おじさんアイドル猫ちゃんズ
俺、おっさん。
小野寺浩一、45歳。
俺はいわゆる「谷間の世代」ってやつを生きてきた人間だ。
バブルの熱狂には間に合わず、かといって個人の自由やコンプライアンスに手厚く守られた現代の若者世代でもない。
旨味も保護もない、まさに氷河期の真っ只中を這いつくばってきた…
中途半端な世代だな。
それでも俺は、時代に取り残されまいと必死に生きてきた。
アナログからITへと急速に移り変わる波にしがみつき、夜を徹して新たな技術を身につけた。
独立して立ち上げたITの小さな会社は、最初は順調そのものだった。
勢いに乗って結婚し、念願の子供にも恵まれた。平凡で特に自慢出来るようなことはないが、人生のピークは間違いなくそこにあった。
だが、時代の変化は速すぎた。
クラウド化とAI技術の台頭、大手の価格破壊。
かつて苦労して身につけた技術はあっという間に陳腐化し、受注した大型の案件では、クライアント側の土壇場での仕様変更と納期短縮に振り回された。
外注費は跳ね上がり、徹夜続きの現場でシステム障害が多発。
損害賠償と資金枯渇が同時に押し寄せ、俺の会社は呆気なく倒産した。
積み上げてきた十数年が、崩れるときは一瞬だった。
その後は泥沼だった。
40代半ばを過ぎた男の再就職は想像以上に厳しく、書類選考すら通らない日々。
日に日に冷たくなっていく妻の視線。
ついには離婚届を突きつけられ、俺は家庭も仕事も、すべてを失った──
──あーあ…
人生ままならねぇ。
項垂れたまま、夜の街へと繰り出す。
惨めで、情けなくて、頭がどうにかなりそうだった。
とにかく誰でもいいから愚痴を聞いてほしかった。
暖簾をくぐったのは、路地裏にある小さな個人経営の居酒屋だった。
カウンターの端に腰を下ろそうとしたその時、見覚えのある男の背中が目に入った。
――峯岸だ。
かつての部下。
仕事では失敗ばかりで、俺がどれだけあいつのケツを拭いて回ったか分からない。
それなのに本人は反省する素振りも見せず、いつもどこかひょうひょうとしていた。
平成生まれ特有の、あの掴みどころのない軽さ。
……そういえば、あいつは俺の会社が傾き始めた頃、気がついたらあっさりと辞めていたはずだ。
今は何をやっているのやら。
俺が声をかけようと近づくと、峯岸は俺の顔を見るなり、あからさまに嫌そうな顔をして立ち上がろうとした。
「峯岸、久しぶりだな。最近どうしてるんだ」
俺は構わず話しかけた。
誰でもいいから話したかった。
知ってるやつなら尚更だ。
「え、いや……よく峯岸に間違えられるんすけど、人違いっす」
「お前、分かりやすくボケんじゃない」
「わー、勘弁してくださいよ。前の会社の上司に絡まれるなんて、何の罰ゲームっすか」
「そんな事言わずに座れよ。まあ飲もう。俺が奢ってやるから」
「……じゃあ、オッケーっす」
(相変わらず、なんだ、こいつは……)
席に着くと、俺はこれまでの落胆や今の悲惨な状況を、溢れ出るようにぶちまけた。
酒の勢いも手伝って、普段なら口にしないような弱音までベラベラと喋っていた。
峯岸は片手でスマホをいじりながら、「へー」「大変すね」と興味なさそうに相槌を打っているだけだった。
だが、俺が一通り吐き出し終えてビールのグラスを傾けたとき、峯岸がふっとスマホを置き、こちらを正面から見見据えた。
「小野寺さん、俺の会社来ますか?」
