神代愛憎模様 漆
「蛭子命、火之迦具土神! 俺様の話を聞きやがれぇえええええええええええええええええ!!!!」
迫り来る炎を纏った触手を神剣で防ぎながら素戔男尊が叫ぶ。
姉二人はそれぞれ陰と陽の力で合成神を縛っているが完全には抑え切れていない。
それでも時間を稼ぐために、そして何よりも家族と向き合うために三貴子らは身を削っている。
「……」
アリスは紫苑の胸に抱かれながらその様子を黙って見ていた。
今回の諸葛屑明さんが立てた策に置いて要となるのはイザナミとアリス。
イザナミの役目は火之迦具土神をどうにかすることと、可能ならば蛭子命の説得。
説得が無理でも亀裂を刻んでくれれば良いというのが紫苑が引いた誰にも告げていない最低ライン。
そして、そこから先はアリスに懸かっている。
彼女に課せられた役目は蛭子命とそれに纏わり付く子供らに語りかけることだ。
一歩間違えれば彼らと同じ境遇にあったアリス。
だが彼女はああはならずに今、幸せに生きている。
そんなアリスの口から何でも良い、ただ、心からの言葉をかけて欲しいというのが紫苑の願いだった。
説得とかそういうことは考えなくて良い。
ただ、彼らを前にして想ったことを自分の言葉で衒わずに告げて欲しいとだけ言われた。
だが、今を以ってしても何を言えば良いかが分からない。上手く言葉にならないのだ。
「ッッ……」
だからこうして唇を噛みながら三貴子の奮闘を眺めることしか出来ない。
アリスが哀れな子供達を見た時にまず抱いた感情が――――不快。
あれらは諸共に皆、腐っている。拗ねてひねて、悲嘆している。
紫苑に出会わなかった自分の末路を見ているようで酷く不愉快なのだ。
自分はああはならない、そう思いたくても否定が出来ない。
紫苑に出会わなければああなっていたかもしれないという考えが頭をよぎってしまう。
それが不快で不快でしょうがない。目を逸らしてしまいたいけれど、そうすることも出来ない。
目蓋の裏に焼き付いた"もしも"の未来が決して消えてくれないのだ。
きっとそれは眼球を抉り出しても消えはしないだろう。
それほどまでに根深く刻まれた傷こそが、あの哀れな子供達。
そんな相手に何を言えば良いのか、いいや、何も言いたくはない。
だけども何かを言わずには居られない。混沌とする思考がアリスの心を掻き乱す。
「(ウケケケケ、テメェにとっちゃあれは心底不快な汚物だろうなぁクソガキ)」
そしてそんなアリスの心の動きを正確に把握している屑が一匹。
この男の腐れ具合をどのようにして表現すれば良いのかまるで分からない。
『なあなあ紫苑くふぅん』
「(気色悪い呼び方するな死ね、今死ね、すぐ死ね)」
『っとに沸点低いなぁオイ』
瞬間湯沸かし器要らずである。
「(で、あんだよ?)」
『お前、かける言葉が無いとか言ってたけどよぉ……実際のとこどうなんよ?』
「(どう、とは?)」
『何時もみたいに何かそれらしいことは言えるんじゃねえのか?』
現に今までもそうやって幾つもの修羅場を舌先で踊らせて来たのだから。
今回だってやろうと思えばやれるのでは? カス蛇の疑問も当然だ。
「(まあ、ペラ回そうと思えば幾らでも回せるけど……)」
チラリと合成神に視線を向けて一言。
「(あんな気持ち悪い生物のために何で俺が頑張らなきゃいけないんだ身のほど知れよ汚物)」
これまで関わって来た連中は、基本的に美男美女揃いだ。
例外もあったが、それでも不定形の謎生物などではなかった。
正直な話、あの合成神は紫苑の美観からすれば審議無しの一発アウトである。
『……ああ、そう。厳しいっすね』
「(つーかぁ、あれどうにかしたところで俺に得あるんですかぁ(↑)?)」
『心証良くなるんじゃね?』
「(もう十分だろ。俺がコイツらのためにどんだけ頑張ったと思ってんだよいい加減にしろクソ蛇)」
『クソじゃなくてカスだよ!』
実際のところ、今回は紫苑が何もしなくても最低のラインには落ち着くのだ。
力勝負になった場合、どう足掻いても合成神に勝ち目は無いのだから。
アレクがパッと燃やしてそれで終わり。高天原に平和が訪れたぜハッピーエンド! で綺麗に収まる。
各々の中に消化し切れない苦いものが残るだろうが、それだけだ。それ以外には何のマイナスも無い。
「(善人ぶった奴らが足を引っ張りやがってよぉ……知らんわ他所の家庭事情なんぞ)」
『わー、すんごくザックリだね!』
「(むしろよぉおおおく考えてみろよ。例えば、近所で虐待やってる家庭あるじゃん?
