神代愛憎模様 捌
アリスの啖呵が蛭子命と子供らの逆鱗を逆撫でにする。
彼らの視点ではこれもまた裏切りだった。
自分達と同じなのに何を偉そうに――――負け犬の思考だ。
少なくとも真っ当に恥を知る者ならば裏切りなどとは思わないだろう。
「……フン」
そんな負け犬を冷たく睥睨し小さく鼻を鳴らす。
アリスは蛭子命達の思考を正確に理解していた。だからこそ、苛立ちが収まらない。
何だコイツらは、本当に醜いぞ。情状酌量が無いとは言い切れないが――否、やはり無い。
こうなる前だったならばともかく、ここに至っては情状酌量が入る余地など皆無だ。
「私がムカツク? 殺してやりたい? ええ良いわ、やってみなさい」
けど、と言葉を強く区切る。
「私の前に立つってことはそれなりに覚悟が出来てるってことでしょうね?
目玉を抉られようが四肢をもがれようが内臓を引き摺りだされようが絶対に弱音は赦さないわよ。
涙一つでも見せてみなさい、身体を寸刻みにして太平洋にばら撒いてやるわ」
不定形の怪物に向かって言うことではないが、勿論額面通りの意味ではない。
誰かとぶつかるということは殺意や悪意を真正面から受け止め、その上で己の我を通す気概を持てということだ。
それも無しに自身の前に立つならばどんな目に遭っても知らねーぞとアリスは言外に告げている。
「徒党を組んで強くなった気になっている、
一人じゃ喧嘩の一つも出来ないお嬢さんやお坊ちゃん達に言ってるのよ?」
認識出来ないものには分からないが、蛭子命に纏わり着いている子供達の顔に怯えが刻まれる。
そして、
「――――腰抜けは引っ込んでいなさい」
子供達が蛭子命から剥離してゆく。
切っ掛け一つあればまたすぐに戻るだろうが、この瞬間、彼らはただのギャラリーとなった。
アリス・ミラーという自分達と同じで、なのに恐ろしい少女の前に立つ勇気が無かったのだ。
「フン……一人も残らないなんていよいよ以ってどうしようもないわね」
子供達というブースターを失ったことで蛭子命の力は目に見えて弱くなった。
それでも自身の怨嗟は尽きておらず、ますます以って強くなっている。
この状態でもまだアリスには分が悪いが、彼女はまるで気にしていない。
叩きのめすと決めたのだからそれ以外の結果は要らないのだ。
『キレてるなぁ』
「(キレてるだろ? こっからまずな殴り合ってその中で諸々自分の感情をぶつける運びになるだろうよ)」
普通の人間ならばという但し書きがつくが空気が読め過ぎるというのも困りものだ。
こんな風に冷静に何もかもが分かってしまえば心動かされることは少ないだろう。
それこそ突拍子も無い、まったく予想がつかない奇想天外な事件か何かでなければ。
「あなたは不定形のままで良いの蛭子命?
別に触手でも構わないけれどムカツクって言うなら拳の一つくらい作ってみなさいよ。
それとも、形を持つのは怖い? 形を持つと今までよりも痛みを感じ易くなるし」
やろうと思えば蛭子命はどうとでも姿を変えられるはずだ。
その証拠に蛭子命が繰り出す触手は変幻自在。
敢えて不定形のままで居るのは痛みを流し易いようにするためだ。まあ、アレクのような規格外には通用しないが。
だが、理由は戦闘面だけではない。もう一つ精神面での理由があった。
「ああ、それだけじゃないわね。形を持つのが怖い理由。
ちゃんと形を成して産まれていれば親に捨てられなかった――なんて考えが頭をよぎるからでしょう?」
流動し続けている蛭子命の身体が一瞬、ほんの一瞬だが完全制止する。
それが意味するところは語るまでもないだろう。
「自分を捨てておきながら母親ヅラをして偉そうに人間に御高説を垂れて、深い愛情を注ぐナギとナミ。
赦せないわね、憎いわよね? 全部壊してやりたいって思ったからこんなことやらかしたんでしょう?