峯岸は呆然とする俺を見てニヤりと笑うと、ポケットから名刺入れを取り出し、一枚差し出してきた。
「俺、プロダクション会社を友達とやってるんすよ」
受け取った名刺には、横文字が並ぶ小難しそうな社名が書かれていた。
「クリエイティブ、フロンティア、メディア…」と、俺が名刺を顔から離しながら読んでいると、
「ま、簡単に言えばアイドル養成して、そいつらをドル箱にして稼いでるんすよ」
「……簡単に言い過ぎだろう」
「あはは、でも事実っすから。あ、でもアイドルっつっても従来のじゃなくて、それぞれに緻密なキャラクター設定をして、そのキャラクターとして振る舞ってもらう形なんすけどね」
峯岸は俺の呆れ顔など気にも留めず、楽しそうに続けた。
明確な世界観でグループを作り、そこにキャラクター付けしたアイドルを配置する。
例えば、今ネットで爆発的な人気を誇る『萌⭐︎んスター』というグループには、モンスターをモチーフにした配役がなされている。
ドラキュラ、ミイラ男、オオカミ男――見た目はそれぞれのモチーフを忠実に再現した衣装やメイクでありながら、同時に圧倒的なイケメンさを際立たせているのだという。
「……まあ、2次元コンテンツのライブ感版というか、今更感もあるが、そんなのがウケてるのか?」
思わず本音が口から漏れた。
「めっちゃ、ウケてます。実際、動画の再生回数もグッズの売上も半端ないっす。今の時代、なんでもAIじゃないすか。でも結局、最終的にファンが金を払うのは『生の人間』なんすよ。人間らしい不完全さとか、生々しさ、泥臭さ……そういうのが求められてるんすよね」
「……そういうもんか」
俺は素直に頷いてみせた。
俺たちのような「谷間の世代」の強みは、こうした柔軟性だ。
バブル世代のように己の成功体験や持論を展開して相手を制圧しようとはしない。
常に時代の変化を冷ややかに観察し、受け入れる冷静さと柔軟性を備えている。
それに、かつてはヘタレだった峯岸の目がこんなにも活き活きとしているのを見ると、元上司としてどこか応援してやりたくなる気持ちも湧いていた。
「……なるほどな。それで、俺にその会社の経営補佐でもしろって話か? 管理会計や組織の穴埋めなら、俺の経験が役に立つかもしれないが」
「違います」
「……え? じゃあなんだ、現場のマネージャーか?」
「アイドルの方っす」
――ブーッッ!!
俺は口に含んだばかりの生ビールを、勢いよくカウンターへ噴出させた。
「すみません、本当にすみません……!」
俺は店主から台拭きを借りてカウンターを必死に拭きながら、何度も頭を下げた。
一息ついてから、隣の峯岸をキッと睨みつける。
「……お前、今なんと言った?」
「だからっすね、今新しく立ち上げ中のグループで、『イケメンお兄さんと猫ちゃんズ』っていうののメンバーを探してるところなんすよ」
「イケメンお兄さん……?」
俺は思わず口角が上がるのを抑えきれなかった。
自分で言うのもなんだが、若い頃からイケメンとまではいかずとも、相応にいい歳の重ね方をした悪くない顔立ちだという自負はある。
40代半ばの渋みというか、大人の哀愁のような魅力が評価されたのだろうか。
─そうか……峯岸のやつ、昔はポンコツだったが、なかなか見る目があるじゃないか。
俺はすっかり気持ちよくなって、再びビールを口に含んだ。
「で、小野寺さんには、その『猫ちゃん』になってもらいたいんす」
――ブーーーーッッ!!