普通の人間は見て見ぬフリするか、児童相談所か警察にタレ込んで後は知らんぷりするだろ普通。
わざわざ土足で踏み入ってあれこれ言ってドラマみたいに解決したいってのは自己顕示欲の強い馬鹿だけだよ)」
ちょっと待て自己顕示欲の強い馬鹿。
誰が言っても良いが、紫苑だけは言ってはならない言葉である。
自己顕示欲を満たすためだけに世界という舞台で好き勝手に踊っているくせに何をほざいとるのか。
「……紫苑お兄さん」
ふと、アリスの声で現実に回帰する。
見れば不安げな表情でこちらを見上げているではないか。
あざとい仕草しやがって反吐が出るぜと思いつつ、それを表には微塵も出さず紫苑は正しい対応を取るべく口を開く。
「あまり気負うな。素直なお前の言葉で良いんだよ。大丈夫、まだ考える時間はある。
三貴子達が頑張ってくれているし……それに、援軍がやって来たようだぞ」
紫苑の視線の先にある孔から飛び出して来たのはイザナミを背負った雲母だった。
全速力で駆けて来たのだろう、額には汗が浮かび、若干息が乱れている。
「お、お待たせ……し、紫苑ちゃん……」
「お疲れ様。間に合ったようで何よりです」
背中のイザナミに目をやると、彼女は小さく頭を下げた。
「……世話をかけたな」
「あなたは母で、俺は子供――家族なんだ、世話を掛け合ってナンボでしょうよ」
自分の評判に傷が付かないならば他人だろうが家族だろうが平気で迷惑をかけるが、
逆の立場ならば絶対に赦さない――――それが僕らのヒーロー春風紫苑である。
「……御覚悟のほどは?」
「出来ていなければ此処には来なかった。雲母、もう大丈夫だ」
ヨロヨロと雲母の背から降りて大地に立つイザナミ、
その足取りは頼りないものの喋るくらいならば問題は無いだろう。
「ケジメをつけて来る」
それだけ告げて、イザナミは三貴子と合成神の戦場へと向かう。
戦闘の余波でその身が傷付くが、ことここに至っては気にする必要も無い。
「(お、アレクも戻って来やがった……え? マジでヤマタノオロチ一人でぶっ殺したの?)」
ほんの少し、スーツが汚れているが空から降りて来たアレクには傷一つ無い。
彼は黙って紫苑の隣に並び、その成り行きを見守ることにしたようだ。
「母上! ……身体は、大丈夫なのか?」
「我のことは良い。お前達もかなりの消耗度合いだろう。見た目こそ繕ってはいるがな」
悠然と歩を進め、三貴子の間に割って入る。
合成神も動きを止めて、あるかどうかすら分からない目でイザナミを見つめていた。
緊迫した空気、何か一つ切っ掛けがあれば、今度こそ止まらぬ闘争が始まるだろう。
「先ほども顔を合わせたが、こうして改めて顔を合わせるのは久しいな蛭子命」
勿論返答は返って来ない。イザナミ自身も期待していたわけではない。
だが、言葉の代わりに雑多な負の感情が返って来た――ある意味ではこれが返答か。
目を逸らしたくなるような昔日の過ちに自嘲染みた笑みが浮かぶ。
雲母の言う通りだ、もし何もせずに居ればきっと後悔していた。イザナミは心の中で感謝を告げる。
「火之迦具土神は……殆ど初めましての状態か」
改めて自分を殺したと言っても過言ではない我が子を見る。
火之迦具土神――やはり憎しみは無い。
イザナギは妻を殺されて怒りのままに火之迦具土神を殺したのに、殺された当人は微塵も怨んでいないというのは皮肉な話だ。
「火之迦具土神、ナギを殺したらしいな」
イザナギとイザナミ、三貴子を旗頭とした神の連合軍。
一番最初に欠けたのはイザナミで、そこから徐々に崩されていったのだ。
イザナギが殺されたのはイザナミが離脱した後であり、直接その光景は見ていなかった。
「これであ奴は、少なくとも数千年は何も出来んだろうよ」
火之迦具土神は何も答えない。
蛭子命と合一したことで発声器官すら失われてしまったのだろうか?