だというのに心の何処かで捨てられない。親を捨てられない。
愛されたかもしれない己を夢想してしまうんでしょう? 形さえ持っていれば……って。
そしてそんなことを考えてしまう己が赦せなくて赦せなくて、だから形を持とうとはしないのよ」
手を叩きながら心底愉快だと嘲笑するアリス。
正鵠を射ているがゆえに、蛭子命の怒りは並ではない。
場の空気が物理的な重量を伴って密度を増す。
「ほら、何とか言ってみなさいよ――ああ、ごめんなさい。声を出すには形を持たなきゃいけないものね」
その言葉がトリガーとなった。
蛭子命の不定形の肉体が蠢き、膨れ上がったり縮んだりと変形を繰り返す。
そうして変わり続けて蛭子命が取った姿は……。
「アリスちゃん……?」
瀕死で、それでも最後まで見届けようとするイザナミを支える雲母がポツリと呟く。
そう、蛭子命が取ったのはアリスの姿だった。
が、顔の作りや身体つきなどは同じでも対照的な部分が多々存在している。
金髪は銀髪に、蒼い瞳は真紅に、洋装は和装に――――ぶっちゃけ2Pカラーである。
「……好き勝手言ってくれたわねアリス」
「言われるような隙を作るのが悪いのよバーカ」
愛らしい容姿とは裏腹に、二人はドス黒い殺気を隠すことも発露していた。
ゆっくりと互いに歩み寄り、互いの拳が届く距離に入ったところで……。
「死ね!!」
同時に叫んでその小さな拳を相手の顔面に突き刺した。
いや、違う。ヒットしたのはアリスの拳だけだ。
蛭子命の拳はアリスが首を回すことで受け流されてしまっている。
「あら、何よその顔。蛭子命、まさかとは思うけど……尋常に殴り合うとでも思っていたの?」
小馬鹿にした口調、これは別に煽ろうとかそういう気持ちがあるわけではない。
単純に苛ついているからこんな物言いになっているだけだ。
「そりゃ時と場合によっては、漫画みたいに一歩も退かない殴り合いをしてあげても良いわよ?
一発殴って殴り返されてみたいな? でも勘違いしないでよ、そうして良いのはそれなりの相手だけ。
私が対等であると認めたならまだしも、あなたみたいな塵屑相手に私が付き合う道理は無いわ。
一方的にぶん殴るだけ。それ以外の展開にするつもりは無いわ」
口角をこれでもかというほどに釣り上げて悪魔染みた笑顔を浮かべて言い放つ。
「ああ、怖いならギャラリーに助けを求めて良いわよ? 怖いんですぅ、一人じゃ何も出来ないんですぅ! ってね」
「!」
アリスの罵倒に瞬間沸騰した蛭子命がその首をぶっ飛ばしてやると言わんばかりに上段回し蹴りを放つ。
それは風圧だけでアリスの身体を切り刻まんばかりの威力を秘めていたが、今の彼女には通用しない。
直接当てるならばともかく、今のアリスはかつてないほどに滾っている。
自身にとっての根源とも言える愛されなかった自分を見たことで、最大深度の純化を果たしその肉体強度も跳ね上がっているのだ。
直接当たれば死ぬだろうが風圧程度で傷付くほどではない。
「図星突かれて怒ったのね」
アリスは軽く上体を逸らしながら通り過ぎて行く蛭子命の蹴り足に拳を叩き込んだ。
迎え撃つのではなく後押しをするように力を加えられたことで蹴りに更に勢いがつき蛭子命はすっ転んでしまう。
アリスならば受身を取って即座に体勢を整えられるが蛭子命にそんな技術は無い。
「ホンット間抜け」
転んだしまった蛭子命の顔面を何度も何度も踏み付ける。
相手はスペックでアリスを上回る相手で、ダメージもそう大きくはない。
それでも顔を踏まれるのは屈辱だし、何より恐怖がある。
傍から見ればアリスのやり方は凄惨極まるものだ。邪悪ロリの面目躍如である。
「うわぁあああああああああああああああ!!!!」
怒りと僅かな恐怖で顔をグチャグチャにしながら蛭子命が立ち上がる。
その際、アリスの足を掴んで放り投げてやろうとしたのだが、寸でのところでヒョイと回避されてしまった。
「あらあら、父親や母親、弟妹には強いのに人間の私にはどうも出来ないのね。とんだ内弁慶だわ」
アリスも冷静とは言い難い精神状態だが、戦闘に関しては驚くほど冴え渡っていた。
純然たる事実として自身の攻撃のみでは痛打を与えられないと分かっている。
だからこそ常に蛭子命に攻撃させてその総てにカウンターを返しているのだ。
「家族にだけ偉そうなニートと大差ないわね」
蛭子命のテレフォンパンチに返された痛烈なクロスカウンター。
痛い、痛いぞ、何だこれは。どうなっている? 蛭子命は混乱の極致にあった。
これでは道理が通らない、自分の方が強いのに何故自分が一方的に甚振られている?