本日二度目の惨劇が巻き起こった。
カウンターに派手に撒き散らされた泡と液体。
俺は慌てふためき冷や汗をかきながら、「本当にすみません! 弁償します!」と店主に平身低頭で謝罪した。
拭き掃除もそこそこに、俺は胸ぐらを掴まんばかりの勢いで峯岸に詰め寄った。
「ね、猫ちゃんだと?! お前、正気か!?」
「そうっす。猫ちゃん役に相応しい逸材を、ちょうど探してたんすよ」
「お前……さては俺をからかってるな?」
「違いますよ、超本気ですって! いいですか、世の中の課金対象として『猫』と『イケメン』は常にトップに君臨する最強のコンテンツなんすよ。その二つを掛け合わせたアイドルグループなんて、絶対にウケるに決まってるじゃないっすか!」
「それは本物の『可愛い猫』の場合だろ! 誰が好き好んで、おっさんのイタいコスプレ猫に投げ銭なんてするんだよ!」
「あ、そこは全っ然心配ご無用っす。映像はちゃんとデジタル加工して、めちゃくちゃ可愛く補正しますんで」
「……さっき『生の人間らしい泥臭さが受ける』とか言ってたくせに、速攻で加工するのかよ!」
「ええ、まあ。そこはハイブリッドってことで」
「ハイブリッドって……。だとしてもだ! 他の若いイケメンメンバーから見たら、俺はただの『猫耳をつけた痛いおっさん』じゃないか! 一緒に活動できるわけないだろ!」
「それも全然大丈夫っす。撮影は全部別撮りなんで。今の時代、メンバー同士のスケジュール調整とか人間関係のトラブルとかでグループ活動が停滞するのってリスクなんすよね。だから全部グリーンバックで個別撮影して、後から同じ空間にいるみたいに動画編集するんで。他のメンバーと顔を合わせる必要すらないっす。小野寺さんの都合に100%合わせられますよ」
「……そう、なのか……?」
呆然とする。
それほどまでにゴリゴリのデジタル技術と合成を駆使するなら、そもそも生のおっさんを起用する必要すらあるのだろうか?
それに、加工されるとはいえ、この俺が「猫ちゃん」としてカメラの前でニャーニャーと演じられるのだろうか?
――いや、待てよ。
そもそもこいつ、会社時代の俺への恨みを晴らすために、巧みな嘘で俺を担ぎ上げて辱めようとしているんじゃないだろうか……?
怪しさしかない。胡散臭すぎる。
だが――。
ふと、ポケットの中のスマートフォンに意識が向く。
届かない不採用通知。
ゼロになった収入。
家族に見捨てられ、一人きりの生活。
残されたローンの山。
これから先の残りの人生を考えた瞬間、猛烈な不安と恐怖が冷や汗となって背中を駆け抜けた。
背に腹は代えられない。
背水の陣どころか、俺はもう崖っぷちから足を踏み外しかけているのだ。
「……で、どうします? やります?」
峯岸が、ニヤニヤと楽しそうに俺の顔を覗き込んできた。
「……お願いします」
プライドも何もかも捨て去り、俺は絞り出すような声でそう答えていた。
♢♢♢
「……はぁーーーっ」
重く、深い、魂の抜け出たようなため息が漏れた。
俺はアコーディオンカーテンで仕切られた着替え用の狭いスペースで、手渡された衣装を着終えたところだった。
恐る恐る、壁に掛けられた姿見に視線の向ける。
鏡に映っていたのは――頭にピンと立った猫耳を生やし、全身をふわふわの猫の着ぐるみで包んだ、くたびれた中年男だった。
……絶句。
我ながらゾッとする。
地獄絵図とはまさにこのことだ。
今日は「猫ちゃんズ」としての初仕事の日だった。指定されたビルに到着すると、スタッフと思われる女性にこの衣装を手渡され、そのまま着替えを命じられたのだ。
「小野寺さん、着替えが終わりましたらPR写真の撮影を行いますので、メインフロアにお越しください。今日は初日ですので、メンバーとの顔合わせもあります」
カーテン越しに届いた女性の声に、俺はもう一度盛大なため息をつきながら「はい」と返事をする。
姿見の中の痛々しい自分を見つめ直し、意を決してフロアへと足を進める。
(……メンバーに会わなくていいって言ったのはどこのどいつだ、峯岸の野郎……!)