ただ、意思表示としてか炎が激しく揺らめいている。動揺、憤怒、あるいは両方か。
「お前はお前を殺した者に対しての復讐を果たしたわけだが……気分はどうだ?」
やってやったぞ! という達成感なのか。やってしまった……という後悔か。
もしくは自身の感情すら把握出来ていないのか――炎は更に不安定な揺らめきを見せた。
「殺したら殺される、その論法で語るならば――――我もお前に復讐をする権利を持つわけか」
その言葉に炎のざわめきが止まる。
時間が止まったかのように静止してしまった炎、火之迦具土神は怯えているのだろうか?
あるいは母を殺し父までをも殺した不孝者である己に対する裁きを望んでいるのか。
どちらにせよ、ポジティブな感情ではないだろう。
『こええ母ちゃんだなぁオイ。自分の子供にあんなこと言うかね?』
ゲラゲラと笑うカス蛇。
第三者として傍観している彼は目の前で繰り広げられている家庭問題を良い見世物だと思っているようだ。
この辺りは相方である紫苑と同じで両者共に趣味が悪い。
「(態度こそ毅然としちゃいるが、あの女……弱いぜ。
弱みの見せ方を知らないから怖いだとかって感想が出て来るがな。
もしも人間の女だったら、君は強い人だから――なーんてフラれたりしただろうて)」
『ほうほう、その上でお前は俺様と見えてるものが違うんだな?』
勿論だ。イザナミの心の動きはしかりと理解している。
理解した上でくだらないと思っている、紫苑にとってはどんな愁嘆場も出来の悪い見世物でしかないのだ。
「(ああ。あの女、今、かなり動揺してるぜ。どうして良いか分からないのさ。
雲母の言葉で上に上がって来たは良いが、いざ自分の子供と対面したら訳が分からなくなった。
負い目があるからな。そりゃ蛭子命に対してだけじゃない、火之迦具土神もだ。
自分があれを産んだ時に死ななければイザナギに子殺しを犯させずに済んだ、火之迦具土神に親殺しをさせずに済んだ。
そんなクッソくだらねえ負い目が生じてやがる。そのせいで真っ当に頭が働かないのさ)」
だからこそ、あんな厳しい言葉が出て来る。
子の心を抉るような……だがそれは決して火之迦具土神を傷付けようなどという意図は含んでいない。
いないのだが、同時に傷付けてしまっているという自覚もある。
だが言葉を止められない。口を閉ざしてしまえば何も言えなくなると分かっているから。
「(澄ました顔しちゃいるが、内心ボロボロだぜアレ。脆い女だ。
よくもそんな根性で人の在り方について御高説垂れてくれたもんだよ本当に)」
それは紫苑も同じだ。語れるような性根でないくせに綺麗な人間論を口にする。
だが、イザナミに限っては紫苑のような屑と同じではない。
弱さを知るからこそ、愛を語れるのだ。
「(ま、これからどんな醜態を晒してくれるのかとっくり眺めるとしようぜ)」
『カカカ、己の祖たる神々をここまで扱き下ろせる人間もそうはいねえだろうよ』
そんな二人をさておき、イザナミと子供達の対話からは不穏な空気が流れ始めていた。
これでは何のために雲母を根の国に向かわせてイザナミを連れて来させたのか分からない。
が、紫苑からすればそれはそれで良かった。
決裂してしまえばそこで終わる。後は殺すしかなくなるのだから。
「お前は我だけでなく、元とは言え我の夫を殺した。
のみならず、高天原を焦土に変えて他の子供らも傷付けた。
総ての責がお前にあるとは言わんが、お前にも責任の一端はある」