イザナギもイザナミも、三貴子や他の雑多な神々すら自分の前に敗れ去ったのだぞ?
「何でよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
子供達のバックアップが無くなったから? いいやそんなの関係ない。
この状態で神々を相手にするならともかくとして相手は人間だぞ?
「何でも何も私が上であなたが下だから、猿でも分かる理屈よ。ひょっとして白痴?」
腕を絡め取られて投げ飛ばされる。
蛭子命自身の力が加算されているのでそれはもうよく飛んだ。
蛭子命はいっぱいいっぱいになりながらも必死で体勢を整えてアリスが居る場所まで走る。
「……はぁ」
鬼のようにカウンターを叩き込んでいたアリスだがいい加減焦れて来た。
泣きながら此方に向かって居るイジケたクソガキ。
あれの相手をするのは非常に辛いのだ――精神的に。
拳が砕けるまで――否、砕けても殴り続けてやりたい。
「やめた」
アリスは受けの姿勢を捨てて前に出た。
ダメージの多寡よりも、更に手数を増やして殴り続ける方が精神衛生上良いと判断したのだ。
そう決めてからのアリスはさながら嵐の如く。
拳、肘、膝、撲殺するために使えるものをフルに活用して蛭子命打ち据える。
身が砕けることも厭わぬ全霊の一撃を繰り返す度に身体が軋む。
それでもその勢いは衰えるどころか増すばかり。
後のことなんて微塵も考えず、ただ今この瞬間にのみ命の炎を燃やしている。
どうしようもなく惨めなクソガキの根性を叩き直すために。
「う……ひっく……な……で……うぅぅ……」
殴られれば痛い、それは当たり前のことだ。
幾らアリスの攻撃が命を奪うにまで至らずとも無痛というわけではない。
蛭子命という神はあまりにも幼く、それゆえに痛みというものへの耐性がまるで無い。
不定形の肉体を持っていた頃は痛くても平気だった。
アレクサンダー・クセキナスという神を以ってしても規格外の暴力に晒された時もそう。
不定形であり、何より自分ひとりで痛みを受けていたわけではないから。
だがしかし、今の蛭子命はひとりぼっちだ。
傷を舐め合う子供達を引き剥がされ、たったひとりで形を持って世界に立ってしまった。
初めて形を持ち、初めてひとりで立った世界はあまりにも苛烈。
どれだけ泣き喚こうとも目の前に居る同族は決して手を緩めてくれない。
いやむしろ、泣けば泣くだけ更に暴威を増している。
じゃあ泣くのを止めれば良いかと言われるとそれも無理だ。だって痛いんだもん。
「……ちょ、ちょっとやり過ぎちゃうん?」
アリスの残虐ファイトを眺めているギャラリーの中でも一番真っ当な麻衣が顔を青褪めさせながらそんなことを口にする。
蛭子命がやったことは酷いことだとは分かっているが、それを加味してもアリスは余りにも苛烈過ぎた。
「ですが、侵し難いものがあるのも事実。麻衣さん、見守るしかありませんよ」
天照の言葉に麻衣は何も返せなかった。
侵し難いものがある、彼女自身にもそれが分かっていたからだ。
「(――――折れたな)」
「――――折れたな」
紫苑とアレクは同時にそう判断した。
片方は心を暴く者としての見識で、片方は戦う者としての見識で、それぞれ答えを導き出した。
彼らの見立てが正しいことを証明するように蛭子命の膝が崩れ落ちる。
一見すればアリスの方がボロボロなのだが、現実として見下ろしているのはアリスで、見下ろされているのは蛭子命だった。
「うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!!」
恥も外聞もなく大声で泣き始める蛭子命。その姿は本当にただの子供だ。
愛に餓え、闇の中を彷徨い疲れて蹲る哀れな子供……。
「(フハハハハハハハハハハハハハハハハハ! 愉快痛快爽快じゃのぉおおお!! 哂わせてくれるぜ!!!)」
そしてそんな子供を容赦なく嘲笑するただの屑。
溜まっていた鬱憤をここぞとばかりに晴らそうとしている。
『うわぁ……』
「(こういう役得なきゃやってらんねえよ。見ろよあの無様なツラ。超笑えね?
