きたかも分からないままにその命を散らし、人生の幕を降ろした。


「ウケケケケケケケケケ……隙だらけだぜ大将!!」


 壁があったとはいえ、カニにも決して軽くはないダメージが刻まれる。

 だがそれで良いのだ。別に防御のために肉壁を使ったのではないから。

 肉壁はアレクの心を攻める矛であり、その役目は十二分に果たしてくれた。

 カニは焼け焦げた身体で地上に急降下し、アレクの身体を鋏で切り裂く。


「――――」


 袈裟懸けにバッサリ斬られたアレクだが、痛みなんて無かった。

 身体の痛みよりも心の痛みが彼を苛んでいたのだ。


「おいおい、何そんな動揺してんだよ。十数億に比べれば万単位なんて誤差みてえなもんだろ?」


 嘲笑と共に放たれた回し蹴りがアレクの顔面を吹き飛ばす。

 彼はようやく、動揺から完全にではないが、どうにか戦闘を行える程度に復帰し、カニを睨み付ける。


「き、貴様は……貴様は……そこまで、そこまでやるのかァ!!!!」


 今カニが取った戦法にショックを受けたのはアレクだけではない。

 たった一人を除いて、この戦闘を見せ付けられている人間が総てをショックを受けていた。

 平然としているのは当事者であるカニと自分至上を掲げている紫苑だけだ。


「勝つためなら何でもやるさ! やらずに負ける方が阿呆なんだよバァカ。

つーかさ、あんたちょっと勉強不足だなぁオイ。この戦法、何時だったか私が考案したものだぜ?」


 かつてギルドから出された選別を超えたパーティに向けての課題だ。

 紫苑とカニは共に召喚魔法というものに目をつけて相手の動揺を誘う戦法を編み出した。

 無機物だけでなく生物も召喚出来るように改良し、

尚且つマーキングをもっと簡易に――すれ違いザマにでも施せるようにする。


 その上でコッソリマーキングをしていた人間達を肉の盾として召喚。

 そしてそれは防ぐことが目的ではない。

 闘争の真っ最中に盾を召喚、強い敵であればあるほど動体視力にも優れている。

 目の前に現れた人間が一般人で、まるで状況を把握していないことにも当然気付く。


 気付いた上で攻撃を止めることは至難の業だし、止められても隙が生じる。

 止められずに盾を破壊したのならばそれこそ思惑通り。

 虚を突くような肉の盾、動揺しないと言い切れるだろうか?

 相手が真っ当な精神を持ち、善良であればあるほどに盾は効果を発揮する。


 カニが今やったことは正にそれだ。

 かつてギルドに提出した課題の中にこの戦法は載っていた。

 だから、使うことを予想出来たはずなのだと彼女は指摘するが、流石にそれは酷だ。

 このような外道を平気で犯せるような人間が居るわけがないとハナから思考の外に置いてしまうだろう普通は。


「ああ、もしかして私がやらんとでも思ってたのか? それこそ見通しが甘いんだよクソが。

卑怯非道、なんとそしられようと私は勝ちたいんだよ。

他人から見ればどれだけ不毛であろうとも勝ち続けたい!

賽の河原と笑わば笑え、私は心臓が止まる瞬間まで擦り切れた勝利を積み上げ続ける!

クヒヒヒヒ……ワキャキャキャキャ! 嗚呼、愉しい、ようやく少しは溜飲が下がって来たぜオイ!?」


 カニは今、絶好調だった。

 ずっとずっと息を潜めてセコセコと準備が整うのを待っていた、

勝つためと思えば苦ではないが、それでもやっぱりつまらなくはある。

 だが、もう我慢は必要無い。丹念に撒き続けた種がようやく実を結んだのだから。


「フフフ……幻想の連中もな、喜んで協力してくれたよ。

魔道に長けた神やら元人間は幾らでも居るからな。

人間を苦しめるためならって三日ぐらいで形を整えてくれた。

まあ、すれ違っただけで召喚のマーキングは刻めるし、よっぽどのことが無い限り気付かれることもない。

問題点としちゃあ、マーキングを刻む作業が地道ってことくらいか。

お前ら認識甘いんじゃねえの? どっかで浮かれてただろ。自分達は大丈夫かもって。

なわきゃねえだろ。春風紫苑が引き込んだ連中のが異端なんだよ。他はもう怨み骨髄だよマジで」


 これを聞いている者は嫌が応にも考えてしまうだろう。

 次の盾になるのは一体誰だ? もしかして自分かもしれない……と。


「さぁて……次は誰かにゃー? 人種性別年齢身分、総てランダムだ。

政治家の皆さん、立場に胡坐掻いて大丈夫とか思ってねえよなぁ?

マーキングをつけられた覚えは無いなんて思ってるかもしれねえが甘いよ。

気付かれるようならそもそもからして策として成り立たねえ。

次は誰だ? お前か? 君か? あなたか? そなたか? 一体誰だろうねぇえええええええええ!?」


 世界中で阿鼻叫喚の嵐が吹き荒れる。

 次の瞬間にも理不尽な死が訪れると分かっていて冷静で居られる者などそう多くはない。

 むしろ大多数の人間が恐怖し、冷静で居られなくなってしまう。

 希望に満ち始めていた世界はカニの手によりグチャグチャに掻き回されてしまっている。


「この腐れ外道がぁああああああああああああああああああああああ!!!!」


 もう炎は使えない、徒手空拳でカニに挑むアレクだが……。


「学習しろや」


 カニは召喚した赤子をアレクに向かって投げ付けた。

 回避すれば飛び続けて何かにぶつかってグチャりと潰れてしまう。

 とは言え見捨てなければ間違いなく己が痛撃を受けてしまう。

 取れる選択肢は一つしかないのに、


「お、俺はッッ!!」


 アレクは赤ん坊を見捨てられなかった。

 上に立つ者にあるまじき甘さだと思うかもしれない。

 だが、実際に彼と同じ立場になった時、そう簡単に割り切ることが出来るだろうか?


「捨てるのが正解だったな――――だって意味ねえもん」


 カニはアレクが抱いた赤ん坊ごと彼を殴った。

 抱き留めた小さな命が爆ぜ、肉片と鮮血が舞い散りアレクを彩る。


「ヒャアアアアアアアアアハハハハハハハハハハハ!!!!」


 さて、そんな絶好調なカニを見て別の意味で青褪めている男がこの大陸には居た。

 そう、生まれた時からクズ野郎こと春風紫苑である。


「(あ、あぁああああああああ……ば、馬鹿! 殺せ!

どうせ肉盾は死が避けられないんだから容赦なく殺せ! 心を掻き乱されるな!

お前がやられれば俺にお鉢が回って来るんだぞ!?

世界最強なんて大そうな名で呼ばれてんだから気合い見せてそのクソ甲殻類を殺せよぉおおおおおおお!

クソクソクソクソクソぉ! 悪夢だ、悪夢としか言えない……待てよ? ひょっとしてこれは夢なのではなかろうか?)」

『落ち着いて紫苑さん! これは現実よ! しっかし、結構な時間差で不吉が来たなぁ……俺様ビックリ』


 悪夢のような現実が幕を開けたのは、今から十時間以上前のことだった。

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