いよいよ以って危なくなって来た。このままでは先が見えている。
とは言え、この状況で口を挟める者は誰一人として――――
「……イザナミさん」
「?」
「そうじゃないでしょうが!!」
たった一人だけ居た。黙って成り行きを見守っていた雲母がイザナミの頬を張り飛ばしたのだ。
突然のことに麻衣やアリス、三貴子らだけでなく、合成神までもが唖然とした。
「な、何を……」
頬を押さえながら雲母を睨み付けるイザナミ。
まあ、いきなりビンタされたのだからその反応も間違いではない。
「何をしているっていうのはあなたの方じゃない」
睨まれても怖気ることはなく、毅然と睨み返す雲母。
彼女は今、怒っていた。イザナミのあまりの情けなさに。
「ちゃんと母親として向き合うためにここに来たんでしょう?
あなたはあの子達を糾弾するためだけにここに来たの?
さっきの物言いは何? あれがあなたが伝えるべきだと思ったことなのかしら?」
矢継ぎ早に繰り出される問いにイザナミは窮した。
彼女も分かっているのだ。自分が言いたいのはこんなことではないと。
だが、上手く言葉に出来ないのだ。いざ面と向かうと頭が真っ白になってしまいそうで……。
「……分かっておる」
そう返すのが精一杯だった。雲母は小さく溜息を吐いてその両手でイザナミの頬を挟みこむ。
手の平から伝わる体温が冷たい肌に染み渡っていく。
不思議と何故か心は落ち着いた。イザナミは頬に添えられている雲母の手に己の手を重ねる。
「――――すまぬ、落ち着いた」
「ううん、良いのよ。落ち着いたなら、やることは分かるわね?」
見つめ合い、微かに微笑む二人を見て……。
「(何かレズ臭えwww)」
台 無 し だ よ。
というかこういう偏見に満ちた言い方は色んな団体からバッシングを受けそうだ。
まだ未成年とはいえ仮にも社会的立場のある人間がこれで良いのだろうか。
まあ、こんな屑はどうでも良いのだ。大事なのは雲母の叱咤で立ち直ったイザナミである。
「火之迦具土神」
イザナミは変に考えるから余計なことを言ってしまうのだと内心で己を戒める。
そうして、自分が本当に伝えねばならぬことを心の裡から見つけ出す。
「――――我は赦す」
言葉を飾る必要は無い。大事なことは何時だってシンプルだ。
「我を殺し、ナギを殺し、多くの神々を傷付けたとしても我はお前を赦す。
嗚呼……最初から決まっていたのだ。我がどうしたいかなど。
どれだけ堕ちようとも子は子で、母ならば最期まで子の味方で在らねばならん」
分かりきっていた答えだ。自分がもう少し素直だったらここまで拗れることはなかった。
イザナミは己が神らしい傲慢さを体現する女だと自覚している。
が、自覚していたところでそれを改めるには少々時間が経ち過ぎた。
こんな状況にならねば真っ直ぐな母の愛を見せることは出来ない。
「どんな外道に堕ちようとも親にとって子が子であることに変わりは無い」
そこで見捨てるような者は親ではない。
親ならば子が過ちを犯そうとも赦すものだ。赦し、その上でこれからを語らねばならない。
己を改めて、正しい道に戻れるように尽力せずして何が親か。
イザナミは多くの過ちを犯した火之迦具土神を赦した。
いや、そもそも最初から怒ってもいなければ罰そうとも思っていなかった。
危険、他に害を成す、殺しに来たのだから迎え撃つしかない。
そんな余計な思考に縛られて大切なものを見失っていた。