俺は心の中で元部下へ毒ついていた。
だが、重いドアを開けてフロアに入った瞬間、俺の思考はピタリと停止した。
広々としたスタジオのようなフロアの中央にいたのは――モデルのような圧倒的オーラを放つ一人のイケメンと、フロアの床で思い思いに毛づくろいをしている『本物の猫』が二匹。
「……???」
頭の中がパニックを起こしていると、奥のドアからパンパンと手を叩きながら峯岸が入ってきた。
「はい! 皆さんおはようございます! 今日から正式発足する新グループ、『イケメンお兄さんと猫ちゃんズ』のメンバー顔合わせになりまーす! こちらが『イケメンお兄さん』担当の尾崎俊さん。そして『猫ちゃんズ』のネジ、クギ、そして小野寺浩一さんです!」
パチパチパチパチ……!
フロアにいたスタッフ数名から、温かい拍手が湧き起こる。
「イケメンお兄さん」の尾崎も、爽やかな笑顔で拍手を送っている。
足元ではネジかクギのどちらかが「ニャー」と短く鳴いた。
(いやいやいやいや……!!)
猫の着ぐるみを着た45歳のおじさんは、その場に固まったまま心の中でツッコミを入れた。
─本物の猫二匹と、着ぐるみのおっさん一人。
どこをどう縦に振ったらこれが同じ「猫ちゃんズ」というカテゴリに分類されるというのか。
怒りと羞恥心で顔を真っ赤にした俺は、峯岸を鋭く睨みつけ、胸ぐらを掴んで問い詰めようと口を開かけた――その時だった。
「小野寺さん、尾崎です。今日からよろしくお願いします!」
尾崎が、一切の迷いも嫌悪感もない完璧なイケメンスマイルを浮かべ、すっと右手を差し出してきたのだ。
後光が差すほどの眩しさと、あまりに自然なプロ意識。
着ぐるみの中で変な汗をかいている俺は、差し出されたその綺麗な手と尾崎の顔を、ただただ呆然と見上げることしかできなかった。
ネジは茶トラ、クギは三毛の、正真正銘本物の猫だった。
スタジオの床で毛繕いをしたり、ごろんと寝転がったりと、実に気ままに過ごしている。
そしてそのすぐ横に、偽物の猫の着ぐるみを着た中年男が、体育座りで硬直している。
そんなあまりに狂気的な光景に、カメラマンがレンズを向けた。
「小野寺さん、もうちょっとリラックスしてください! 愛らしく……そうですね、コロンと寝転がってみましょうか! あ……それとも、猫同士でいい感じに戯れ合ってみます?」
「おい、テーマは『癒やし』だぞ。いいか? 愛らしさを全面に出した構図で撮れよ」
横から峯岸が、さも名プロデューサー気取りでカメラマンに指示を飛ばす。
「分かりました! じゃあ真ん中に尾崎さんが入ってください。そうだな……好きな猫ちゃんを抱っこして!」
「はい!」
立ち尽くす俺に向かって、尾崎がすっと手を伸ばし、俺の腕をやさしく引っ張った。
「さあ、こっちにおいでー」
完璧なイケメンスマイルで、俺を甘い目で見つめてくる尾崎。
「っ……!?」
呼吸が止まる45歳。
中年男の心臓が、変な跳ね方をした。
「硬くならないで。さあ、膝に乗ってごらん?」
尾崎はそう言いながら、戸惑う俺を当たり前のように自分の膝の上へと誘導した。
体重数十キロの着ぐるみのおじさんを、彼はさも子猫でも抱くかのように優しく膝に乗せ、包み込むように抱きかかえる。
「いいね! すごくいい構図だ!」
パシャ! パシャ!
「可愛いよー! 猫ちゃんズ! すごく可愛い!」
パシャ! パシャ!
(……なんだ、これは……俺は一体、何をやっているんだ……?)
パシャ! パシャ!
「小野寺さん、笑ってー!」
パシャリ!!
