白い女神Ⅰ
よく晴れた午後、少女は木の下で休んでいた。少女は白に髪に黒の眼という珍しい見かけだった。周りの人は皆彼女が存在しないように、素知らぬフリをして商店街を歩いていく。彼女がいる位置は通りの突き当たりにある山のふもとにある一本で、風当たりがいい彼女のお気に入りの場所だった。普通なら寂しさを感じられるようなこの時は、彼女にとって一番安らげる時で、いつもここに腰かけ空を眺めるのが彼女の日課になっていた。空を眺める必要はないのだが、人々と接触を避ける必要があるので、ただぽぉーと日が暮れるまで眺めるのだ。そして日が暮れ終わったのを見届けると、おもむろに立ち上がり山の中に入って行った。
ある日の早朝 アングウィス群関所
そこを二人の少年が通過した。一人は黒の髪黒の眼、紺色の麻地のマントを羽織っており、もう一人は栗色の髪に琥珀色の眼、からし色の麻地のマントを羽織っていた。先方の名前がリオ。後方の名前がアベル。二人は整った顔立ちをしているが、印象は陰陽と極端に分かれていた。
「はぁ。やっと着いたか。いつ来てものどかな所だ。」
とアベルは商店街の人々に眼を滑らせながら快活な声で言った。それに対しリオは何も答えない。二人の会話は大抵こうだった。アベルは積極的に誰とでも話すのに対し、リオは基本用がない限り口は開かない。まあ、そのおかげで言い争いがない分仲たがいも滅多にすることなくずっと二人で旅をしている。
「それにしても、前より人多くなってんじゃねえか。でも店の数は増えてねえから宿探すの面倒かもな。それで、」
と二人は商店街の人気のない所まで来ると立ち止まった。
「ここ。お前も気付いてるとは思うが、なんか秘密がありそうだな。」
「ああ。なんかあるだろうな。」
「どうすんだ。俺はひとまず食料買うついでにいろいろ聞いてくるが。」
「図書館で調べてくる。泊まるのは商店街の端から一番近い宿。」
と言い残しリオはそそくさと行ってしまった。相方の無愛想な態度を気にすることなく
アベルは食材探しに足を進めた。
夕方 通りの突き当たりの山の麓
リオは宿を探すため商店街の端にある山のふもとまで来ていた。ここから来た道を戻りながら探すほうが効率がいい。早めに宿を確保しないともう太陽が沈みかけている。と行こうとした時、後ろで何かが動いた。振り返るとリオが来る前からずっと寝ていた少女の眼がうつろに開いていた。歳は少し自分より幼いくらいか。白の髪の変わった少女だったが別に用もないし寝ているのを起こすのもかわいそうだとそのままにしていたのだ。少女はうつろな眼でリオを見て、そして太陽を見た。
「んん。は!もうこんな時間!!」
と突然起き上がり、リオを見て少しおびえたように後退し、震える声で聞いた。
「あの・・・役所の方ですか」
と少し潤んだ黒眼でこちらを凝視している。どうやら役所の人間と勘違いし、おびえているようだ。
「役所の者ではない。ただの旅人だ。」
とリオがつぶやくと、おびえた顔から安堵の表情に変わった。それよりと、今までのことに戻る。宿を探さなくては。もう太陽の一部か地平線に隠れている。
「私は急いでいるので。」
と足早に来た道を戻ろうとすると
「ま、待ってください。」
とリオの所まで少女が走って来た。
「あの、旅の人なんですよね。」
「ああ。」
「あの、旅の途中で金色の男の人を見かけませんでしたか。歳は40くらいで、銀色の鞘の刀を持ってる人なんですけど・・・」
と尋ねた。誰か探しているのだろうか。しかし、リオの記憶にそんな男はいなかった。銀の鞘なんて珍しいのを持っている奴がいたら、記憶の片隅には残ってそうだが、どれだけ記憶を掘り起こしても目的のものは出て来なかった。
「悪いが、そんな奴は記憶にない。」
と少し頭を下げ言った。少女はそ、そんなと顔の前で手を激しく振り、
「そうですか。いきなりすいませんでした。」