真理は何時だって分かり易くて気付く難い場所にある。だからこんなに拗れてしまった。
「だからもう良い、もう泣くな――――帰って来い、火之迦具土神」
瞬間、合成神に亀裂が奔り、業火が乖離する。
炎はやおら形を成し、赤毛のあどけない少年の姿を取る。
少年は小学生くらいの見た目で、とても三貴子らの兄には見えない。
「……母上」
涙を滲ませ、ゆっくりイザナミに歩み寄る火之迦具土神。
「私は母上を殺しました……そのせいで、父上に憎まれて……殺されました。
どうしてって思って、辛くて、悲しくて、それで……父上を殺した時、どうすれば良いか分からなくなって……」
ポロポロと涙を流し、バラバラになった己の感情を言葉にする。
上手く言葉に成ってはいないが、それでも気持ちだけは十分伝わった。
火之迦具土神はずっと苦しんでいたのだ。
「(そろそろ、だな)」
『紫苑?』
イザナミはゆっくりと火之迦具土神の背に両手を回し、彼を力いっぱい抱き締める。
「良い、赦す。親が親としての責を果たさなんだゆえにお前をそうしてしまった。
なればお前の罪は我の罪、共に背負う。お前は孤独ではない」
今はその胸の裡を知ることは出来ないが、
イザナギもきっと同じ気持ちだったはずだとイザナミは元夫を想う。
彼は愚かでヘタレで、だが悪神ではない。
火之迦具土神を斬った時、後悔したはずだし、今回の事件でも心を痛めたはずだ。
そしてその上で自分と同じ答えを出していただろう――まあ、人間の助けを借りてだが。
「母上」
「火之迦具土神」
抱き合う親子の胸を、
「あ」
蛭子命の触手が諸共に背後から貫いた。
周りの者らも母子に目を取られてはいたが、警戒していなかったわけではない。
全員の反射速度を凌駕するほどに今の一撃は研ぎ澄まされていた。
「(ククク……ハハハ、そうだよなそうだよなぁああああああああああああああああああ!
一人だけ足抜けするなんて赦せるわきゃぁねぇよなぁ!
アァアアアアアアアアアアッハッハッハッハッハ! 予想通りだよ、こうまでピタリと嵌まるかね?)」
もしも表情に出ていたら紫苑は涙が出て腹筋が捻じ切れるほどに笑っていただろう。
『紫苑さん?』
「(同じ不幸を背負った共同体で一人だけが幸せになればどうなる? 残された者達が祝福するとでも?
なわきゃねえだろ。他者の幸福を祝えるのは自身もそれなりに幸福じゃなきゃ無理なんだよ。
その上で考えてみな。蛭子命、んで他のガキ共――――誰か幸せですか? つまりはそういうこった)」
蛭子命と子供達、そして火之迦具土神も親の愛を受けられない哀れな子供達だ。
だからこそ、身を寄せ合ってその不幸を共有して暴威を振るった。
しかし、火之迦具土神はその輪から外れた、イザナミの愛で救われたのだ。
さて、残された者達はどうするだろう? 言わずもがな、赦せるわけがない。
紫苑はこの展開までをも織り込み済みで、茶番を見守っていたのだ。
「お母さん! 火之迦具土神!」
「母様! 火之迦具土神!」
「テメェ、母上と兄貴に何しやがる蛭子命ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
真っ先に反応したのは傍に居た三貴子。
特に素戔男尊の怒りは凄まじく、神剣片手に蛭子命に斬りかかろうとしたが、
「……止めろ、素戔男尊」
イザナミが手でそれを制す。
ゴボリと口から漏れる鮮血が大地を濡らし、命の灯火が小さくなってゆく。