あのクソガキと同じツラしてるってのもポイント高いわ腹筋捩れそう!
あー、やっぱ不幸な奴らを見るのは良いわぁ……傷付いた俺の繊細なハートが癒されてくのが分かるよ)」
この男の何処が繊細なのだろうか。
まあ、この屑はさておこう。スポットを当てていると目が腐る。
「わたしは、わたしは……ただ、パパとママと一緒に居たかっただけなのにぃ……!」
嗚咽しながらも蛭子命が口にしたのは、そんな当たり前の願いだった。
アリスの形を取っているがゆえに、口調も同じものになってしまうのだろうが真似された当人には堪ったものではない。
一々癪に障るのだ。それでもグッと我慢して、静かに蛭子命の言葉に耳を傾ける。
「わ、わたしだって……我慢してたのよ……? でも、でも! ママが……ママが!!」
息も絶え絶えなママことイザナミは沈痛な面持ちで蛭子命の言葉を聞いていた。
肉体を陵辱する痛みなど屁のようなものだ。それ以上に、我が子の言葉が痛い。
「に、人間には……あ、あんなに優しくて……わ、わたしにはあんなのなかったのに……!」
イザナミは三貴子ら神と日ノ本の人間を同じ子として認識しながらも接し方を変えている。
神は神足る自覚をということで厳しめに、
人間は――ある意味で神らしい見下しを感じさせるような厳しさと甘さを織り交ぜてといった感じに。
蛭子命にはそれが納得出来なかった。
「どうして――――人間を愛するように私も愛してくれなかったの!?」
劣るというのならば形を持たぬ己の方が人間より劣っているだろう。
なのに自分は捨てられて後はそのまま、それ以上が無い。
蛭子命にとってあの裁定がトリガーだった。
赦せなかったのだ、何もかもが。
だから憎しみのままに火之迦具土神や人間の子供らを集めて自身を強化し、化け物と結んでまで総てを壊そうとした。
「……」
イザナミは何も言えなかった。どう口を開いても言い訳にしかならないから。
選んだ選択は覆せず、過ぎた時間は戻らない。
ゆえにイザナミに蛭子命を救うことは出来ず。
「嫌い嫌い嫌い嫌い! 皆大嫌い! どうして意地悪するの!? どうしてあなた達だけ幸せなのよ!!!!」
愛を欲して狂ってしまった哀れな子供。
抱き締めて愛を教える? いいや、そんなことに意味など無い。
そんなことが通用する段階はとうに超えてしまった。
分水嶺があったのならば、それは紫苑が裁定を踏破する前だ。
それ以前ならば蛭子命を抱き締めて、万年の孤独を癒してやれただろう。
だがこと此処に至ってそんな都合の良い展開は赦されない。
母としての責務? 阿呆が。そんなものが通用する段階ではないのだ。
そしてここまで拗れさせてしまったのは母たるイザナミ。しかし、幾ら罪悪感を抱こうとも何も出来はしない。
もしこの場で何か出来る者が居るとしたら、
「蛭子命」
それはアリスのみだ。同じ境遇で、しかし腐らずに幸福を掴んだ彼女だけ。
蛭子命の主張を聞き届けたアリスは静かにその名を呼び、
「知ったことか!!!!」
火が出るような勢いでその頬をビンタし始めた。
ビビビビビ! と、最早残像が見える勢いで頬を張るアリス。