と山の方へ戻って行った。リオは引っかかるところが多少あったものの、アベルに相談してからのほうが早いと宿を探しに来た道を戻った。
夜 宿「パフィー」
夕食を済ませた後、リオとアベルは向かい合って座った。
「ここのことだが、俺のとこは収穫0。商店街のやつらに訊いてもなにも教えてくんなかった。そっちは。」
「同じく。でも、変な少女に会った。」
と早速夕方会った少女について説明した。
「気になるのは3つだな。一つは髪の色。ここらじゃ白色の髪は見たことが無い。わざわざ白に染める奴はいないだろうし、異国人かだな。二つ目はどうして彼女は一人だったか。俺らより年下っつうことは普通どっかの親元で暮らすはず。なのに日が暮れてその子が向かったのは山。どう考えても普通の奴が山に一人で住むなんて考えられねぇ。三つ目はその子・・・どれくらいかわいかったんだ」
「言いたくない。」
「それくらい言ってもいいじゃないかよ。俺らずっと二人で旅してきたろ。」
「何言っても会いに行きたいんだろ。自分で確認しろ。」
実はアベルは相当の女たらしで、夜いないと思ったらその日会った女と一夜を共にしていたことなど、よくあることだった。絶対言ったら即効で山中を探しに行くだろう。そうなると何よりその少女が不憫だった。
「と、とにかく!明日辺りその娘に会ってみよう。なんか分かるかもしんねぇしな。」
こいつの頭から女という文字が消えることはないのか。リオは相方も不憫でならなかった。
次の日の昼 商店街の通り
午前中は別行動で探索をしていたのだが、収穫はなかった。というより皆一様に何かを隠しているようだった。しかしおびえた顔で嘘をつかれてはもっと訊きだすことも難しい。途中合流した二人は商店街の端に向かっていた。
「訊く奴ら老若男女問わず皆おびえたような顔で「知らない。」っつうから深入り出来ねぇじゃねぇか。ま、なんか裏があるのは分かるがな。」
とアベルは愚痴をこぼした。たしかに分からないこともない。皆人形のように同じ表情、同じ対応をするので、リオ自身も2~3人訊き終わったら、ブラブラ歩いていたくらいである。
「これからは訊くのは止めた方が良いな。疲れるだけだ。」
「ああ。」
「だから、明日からはフリーで良いか?」
「お前はいつでもフリーだろ。」
「厳しいな。あいかわらず。」
軽く話していると手前に木々が見え始めた。木の下には誰もいない。山中にいるのだろうか。
「どうする。いないし。探すか?」
アベルも同じことを考えていたようだ。無言で山中に行こうとすると、
「あれ?昨日の人じゃないですか。」
と奥から声がした。顔を出したのは昨日の少女だった。
同じく昼 通りの突き当たりの山の麓
「へえ。君か、リオが言ってた娘は。」
とアベルが興味深そうに少女を見る。
「名前は?」
「アイリーンです。」
「へえ、良い名前だね。」
「何か私に御用ですか?」
「ああ。ちょっと気になったことがあってね。」
「そうなんですか。旅の方ともなると大変でしょう。なんでも訊いてください。答えられる範囲でお答えします。」
「ありがとう。それじゃ・・・」
と、ここらについていろいろ訊いた。訊いた当初は彼女もアングウィスの人達と同じ反応が返ってくると思っていた。が、アイリーンは悩んだような顔をし、苦笑いで答えた。
「すいません。実は私も分からなくて・・・。私も知りたいくらいです。訊いても何にも答えてくれないんですよね、あの人達。」
「君もアングウィスの人じゃないの?」
「いえ。生まれも育ちも多分このアングウィスです。でも、私髪白いから、皆避けて教えてはくれないんです。」
「いわゆる差別?」
「だと思います。まあ、でも慣れました。」
と笑った。笑顔の中に少し暗い表情が見てとれた。嘘ではないようだ。二人の顔の曇りに気が付いたのか明るく言った。
「あ、あんまり気にしないでください。別に悲しいとか思ってませんから。」
「そう?」