そんな彼らを絶対に赦しはせぬと更に触手が襲う。
執拗に攻撃されたのは火之迦具土神で、彼は今にも死にそうだ。
「蛭子命……それに、子供らよ……」
母の腕から離れ、火之迦具土神は蛭子命らに向かい合う。
その目に浮かぶ感情は憐憫――そしてそれがまた、彼らをどうしようもなく腹立たせる。
「私だけ、救われて、さぞや憎いだろうなぁ……だが、今、分かった……憎いということは――――」
それ以上言葉が続かなかった。
蛭子命の触手が火之迦具土神の身体をバラバラに引き裂いたのだ。
母と和解を果たし、心を救われた哀れな子供は、その幸福に浸る間もなく死んでしまった。
「そう、か……ここまで深いか……お前達の、憎悪は……これが罪か……。
だが良い、それならば受け止めよう。母として、我を殺すが良い。そうして、我を殺し、せめてそこから何かを得てくれ。
失い続けて、嘆きの闇の中に居るお前が少しでも救われるのならばそれは我にとっても……」
熱い涙が頬を伝う。霞む視界が捉える蛭子命と子供達はこの上ない赫怒に包まれていた。
イザナミは己の愚かさを再確認し、それでも我が子を見つめ続ける。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!!!」
天地を鳴動させる蛭子命の咆哮。
内包された業火よりも熱く、氷土よりも冷たい怒りが響き渡る。
「(クックック……いやぁ、上手いこと亀裂を刻んでくれたなぁイザナミよ。
ここまで怒らせたのは上出来だ。ああ、だからこそ言葉も届き易い)」
『怒らせるのが狙いだったのか? 何でまた……』
「(あん? クソガキの言葉を届かせるため、そしてクソガキが何かを言わずに居られない状況を作るためだよ)」
『クソガキって……アリス?』
イマイチ紫苑が何を考えているかが分からない。
本人の中では当然の帰結ではあるが、カス蛇からすれば一体どんな視点でものを見ているのかが理解出来ない。
話に聞けば理解出来るのだろう、紫苑が語ることは往々にして正しい流れに沿っているから。
「(見ろ、このガキ、震えてるだろ?)」
言われるがままにアリスに目を向ければ、彼女は紫苑の胸の中でカタカタと震えていた。
恐れ? いいや違う、恐怖なんて感情で身を震わせるほどにアリスは可愛くない。
「(怒ってるんだよ、どうしようもなく蛭子命達の行動が鼻についてしょうがない。
奴らは"もしも"の自分だ。まあ、クソガキはプライドがあるからここまで無様な真似はしないがな。
そういう意味では奴らとは違うだろうよ。だがクソガキは否定しながらもアレと自分を重ねている。
親に愛されなかったという共通点はどうやっても拭えず、どうしてもダブっちまう)」
アリス・ミラーの心が紫苑のその薄汚い手によって暴かれてゆく。
「(だからこそ、赦せない。自分がこんな無様な真似そするなんて耐えられない。
怒りは生の感情を露にするからなぁ……見てな、コイツ、今から動くぜ)」
「……紫苑お兄さん」
紫苑を見上げるその瞳は爛々と蒼く輝いていた。
美しくもぞっとするような蒼さだ。アリスの静かな怒りをこれでもかというほどに体現している。
「私、行くわ」
「アリス……(な? 分かり易いだろ?)」
戸惑いながらもアリスを抱いていた腕を緩める紫苑。
『分かり易いって……いやまあ、言われてみれば納得だけど……』
皆に縋られて即興で絵を描いたのに、ここまで予測していたのか?