泣いてようが完全に心が折れていようが一切考慮に入れず。
「母親に、父親に愛されなかったからってそれが何よ!? 親に愛されなきゃ不幸一直線? 舐めるな!!」
蛭子命の胸倉を掴んで無理矢理立たせて、真っ直ぐその瞳を見つめる。
アリスは泣いていた。怒りでも悲しみでもない、ただ胸の裡から溢れる感情が涙となって流れ出したのだ。
「赤子の時に虐待を受けて殺されたとかならそりゃ先なんて無いわよ。でもそれは運が無かっただけ」
酷なようだが運が無かったと言わざるを得ない。
だが、愛されてなくても生きて居るならば幸せを掴むチャンスはあるのだ。
生きてさえ居れば自分次第で幸せになれるのだ。
「けど、それ以外で生きて居たならばやりようは幾らでもあるわ。
誰かに助けを求めれば良い。親が憎いなら殺してしまえば良い。
夜中にこっそり包丁をキッチンから抜き出して眠ってる親の心臓に突きたててやれば良い。
私のように力が無くても、それぐらいならば出来るはずよ。
人殺しの烙印を押されるけど、愛されていなかった――虐げられていたならば世間は同情的よ。
むしろ親に非難が集まるわね。悲劇の子供という評価を利用して先に進めば良い」
アリスのそれは強者の論理とも言えるかもしれない。
だが、弱者だからと何もかもをも赦してしまえばそれはそれで立ち行かなくなる。
「心の何処かで愛して欲しくて、親殺しに踏み切れないならば別の道もある。
親の愛情を得るために努力はした? 何でも良い、無駄だと言われようとも足掻いた?
足掻いても無理だった? 本当に出来ることは総てやったの?
蛭子命も、それにくっついた弱虫達にも聞くわ。イジケるよりも前に、最善は尽くしたの?」
例えば蛭子命。裁定を見るまで行動を起こさなかったわけだがその間、何をしていた?
心の何処かで愛情を求めていたのならば当然一度ぐらいは会いに行くべきだろう。
だがそれをしていない。していないのに、不幸だ不幸だと喚いている。
「僕は私は俺は可哀想! 不幸なんですぅ! だから優しくしてくださーい!
なーんて腐るよりも前に、何かをしたの? し続けたの? 何か言ってみなさいよ」
「ッッ……わたし、そんなにつよくないもの……!」
「強い強くないは関係無いわよ。良い? 選択肢が本当の意味で零になるなんて事態はそうそう無いのよ」
限りなく少なかろうとも選択肢は何時だって己の前に存在している。
諦める、逃げる道を選んだから蛭子命や子供達はこんなことになってしまった。
自分の選択の結果に責任すら負わずに喚いて当り散らすのは恥知らずにもほどがある。
アリスは自分の論法が真理などとは思っていない。あくまでこれは自分の主張。
異論があるならば真っ向から立ち向かって来いと語りかけているのだ。
だがここに至っても蛭子命や子供らは"自分は強くない"と嘆くだけ。それがどうしようもなく腹立だしい。
「……傷を舐め合って泣きながら何もかもが憎いと総てを壊そうとして一体何になるの?
それであなた達は幸せになれるの? なれないでしょ? それぐらい分かるでしょう?