「ええ、なのでお二人がそんな悲しい顔しないでください。」
「分かったよ。」
とアベルは笑って言った。リオも暗い表情は止めた。
「それよりも、すいません。お役に立てなかったみたいですね。」
「ああ、気にしなくていいよ。アイリーンちゃんのせいじゃないしね。素直に答えてくれてありがとう。」
「別にこれぐらいなんでもないです。」
「それより、いつも一人なの?」
ええ、まあとアイリーンは答えた。暗かった表情は元に戻っている。
「小さい頃は結構同い年くらいの人と遊んだりしてたんですけど、今は全然。まあ、この年で遊ぶのも変なんですけど。」
「1日中ずっと?」
「ええ。」
「さみしくないの?」
「そもそもさみしいって気持ちに慣れてないんです。なんせ物心ついた時からずっと一人でしたから。」
とアイリーンは笑って答えた。その顔はさっきよりも明るい。悲観はしていないようだ。見た目よりずっと強い娘なのかもしれない。リオは相変わらず黙っていたが、女好きのアベルにはその顔が悲しそうに見えたのかあわててその場を繕った。
「悪い。変なこと訊いちまったな。ごめん。」
「いえ、全然気にしなくていいですよ。あ、じゃあもう行きますので。」
とリオとアベルの先を見た後、アイリーンは山中へ走って行った。二人が後ろを振り返ると一人の男が立っていた。服装からして役所の人間のようで、顔が険しい。男は視線に気づいたのか視線は山のまま二人に話しかけてきた。
「あの子とは知り合いなの?」
「あの子って。」
「ほら、さっき話してた白い髪の子。」
「ええ、まあちょっと。」
アベルの答えに男の顔がより一層険しくなった。そしてトーンを落としてこう言った。
「君達旅人だから知らないだろうけど、あの子には気をつけた方が良いよ。呪われてるから。」
「呪われてるって。」
「アングウィスでは有名だよ。皆あの子のこと『呪われた子』って呼んでるよ。」
「なんで呪われてるんですか。」
「なんでって・・・それは・・・まあ、とりあえず気をつけてね。」
とそう言い残し男も山中に消えた。残ったのは
「呪われてるって無茶苦茶失礼じゃないか、あいつ。男の風上にも置けない奴だな。」
と怒り震えるアベルと無言で山を見つめるリオだけだった。
「どうしたのか?気になるのか、彼女のこと。というかお前もなんか喋れよな。気遣うとかなんか。だから・・・・・」
と愚痴をこぼすアベルの横でこれまで一言も喋らなかったリオは180°回転し元来た道を愚痴を聞きながら戻って行った。
夕方 山の中
アイリーンは一人で歩き回っていた。リオとアベルに離れてから一回も歩を休めることなくもう3時間も山中をぐるぐる回っている。それには理由があった。後ろから男がついてきているのだ。30歳前後の男もアイリーンに合わせて30m後から歩いている。見たところ役所の人間だ。話しかけないところからすると、アイリーンの家を突き止めたいようだ。やっぱり自分はいつまでたっても追われる身なのだ。ならば、解放されるその日まで逃げ延びてやる。それが彼女の精神そのものだった。そのために彼女は剣の力を磨いた。いつでも自分を守れるために。誰かも分からない敵から逃げ延びるために。そして、彼女はひたすらに歩を進めた。
翌朝 通りの突き当たりの山の麓
リオとアベルはもう一度アイリーンに会うためいつもの場所にやって来た。というより
「あの時あの男はアイリーンちゃんを捜しに行ったみたいだった。だとすると、あの言い方だと何かされたかもしれない。女の敵は俺が排除する!!!」
とアベルが昨日帰ってからずっと意気込んでいるのを鎮めるため、という説明の方が正しいだろう。実際リオ自身も少しは気になっていた。しかし、アベルと女がらみで意気投合するのも癪なので、固い口はより一層言わまいと閉ざしている。しかし、行ってみても彼女はその場にはいなかった。午前中は来ないのかもしれない、そう思い出直そうと来た道を戻ろうとすると、