フラッシュの光に包まれながら、俺の意識は遠のいていった。
♦︎
撮影が終わった時、俺は完全に魂が抜け出たような顔をしていたと思う。
頭の中は「一体どうなっているんだ」という言葉で埋め尽くされていた。
呆然と床に座り込んでいると、足元にネジとクギがトコトコと歩み寄ってきて、すりすりと身体を擦り寄せてきた。
「……ミャー」「ミャー」
本物の猫たちに励まされているのだろうか。
惨めさと可愛さが渋滞して頭がどうにかなりそうだった。
そこへ、パンパンと手を叩きながら峯岸が歩み寄ってきた。
「お疲れ様でした、小野寺さん! さっそく次の動画撮影に行きましょうか!」
「……っちょっと待て! 峯岸、色々聞きたいことがある! 話が違いすぎるだろ!」
「質問は後にしてください。この後の予定が詰まってるんで」
「初日は挨拶とPR写真の撮影だけ」と言っていたはずなのに、峯岸は俺の反論に耳を貸さず、有無を言わさずスタジオ裏に停められたハイエースへと俺を押し込んだ。
そこからはまさに怒涛だった。
着ぐるみ姿のまま有名観光スポットへ連れて行かれての動画撮影。
地元のローカルテレビ番組への生出演。
さらにはエンタメ雑誌の緊急インタビューまで――。
「イケメンお兄さんと、個性豊かな3匹の猫ちゃんたちです!」
紹介されるたびに、俺はカメラの前で必死に「ニャー」とポーズを取らされた。
目が回りそうなほどの過密日程。
小野寺浩一、45歳。
人生で最も長く、最も狂気に満ちた初日の仕事は、夜遅くまで延々と続いた…
♢♢♢
『話題急上昇の新星アイドルユニット!』
『イケメンと猫の癒やしの暴力!』
『1万年に一人の萌猫に癖が歪む人続出!?』
そんなパワーワードの数々と共に、『イケメンお兄さんと猫ちゃんズ』の動画切り抜きがSNS上に怒涛のごとく流れ出すまでに、そう時間はかからなかった。
現代のネットの拡散力は凄まじい。
あっという間にトレンドのトップを独占し、街の至る所で話題の中心となった。
「ねえ、知ってる?『猫ちゃんズ』」
「当たり前じゃん! 超可愛いよね、小野寺さん!」
「分かるー! イケメンとのあの絵面がもうヤバいんよ」
「うん、エグい。マジで沼」
私服で外を歩いていた俺の耳にも、通りすがりの女子高生たちの会話がはっきりと届いていた。
(……え? 小野寺さん? 俺のこと……?)
嫌な汗が背中を伝う。
その時、彼女たちの一人とバチッと目が合った。
「あ! ちょっと待って、あれ小野寺浩一さんじゃない!?」
「えっ、嘘!? 本物!? 猫ちゃんズの!?」
「ヤバいヤバい! 写真撮らなきゃ!」
キャーッと歓声を上げながら駆け寄ってくる彼女たちが、興奮気味に突き出してきたスマホの画面。
そこに映っていたのは――
一切の加工が施されていない、生々しい無加工のまま、猫の着ぐるみ姿でイケメンに愛おしそうに抱っこされている、リアルな中年男の姿だった。
「――っっっ!!!!」
(峯岸ーーーーーーーっっっ!!! 加工はどうしたぁぁぁぁぁ!!!!!)
俺は心の中で絶叫すると、弾かれたようにその場から逃げ出した。
通りを行く人々が驚いた顔で振り向く中、着ぐるみでもない、ごく普通の私服を着た40代半ばのおじさんが、亡霊のような凄まじい形相で街を大疾走する。
……ちなみに、この「大注目の中年男の全力疾走」の一幕が目撃者たちによって撮影され、直後に「生・小野寺さんのファンサが激しすぎる」「リアル小野寺浩一の逃亡撃」として爆発的に拡散されたのは、また別の話である。
◇
ハァッ……ハァッ……ハァッ……!