あなた達は出来ることをせずに諦めた。諦めて世界に見切りをつけた」
確かに世界は残酷だ。どんな奇麗ごと謳ってみても有史以来、世界から一瞬でも不幸が消えたことはない。
だが、不幸のみかと言えばそれは違う。蛭子命や子供達は世界に見切りをつけるのが早過ぎたのだ。
「ひとりぼっちが寂しいなら、誰かに愛して欲しいなら手を伸ばさなきゃいけない」
蛭子命や子供達は共同体となっていたが、互いを愛し合っていたわけではない。
ただただ慰め合っていただけ。私可哀想、君も可哀想、僕らは何て不幸なんだ! と。
寄り集まりながらも誰一人として愛してくれと手を伸ばしては居なかったのだ。
「手を伸ばさずに掴んでもらおうだなんてムシの良い話よ。世の中そんなに甘くは出来てない。
だけど、そんな厳しさだけで世界が構成されているわけでもないわ。
震えながらも小さな手を伸ばせば、誰かが掴んでくれる程度には優しいのよ、この世界は」
俯き震える蛭子命。
アリスが口にした言葉はかつて紫苑が口にしたものだ。
彼女は改めてその言葉が正しかったことを噛み締めていた。
「生まれなければ良かったと謗られ、両親を殺したわ。
私は特別、特別な私と踊れないような弱者は淘汰されてしまえって気取ってたわ。
でもね、そんな馬鹿な私だけど……手を伸ばせば、掴んでくれる人が居たのよ」
アリスは確かに愚かだったが、今のアリスが居るのは過去のアリスが選んだから。
紫苑に殺される寸前、彼が流した涙を見て生きようと思ったのだ。
愛して欲しいと手を伸ばすことを選んだからアリスは幸せになれた。
「親に愛されていなくとも」
馬鹿な妄想に酔って無様に踊る馬鹿な小娘であろうとも、
「――――愛してくれる誰かはこの世界の何処かに居るのよ」
早々に見切りをつけてしまうほどに世界は残酷ではないのだ。
「……嘘よ、そんなの」
「本当よ。私が生き証人。あなた達が同族と見做した私は今、幸せだもの。
伸ばした私の手を掴んでくれた紫苑お兄さん。惜しみない愛情を注いでくれる紫苑お兄さん。
邪魔な恋敵やらも居るけど……まあ、そう悪いもんでもないわ。ええ、総合すればやっぱり幸せ」
それは神々すらも見惚れるような晴れ晴れとした笑顔だった。
「そして、あなた達も愛されてるのよ」
「……?」
「意味が分からない、信じられない、そんな顔してるわね。でも事実よ。少しだけ視点を広げてものを見てみなさい」
困惑を隠せない蛭子命と子供達。
だが、至極簡単な事実を彼らは見落としている。ほんの少し周りに目を向ければ分かるのに。
「私達が高天原に来る前はともかくとして、来た後……アレクおじさんならあなた達を簡単に滅ぼせたわ」
実際最初にアレクと戦った際、蛭子命達は一方的に追い詰められていた。
続けていても勝機なんて微塵も無かっただろう。
「だけど、そうはならなかった。私と雲母お姉さんが子供達の存在に気付いたから。
それはあなた達も分かるわよね? 手が出し難くなったから間を置かずに襲撃をかけて来たんだろうし」
「……そうよ」
「じゃあ何で分からないの? 手が出し難いとは言え、子供達は既に死んでいる。
利用価値のある神々を助けるということならばあなた達を殺してしまえばそれで済むのにそうはならなかった」
つまりそれはどう言うことだ?
「子供達の存在を伝えて、もう死んでしまったけれど……。
このまま滅ぼしてしまうのはあまりにも悲しい。せめて一片の救いでもあればって雲母お姉さんが言ったから。
私達もそれに同意して、紫苑お兄さんはそこから更に報われない子供というのならば蛭子命と火之迦具土神もだって言って絵を描いてくれたの」
それはちょっと考えれば分かることだった。
だが、他者からの愛を実感したことがない彼らにとっては中々気づき難い事実でもある。
「――――」
言葉を失う蛭子命と子供達。彼らの顔には動揺の色が浮かんでいる。
優しさを受けて来なかったがゆえに戸惑っているのだ。
「蛭子命と火之迦具土神の母親であるイザナミに母としての責務を果たさせるため根の国から連れて来る。
その間の時間稼ぎは身内である三貴子が。
一回目の襲撃時にはロクに考えることも出来なかったから迎え撃つしか出来なかったけど、
落ち着いて改めてあなた達を見つめたから二度目は攻撃しなかったでしょう? あくまで防戦に努めていた。
それはどうして? 悲しみに濡れる兄達を、現世で苦しんで今も尚、嘆き続けている子供達を救いたかったから」
合成神が最初に襲撃をかけて来た際に語らいもせず迎撃したことは確かにマイナスポイントだ。
だがそれは仕方ないと言えば仕方ないことでもあった。
ではもっと早くに三貴子が捨てられた兄、もしくは姉である蛭子命に接触していれば?