「あの子、今朝役所の人達に連れてかれたらしいよ。」
「良かったわ。これでアングウィスも安泰ね。」
「すいません。それって誰のことですか。」
とアベルが話している女性達に声をかけた。格好から旅の人と安心したのかまるで聞いて欲しいと言わんばかりに話し始めた。
「ほら、多分あなた達も知っているでしょう。いつもここら辺にいる白髪の少女。」
「ええ、見たことあります。」
「あの子昨日役所の人間に連れてかれたのよ。」
「彼女は神へのいけにえだから。」
「神へのいきにえってどういうことですか。」
「彼女はここらのアングウィスに古くから決められているこのアングウィスの神、龍へのいけにえの女なの。」
「そう、このアングウィスの一番の美人の母親が産んだ子がいけにえに選ばれるの。」
「でもいけにえっていうのがばれると逃げ出したりして面倒なことになるから、アングウィスの人たちは神に差し出される日まで内緒にしておくの。」
「でも、いけにえがいるから神がアングウィスに幸福をもたらしてくれるから、その子にはかわいそうだけど『呪われた子』って呼んで皆から隔離して潔白な状態にしておくの。もちろん逃げ出すのも禁止。」
「私達はもう何百年もこうして来たのよ。でも彼女の場合親を早くに亡くしているから、少しかわいそうだったけどね。」
「でもアングウィスのためだもの。この前なんか、いけにえがずっと差し出されてないから怒って地震さえもあったのよ。ふるさとのためだから仕方ないわ。」
紅潮する女性達の横で男達の頬はみるみる青ざめていった。耐えきれなくなったのか、アベルが切羽詰まった声で問いかけた。
「それで・・・今彼女はどこに・・・」
「どこにって・・・多分向こうの商店街の端にある谷だろうけど・・・」
「今行ってももう遅いわよ・・・」
と話す女性達を無視しアベルとリオは急いで走って行った。
「んで、役割分担、どうする?」
とアベルが先を行くリオに声をかけた。少し待って、
「谷ってことは、落とされる確率が高い。俺が落ちるから後頼む。」
「ったく、いっつもお前っていいとこ取りするよな。おかげで良い格好できねえじゃねえかよ。」
「それはお前が俺より弱いからだ。もっと強くなればいいだけだろう。」
「ったく、それが後を任せる相棒に言うセリフかよ。」
「喋らず走れ。」
リオの言葉にアベルはぐうの音も出なかった。
朝 いけにえの谷
周りの騒がしさでアイリーンは眼が覚めた。寝ぼけ眼で辺りを見回すと、そこはいつもの森の風景ではなく、どこか別の場所だった。眼の前には谷がある。
(そういえば私・・・昨日付いてきた男に・・・)
昨日、リオとアベルと別れた後、アイリーンは2~3時間ほど役所の人間から逃げていたが、その後新たにやって来た他の役所の人間らに囲まれ、有無を言わせぬままここに連れて来られたのだ。
(これから私、どうなるんだろう・・・まさか、なんか変なことされないよね・・・でも、多分・・・大丈夫・・・だよね・・・)
と思わずにはいられなかった。アイリーンが起きたことに気付いたのか、近くにいた役所の人間が睨みつけながらこっちを見てきた。
「起きたのか。」
「ここは、どこ?」
「初めてアングウィスの役に立てる場所だよ。」
と笑いながら別の役人の元へ歩いて行った。おそらくアイリーンが起きたことを伝えに行ったのだろう。一人の男が近づいてきた。昨日ついてきた男だった。
「眼が覚めたか。」
「はい。ここはどこですか。」
「まあ、何をされるかぐらいは言ってもいいだろう。ここは「いけにえの谷」。我がアングウィスの神、龍がいる谷だ。」
龍、とアイリーンはつぶやいた。そういえば昔一度だけ聞いたことがあったっけ、と思考を巡らせてみる。確か神にいけにえを捧げるとその村は豊かになると昔から色んな所
で伝えられている。
(いけにえってことはその神、龍に何かを捧げるんだよね。確か大体のやつは若い娘を捧げるって・・・若い娘・・・)