そう考えると最早呆れるしかない。春風紫苑の状況想定能力は気持ち悪いほどだ。
が、何でここまで読めるのに長期的な展望になると何時も駄目になるのだろう。
「……」
無言で蛭子命ら目掛けて歩を進めるアリスに誰もが呑まれていた。
力自体で言えば、彼女を凌駕する者は何人も居るが、これはそういうことではないのだ。
「アリスちゃん危ない!」
麻衣が叫ぶ、アリスを包み込むように触手が展開したのだ。
「……お前もこっちへ来いって?」
何処までも平坦なアリスの声。
「――――ふざけるな根性無しが」
触手はアリスに触れる寸前で弾け飛んでしまう。
もし今のが攻撃用の触手ならばその小さな身体はあっさり貫かれて絶命していただろう。
だが、違うのだ。今の触手はそういう類のものではない。
あれは同族を誘っていたのだ。こっちへおいで、お前の居場所はこっちだよ、と。
それがまたアリスの怒りを掻き立てる。
「……親に捨てられた、虐待された、存在そのものを無視された。
あなた達にどんな事情があるかは知らないし、知る気も無いわ。
だけどねえ……だからってイジケてるんじゃないわよ気持ち悪い!!!!」
犬歯を剥き出しにして怒りを露にするアリス。
彼女にしては珍しいことに、本気の本気でキレている。
それほどまでに目の前の汚物が癪に障ってしょうがないのだ。
「自分が世界で一番不幸だ、みたいな顔して……
ありふれた不幸をひけらかして恥ずかしくないの? ムカツクのよ!!」
アリスの気勢に呑まれたのか、蛭子命が僅かに後ずさる。
沸々と煮え滾る少女の怒りはもう止まらない。
蛭子命が火之迦具土神を殺した時点でブレーキは壊れてしまった。
「……確かに、私もそうよ。親には愛されていなかった、それは認めるわ」
だが、お前達のように醜態を晒してはいなかったと断言出来る。
「だけど! 傷を舐め合うように身を寄せ合って不幸だ不幸だと泣くだけのあなた達とは違う」
「(いや、別ベクトルにグレてたよお前)」
そんな冷め切った感想を漏らす紫苑。
彼だけはこの場で唯一アリスの気迫に呑まれず、心底から白けている。
それが良いことなのか悪いことなのかは語るまでもない。
真っ当な心を持つ人間としては最悪だ。
「私も確かに幾らか無様を晒したわ。愛されなかった事実を真っ向から受け止められなかった。
親を殺して、自分は特別な存在だからこんな劣等共とは違うんだってね。
私は強い私は強い、私は特別私は特別、呪いのように自分に言い聞かせていた」
だからこそ自分より劣る者をとことんまで見下していた。
斜に構えてニヒルを気取る中学生のようなものだ。
それでも自分と同じ境遇の者と傷を舐め合おうなどとは一度も考えなかった。
「あなた達は自分の足で立つのを止めた。だけど、私はそうしなかった。
どれだけ馬鹿らしくても、決して膝を折るような真似はしなかった。
不遇に負けて辛い辛い悲しい悲しいって同族と身を寄せ合い、そこで止まることはなかった。
間違いだらけでも自分なりに必死で足掻いていたとハッキリ言える」
確かに紫苑に出会う前の自分は馬鹿だった。
それでも、馬鹿だけど、まったく見るべきところが無いかと言えばそれは違う。
今になって思うのだ。愚行を犯しながらも生き抜いた時間は決して無駄ではなかったと。
何もかもに心を折ってイジケていたならば決して紫苑には出会えなかったのだから。
「……休日、日曜日なんかに街を歩いていると、仲が良さそうな家族があちこちに居るわ。
パパが居て、ママが居て、当たり前の幸福を享受している子供。
それを見て、当時の私は……確かに心の何処かで嫉妬していたのかもしれない」
かつての己を振り返り、当時は認められなかったことも今では素直に認められる。
アリスは成長している、かつてよりもずっと前に進んでいるのだ。
「それでもあなた達のように目の前で不幸から抜け出た誰かを殺してお前だけ幸せになるなんて赦さない!
なーんて恥知らずな真似をしたことはないわ、一度もね。
一緒にしないで、そんなイジケてる馬鹿と同じだなんて反吐が出るのよ。
ねえ蛭子命、ねえ、名も知らぬ子供達。気分はどう?
火之迦具土神を殺して満足? 別に彼を殺したところで幸せになれたわけでもないのに」
ケラケラと憤怒が混じる嘲笑を放つアリス。
それに呼応して圧力を増す蛭子命、しかし彼女は一歩も退かない。
此処で退いてしまえばアリス・ミラーの矜持が粉々に砕けてしまうから――退くわけにはいかない。
力で負けているからと言って、膝を屈するようならば女が廃る。
愛した男が世界で一番良い男ならば、自分も世界で一番良い女にならねばならない。
そして、こんなところで退くような女は万回生まれ変わっても世界一になんてなれやしないのだ。
「――――根性無しの御馬鹿さん、その腐り切った性根を叩き直してやるわ」