命からがらアパートの部屋に辿り着き、扉を勢いよく閉めてカギをかけ、玄関のたたきに崩れ落ちるように座り込んだ。
息が切れ、心臓が破裂しそうだ。
(……落ち着け。冷静になれ、小野寺浩一……)
頭を抱えながら、必死に自分に言い聞かせる。
─そうだ。
やみくもに悲観するな。
絶望するんじゃない。
どんな逆境でも思考を止めず、現実を受け入れて次の一手を考える――これこそが俺の根幹にある強みだ。
激動の時代を泥臭く這いつくばって生き抜いてきた昭和育ちの試練が、この強靭なメンタル基盤を作ったのだ。
(……よし、状況を整理しよう)
─現状はこうだ。
俺は『イケメンお兄さんと猫ちゃんズ』のメンバーとして、一切の加工がない「素の中年男」のまま、猫の着ぐるみを着た姿で全国的に有名になってしまった。
……う、うん。落ち着けって。
ネガティブになるな。
物事には必ず光と影がある。いいところを探して、自分を納得させるんだ。
……えーっと、いいところ。いいところ……。
(……とにかく『就職』は成功した)
♢♢♢
「……本当、すみませんでした!」
峯岸は斜め45度で頭を下げた。
場所は、二人が奇跡的に再会を果たした、あの路地裏の個人経営の居酒屋だった。
「最初から、着ぐるみが似合う最高のおじさんを探していたんすよ」
「……なんだって?」
「人はですね、絶妙にアンバランスな構図にこそ強い『萌え』を感じるんすよね。一見絶対に交わらなさそうなもの同士の組み合わせに。例えば……そう、ミカンとサンマ! ネズミとモグラ! 正反対じゃない。でも、なんか合いそうにない。─ここがポイントっす!」
「(……合うわけないだろ、どれも……)」という俺の心のツッコミを無視して、峯岸は熱弁を続けた。
「そこで! 『圧倒的イケメン』と『泥臭いおじさん』! この極限の組み合わせっすよ!そこにさらに『猫』という最強のコンテンツを掛け合わせて化学反応を起こさせる!……これが俺の狙っていた戦略だったわけっす!実際、狙い通りの大反響じゃないですか。ここで声かけられた時、正直めんどくせぇのに見つかったな、と思ってました。でも、ピーんときたんす。小野寺さんはまさに、俺が求めていた『完璧な典型的一般おじさん』だったわけっす。でも……最初からそう言ったら絶対に引き受けてくれなかったでしょ?」
「当たり前だろ!!それにお前、加工するって話はどうなったんだ?」
「…嘘っすね」
「!!…っじゃあ、他のメンバーと会わないで別撮りっていうのは?」
「それも嘘っすね」
「…お前っ!!」
掴み掛かろうと前のめりになると、
「でも! 結果は大・成・功! 動画の再生回数やファン数の伸びは指数関数的で、正直俺もここまで跳ねるとは思っていませんでした。全部小野寺さんのおかげっす!」
「……う、まぁ……うん」
そこまでストレートに感謝と成果を並べられてしまうと、ぐうの音も出ない。
「掴みはバッチリ大成功っす。あとはこの勢いのまま、さらにファン層を広げて人気を不動のものにするだけっすよ。俺がついてるんで、絶対大丈夫っす!」
「……そ、そうか……?」
完全に丸め込まれている気はする。
…するのだが。
スマホを開くとタイムラインに流れる『猫ちゃんズ』の切り抜き画像。検索ワードの上位に入っている「小野寺浩一」。街で浴びせられる黄色い声。
実際の数字と世間の熱狂を目の当たりにしている以上、あながち間違っているとも言い切れなかった。
「……分かった。それなら……あらためて、よろしく頼む」
俺はジョッキを置き、元部下に向かって真っ直ぐに頭を下げた。
♢♢♢
それからは、目が回るような多忙な日々が始まった。
まずは毎日のハードなトレーニング。
『猫ちゃん』としての柔軟な動きと体幹、そして何より40代の体に鞭打つスタミナ作りだ。
俺は毎朝近所をきっちり1時間ランニングした。家に帰り、汗を流した後はリンパにそって全身をマッサージ。ストレッチもした。
峯岸が作曲したヘンテコな曲「にぼしサイコー」に合わせたダンスの練習。
ニャアニャアにぼし♡
ニャアニャアにぼし♡
まだかな、まだかな、お兄さん♡
好き好きサイコー♡
に♡ぼ♡し!