「って、もしかして私龍に捧げられるの!?」
「察しが良いな。そうだ。お前はこれからアングウィスのために龍の元へ行くんだよ。まあ、こんな高さから落ちたら、龍の所に行く頃にはあの世に行ってるだろうがな。」
体が震えるのを感じた。自分はこれから死にに行くんだとアイリーンはおびえた。突然恐怖の波がどっと押し寄せてきた。逃げようとするけれど手も足も縄できつく縛られていて、無理に動かそうとすると手足がちぎれてしまいそうなくらいだ。それにもし縄をほどけたとしても周りには役人が数十人といる。武器のないアイリーンにとってそこは何人もの騎士に囲まれた赤子のようだった。
(何もせずただ死ぬのを待ってるだけだなんて・・・)
涙も出なかった。そもそも泣くことにさえ慣れていなかった。神様などいないのかもしれない。ああ、どうせ私はこうなる運命だったのかもしれない。だから、少しでも「死」という重みを軽くするために、過去にすがらないようにするために、神様は私に冷たいのだろう。私はいつまでたっても恵まれない子なのだ。神様の加護など一切受けられない子なのだ。それなら、それに従うのが一番私にとって良いことなのだろう。アイリーンはただ静かに死の時を待つことにした。起きてからどれくらい経っただろうか。役所の人間達がざわざわし始めた。そして、アイリーンの横にいた男が崖のギリギリ間近までアイリーンを連れて行った。
「もう、これでお別れだな。まあ、龍にせいぜい大切にされるんだな。」
とアイリーンを蹴落とそうとしたその時、
「お前、今はいけにえを捧げているところなんだぞ。さっさと帰らないか。」
と荒い大声が聞こえた。そして、次の瞬間には止める声全てが悲鳴に変わった。横の男は焦るようにアイリーンを蹴った。ギリギリ落ちる前に見えたのは、役所の人間と戦っているアベルと、こちらに向かって走ってきているリオだった。
「神様ってやっぱり悲しいことだけ与えるんじゃないんだ。」
と無意識に呟いてしまった。しかし、いくらリオとアベルが助けに来たと言っても、さすがに落ちてしまえば死は免れない。けれど、最後に自分の事を思ってくれる人がいてくれたことはアイリーンにとっては一番の喜びだった。せめて彼らだけでも無事で・・・
そう思った時、アイリーンに影が落ちた。そして、次の瞬間にはアイリーンはリオの腕の中にいた。
朝 同じくいけにえの谷
商店街の端まで向かうと多くの人達が群がっていた。それをなんとか押しのけるようにリオとアベルはなんとか中心まで行った。集団を抜けると、多くの役所の格好をした男達と、崖の間近で遠くを見つめている少女の姿が見えた。なんとか間に合ったようだ。
「んじゃ、そっち頼むぞ。絶対女を傷つけることだけは許さねえぞ!」
と後ろで叫ぶアベルの声に押されるように男達を掻き分けて前へ進んだ。崖まではあと少しだ。その時、アイリーンの隣の男がアイリーンを蹴った。こんな高さから落ちたら、誰であっても死んでしまう。どうしてもそれだけは避けたかった。そして、リオはアイリーンを落とした男に一発かまし、崖から落ちて無意識にアイリーンを抱いた。
(死ぬなよ・・・)
と心の中で呟きながら、下だけを見据えていた。
夕方 谷底
アイリーンが目覚めた時、自分に何が起きているのか分からなかった。手足の縛られた跡を見て、ようやく今までの事が思い出せた。しかし、辺りを見回してもだれもいない。(まさか・・・ここが黄泉の国ってやつなんじゃ・・・)
と不安に駆られながらも、立ち上がって洞穴から出ると、川に一人の女性がいた。アイリーンに気付くと、
「目が覚めたんですね。」
と持っていたかごを置き、近くまでやって来た。
「ここは一体・・・」
「ここは、あなたが落ちた谷の底です。いまお連れの方を呼んできますね。」