そこまで言い出したらキリが無い。神とて無謬ではない、それはこれまでのことを振り返れば一目瞭然だ。
しかし、無謬でないとはいえ己を省みて良い方向に進むことは出来る――紫苑とは違って。
省みて、蛭子命らを救いたいと思ったからこそ三貴子は身体を張ったのだ――紫苑とは違って。
「そうして時間を稼ぎ、重傷の身でやって来たイザナミは火之迦具土神の心を救えた。まあ、その彼も死んでしまったけれど……」
何もかも、総てが上手くいくとは限らないし、救いがまったく無かったわけではない。
だから火之迦具土神の件は残念だとは思うが、そこまで後味が悪いわけでもない。
彼は死したが遠い未来で再び蘇ることが出来るのだから。
「……」
「イザナミは、あなたに言葉を届かせることは出来なかったけど、真っ直ぐその憎悪を受け止めようとしたわ。
己の過ちを認め、せめて自分の命を以ってあなたに何かを伝えられればってね。
そりゃこれまでの行いを振り返るなら出来た母親ではなかったでしょうよ。
でも、それを省みて今度こそ母として子から逃げずに向かい合おうとしたわ。
ねえ、それは愛がなきゃ出来ないことでしょう? どうでも良いならば放って置けば良いんだから」
そうやって紫苑を除く多くの者らが慈愛の心を以って蛭子命らと向き合った。
語るまでもなく愛が無ければそんなことは出来ない。
愛があったからこそ、どれだけ傷付こうとも退きはしなかったのだ。
「……そして、それは私も同じよ」
「え」
「え、って何よ?」
キョトンとする蛭子命を睨み付けるアリス。
睨み付けられた当人は小動物のように身体を震わせながら小さく抗議を口にする。
「だって……あ、あんなに痛いことされたし……い、いっぱい怒られて悪口も言われたもん……」
「はぁ……良い? 私は、基本的に紫苑お兄さんしか眼中に無いの」
胸を張って堂々と宣言するアリス、欝度が加速する紫苑。
「アリスにとって世界と紫苑お兄さんは同義なの。
まあ、余計なのもチラホラ目に映るけどそれでも大きく心を揺らすのは紫苑お兄さんに絡むことだけ。
でも、今回私は本気でキレたわ。全力で怒ったわ。
さっきも言ってるでしょ? どうでも良いなら放って置くってね。私は自分と似ているあなた達を放って置くことが出来なかった。
初めて、誰かを……まあ、その……どうにかしてあげたいと思ったの。
どうでも良い相手に性根を叩き直すなんて言わないわよ。どうでも良い相手をこんなになるまで殴らないわよ」
すっ、と両手を突き出す。
指があらぬ方向に折れ曲がり、皮が裂け血塗れで、砕けた骨が皮膚から飛び出している。
幼さを色濃く感じさせる美しく白い手はもうボロボロだった。
「蛭子命、それに他の名も知らない子供達……よーく聞きなさい。
自分で言うのもアレだけど、今回あなた達に関わった私達は今の世界で大きな流れを作り出すことが出来る存在よ」
春風紫苑とその仲間達、アレクサンダー・クセキナス、イザナミ、三貴子。
どれも路傍の石と言うには大き過ぎる存在だ。
「そんな連中が、誰でもない、あなた達のためだけに必死に考え、必死に身体を張ったの。
世界の明日を考えるならさっさと片付けた方が良いって分かってたのに、誰もがそうしなかった。
これでもあなた達は愛されてなんかいないって言える? 親に愛されなかったのなんて帳消しに出来るくらい恵まれてるわよ」
親に愛されずとも、自分を愛してくれる誰かは居る――それは真実だった。
ほんの少し目を開いて世界を見れば、勇気を以って手を伸ばせばこうなる前に気付けたかもしれない。
「――――愛されてるのよ、あなた達は」
万感の想いを込めた一言だった。
「……ッッ」
蛭子命と子供達は泣いていた。
情けなくて、それでも、自分のために必死になってくれる誰かが居ることが嬉しくて……。
「(あー……やっと茶番も終わりかい。なげーんだよ)」
空 気 を 読 め。