「ニャアニャア」でお兄さんに『おいで、おいで』の動きをし、「にぼし♡」のところで手でハートを作って腰を振るのだ。
峯岸の狂気じみたセンスの無い曲に乗って可愛い猫ちゃんポーズで踊る45歳の小野寺浩一。
今更文句を言ってどうなるのだ、と自分に言い聞かせて必死で鏡の前で「ニャアニャア」と練習した。
練習の合間にエステにも通った。
週に一度の美顔のためのエステと、歳ならではのたるみをふせぐための、月一の特別なケア。
なにせ「完全無加工」でアップされるのだ。おじさんなりに、毛穴の目立たない美肌と清潔感を維持しなければファンに失礼にあたる。
「可愛い」猫ちゃんでなければならないのだ。
流行りの基礎化粧品なんかも買って、風呂上がりに試したりもした。
機能に沿った美顔アイテムなんかもたくさんあって、なかなか興味深い。
アイドルとして忙しい日々の中、俺はこうしたトレーニングと美肌維持に努めた。
そしてもう一つの重要なタスクがあった。
『本物』の猫ちゃん――事務所の「アイドル」であるにもかかわらず、ネジとクギは専属のマネージャーというか、管理する人間がおらず、なぜか俺が世話をしている。
幸い俺のアパートはペットを飼うことが出来る。
でも最初は戸惑った。
動物なんか飼ったことがなかった。
─エサは何をやればいいんだ?
トイレは?寝床は?
何も分からなかった。
しかし時代は便利なもので、分からないことはスマホで調べればいいのだ。なんでも教えてくれる。
「ネジ、クギ。さあご飯だ。新商品の猫缶だぞ」
「爪が伸びたか?専用の爪切りは確かこの引き出しに入れておいたはず…」
「今日は撮影が長引いて疲れたか?よく寝ろよ」
「あ、こら。壁を引っ掻くんじゃない!」
「ニャーニャー」
「ナーゴナーゴ」
ネジとクギとの触れ合いは癒しの時間だった。疲れていても、モフモフの愛くるしい姿を見ると体が軽くなるようだった。
そして俺は彼らの気まぐれな仕草や柔らかい体の使い方を観察し、内に秘めた「真の猫ちゃん魂」を養うことにも余念がなかった。
もともと俺は真面目な努力家だ。「アイドル」をやると決めたからには出来ることは徹底的にやった。
主な活動場である動画生配信では、ファンからの「投げ銭」をいかに引き出すか、画面映りの構図や「あざとい手招き」「首の傾げ方」まで研究し尽くして挑んだ。
コメントも一つ一つ読んで、個人的に送られたものに対しては全て返信した。
内容は全体的には好意的なものが多かったが、当然だが僅かにアンチもいた。
万人に好かれるのは不可能だ。だからこのような変数にいちいち落ち込む必要はない。
大切なことは、自分の立ち位置を維持することだ。
「イケメンとおじさん」というシュールな組み合わせがウケたのは、インパクトの強さと、峯岸の言う「化学反応」がうまくいったのは確かだろう。
だが、人気を一過性のものにしてはいけない。
何を求められているのかを、探求し続けなければならないのだ。
近所を歩くと声をかけられた。
「小野寺浩一さん、お散歩ですか?」
「はい、にゃあ!」
俺は「猫ちゃんズ」の決まりポーズ(手でハート)で答える。
買い物先でも声をかけられる。
「小野寺浩一さん、いいサンマが入りましたよー」
「ニャア!買うにゃ!」
「小野寺浩一さん」
「小野寺浩一さん」
フルネームで呼びかけられる。
猫の真似をしながら返事をする45歳。
「イタい」と「愛らしい」のギリギリを攻めるところに魂を注ぐ。
(俺はアイドル。ネジとクギ、俺。おっさんアイドル『猫ちゃんズ』)
俺の人生は数字を追っていたあの頃からは考えられないくらい………変わった。
♢♢♢
今日はスタジオでダンス動画撮影だ。
あのカオスなテーマ曲「にぼしサイコー♡」に合わせて、俺たち『猫ちゃんズ』はお兄さんと踊った。
ニャアニャアにぼし♡
ネジとクギに挟まれ、猫手を振る俺。
『お兄さん』の尾崎は王子様のような完璧なスマイルで俺の動きに合わせて軽く揺れる。
ニャアニャアにぼし
まだかな、まだかな、お兄さん♡
尾崎が猫缶を揺らしながら俺の顔に近づける
好き好きサイコー♡
に♡ぼ♡し!