と足早に行ってしまった。少なくとも自分は死んではいないようだ、そのことにほっとした。しばらくすると、リオが戻ってきた。服も落ちる前に着ていたものとは違っていた。自分のも別の服に変わっていた。アイリーンの視線に気づいたのか、
「自分達は川に落ちたんだ。」
と川を指しながら言った。落ちる瞬間アイリーンは目をつぶっていたが、水音だけは確認していた。あれは自分達が川に落ちた時のだったのか。
そう考えていると、リオがいつの間にか近くに寄っていた。そして、
「無事でよかった。」
とアイリーンの頭を撫でた。彼女自身撫でられることには慣れていなかったが、心地いい何かを感じた。
「でも、どうして私なんかのために・・・」
「人助けに理由がいるのか。」
とアイリーンの顔を覗き込む。まだ手は頭を撫でている。たまらなくなり、アイリーンは別の疑問を口にした。
「それより、あなたは誰ですか?」
「私はエリア。私もあなたと同じいけにえにされた娘なんです。といっても、もう今ではおばさんですけどね。」
と言う彼女の顔も確かに昔は相当美人だった面影が残っている。
「でも、私もですけど、龍に捧げられたんじゃ・・・」
「それは洞穴の中で話しましょう。役人に下をのぞかれる前に。」
と言われるままに、三人は洞穴へと入った。
夜 谷底の洞穴
夕食を済ませた後、さっそくエリアは本題に入った。
「確かに100年くらい前にはアングウィスに龍もいたそうです。けれど、実は龍はずっと前に亡くなっているんです。」
「え、でもアングウィスの人達は龍を信じていましたけど・・・・」
「それは仕方のないことです。確かに龍がいたのですから。でも、ここは神聖な場所として普段は立ち入れない場所なので、龍がいなくても気づかないんですよ。現に私が生きているのもアングウィスの人達は誰ひとりとして知らないでしょうね。」
「なら、もうこのいけにえは無意味なんじゃあ・・・」
「確かに、意味がありません。しかし、止めさせるためには、アングウィスの人達がもう龍はいないのだと分からせる必要があります。ですが、私がアングウィスに戻れないのです。」
「それは、なぜなんですか。」
「じつは、この谷底から戻る手段が分からないのです。崖をよじ登るわけにもいきませんし、かといって、他に抜け道が見当たらないので・・・」
ということはここでずっと何十年も暮らしているのだろう。想像するだけで胸が締め付けられる。明日は自分も探そうと決意したとき、リオがボソッと呟いた。
「帰れる方法なら見つけた。」
ええっと驚いたのはアイリーンの方だった。エリアも声には出さないものの驚いているのが顔で分かった。
「でも、私もずっと探しているのに・・・」
「確かに、見つかりにくいところだが、女でも充分帰れる。」
「じゃあ・・・戻れるんですね・・・良かった・・・」
とエリアが静かに涙を流した。アイリーンも泣くかわりに安心したのか急に眠気が襲ってきた。そして、知らないうちに夢の世界に引き込まれていった。
翌朝 谷底の洞穴
日の光で目が覚めると、そこにはリオもエリアもいなかった。知らず知らずのうちに寝てしまったのかもしれない。上には毛布が掛けられていた。
「おはようございます、アイリーンさん」
と外からエリアが姿を現した。手には木の実で一杯のかごがある。
「すいません、知らないうちに寝てしまったみたいで。」
「別にいいんですよ。それより、歩けそうですか。もうここを発つそうなので。」
「あ、はい。わかりました。」
と渡された服を手に立ち上がった。洞穴を出て、川に沿って進んでいく。しばらくすると、リオが立っていた。向こう側にはさっきまでいた洞穴とはまた別の洞穴があった。
「これが、アングウィスにつながってるの?」
「ああ、階段がある。」
「それじゃあ、行きましょうか。」
と3人は中へ入って行った。中には細い螺旋階段がある。
「それにしても、こんな階段があったなんて。」
「私も初めて知りました。」
「いつもは洞穴の入り口の前には木が立っているが、前の地震でどうやら倒れたようだ。」
それをどけてのぞくと階段があった、とリオは言った。手には、どこにあったのか、懐中電灯が握られている。
少し登ると、階段が途中で途切れていた。上を見ると、少し光が漏れている。それを押して3人は地上へ出た。そこに待っていたのは、役人達とアベルの姿だった。
昼 いけにえの谷
階段を登り終えると案の定役人達がいた。アベルは縄で縛られている。
「お、お前達・・・どうやって上まで・・・」
役人達の顔がみるみる青ざめていく。そんななかアベルの怒ったような安堵したような顔だけが少し赤い。
「ったく。遅ぇんだよ到着が。」
「悪かった。でも、もう縛られてるフリはいいだろ。こっちに来い。」
と手招きをする。アベルは少し間を置き平然と縄をほどいて歩いてきた。やっぱりな、とリオは思った。アベルがそんなに簡単にやられるはずがないのだ。どうせ自分が飛び降りた後で、弱いフリをして捕まっていたに違いない。役人達をここへ留まらせたのもアベルだ、と直感でそう思った。そのアベルは今はアイリーンとエリアに声をかけている。
「んで、無事ってことは、龍なんてのはいなかったわけだな。」
ええ、と答えたのはリオではなく、エリアだった。そして、彼女はリオとアイリーンに話したのと同じことをアングウィスの役人に伝えた。彼女の顔からは、今までの苦労と分かってもらいたいという強い意志が見て取れた。
翌朝 宿「パフィー」
あれから2日経った日の早朝、リオとアベルは出立の準備をしていた。
「それにしても、また早めに出ちゃうのかよ。」
「仕方ないだろう。大抵の奴らが変に礼なんかするから。」
「もらえる物ならもらえばいいのに。」
アベルの意見も一理あるが、リオ自身は礼のためにやってるわけじゃないので、変に礼をもらってもリオにとってはありがた迷惑になる。しかし、実を言うと照れくさいのが大元の理由である。
「ったく、ここでは忙しくて全然女の子と話できなかったし。」
「そう思ってある子を呼んである。」
とリオが戸口を見た。つられてアベルも見る。すると、
「お・・・遅れて・・・・すいません・・・・」
と入って来たのはアイリーンだった。昨日の夕べリオとばったり会ったアイリーンは、一緒に旅に連れて行ってほしいと頼んできたのだ。
「せっかくアングウィスの奴らと上手くいけたのに良いのか。」
「でも、私どうしても探したい人がいるんです。旅をしてたらどっかで会うかもしれない。その時に訊きたいことがあるんです。お願いします。」
と言うアイリーンに押され、半ば強引に約束してしまったのである。まあ、アベルが反対するわけがないし、リオも別に困るようなことはなかったので、良しとしたわけである。
「そういえばあれからどうしたんだ。」
「あ、アベルさんは尋問受けてましたもんね。一応役所の人達が龍がいないっていう事実を認めて、アングウィスの人達に伝えたみたいです。最初皆動揺してたけど、いないからって言っていけにえの制度が無くなるだけなので、軽い感じですぐ打ち解けることが出来ました。」
そして、エリアは今は親族のところで、アイリーンは今まで通りアングウィスの人達の援助も受けながら生活してるという。
「でも、どうしても見つけたい人がいるんです。そのために旅に同行させて欲しいんです。どうか、よろしくお願いします。」
「ああ、それなら全然構わないよ。逆に華やかになって良いんじゃないのか。ちゃんと目的があるみたいだし。それじゃよろし・・・」
と握手をしようとしたアベルの手を払い、リオはアイリーンの手を取り戸口へ向かった。
「ったく何すんだよ。」
「お前が考えてることなんてお見通しなんだよ。」
と冷ややかに笑った。
「アングウィスの奴らが起きてくるぞ。」
「チクショー」
面白い旅になりそうだとアイリーンは未来に心を弾ませていた。