俺は尾崎に後ろから抱っこされながらにぼしに飛びついて、ハートのポーズを取った。
「はい、お疲れ様でぇす!」
カメラの向こうで峯岸がパチパチと手を叩いた。
「ニャー」
二匹の猫のどちらかが相槌を打つように鳴いた。
そして、ネジはゴロンと寝転がり、クギはペロペロ毛繕いを始めた。
「この後は移動してファンとの握手会があります。移動の準備をする間、お二人は休憩してください」
そう言って峯岸は慣れた手つきで機材を片付け始めた。
「小野寺さん、今日も最高でしたよ! お疲れ様でした」
尾崎が爽やかに声をかけてきた。
相変わらず全身から光が溢れ出ているような、一切の隙がない圧倒的美形。
「お疲れ様です、尾崎さん。尾崎さんがうまく合わせてくれるおかげですよ」
最初はあまりの眩しさに緊張してまともに目も合わせられなかったが、連日の撮影を経て、今ではこんな風にごく自然に会話ができるようになっていた。
「喉、乾いたでしょう。冷たいお茶をどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
尾崎がキャップを少し緩めたお茶のペットボトルを差し出してくれる。
単にイケメンなだけではなく、周囲への気配りも完璧で心底優しい。
─なるほど、トップアイドルと呼ばれる人間はこうあるべきなのだな……
見習わなければならない。
俺は上を向いてこめかみを人差し指でトントンとつつくと目を閉じた。
頭の中のメモ帳に記録するように。
「今、何したんですか?」
隣で座って休憩していた尾崎が興味深そうに聞いた。
「…あ、見られてしまいましたか。いや、恥ずかしいな。癖なんですよ」
「癖?」
「そう、今みたいにスマホでメモ出来る世の中じゃなかった時、出先で紙もペンもなかったらこうしてトントンって」と、俺はこめかみをつつき、「記憶するんです」と言った。
尾崎は目を丸くした。
「すごいですね」
「いや、そんなことないですよ。本当、カッコ悪いですよね、あ、でもこの方法ならセキュリティは万全です!データを盗まれる心配がありませんから」
「そうですね、でも忘れてしまったら意味がありませんけどね」
「そうか、ハハハ。確かに」
「ふふふ。その袋は?」
尾崎は俺の横に置いてある袋を指差した。
「あ、これはご飯です。ネジとクギの。そうだ、ご飯の時間だ。ネジー、クギー」
俺は足元にいた二匹を引き寄せると、袋から二つの皿をだした。
そして皿にそれぞれ別のエサを入れて二匹の前に置いた。
「こっちはネジのだぞ。お前はお腹を下し気味だから柔らかくて消化がいいやつ。クギは少し肉付きが良くなってきたからカロリー控えめのやつだぞ」
俺がそう言いながら猫にエサをやる姿を尾崎は静かに見ていた。
「小野寺さんが猫ちゃんたちの世話を?スタッフがしているとばかり思っていました」
「あぁ、なんか気がついたら俺がこの子達の面倒をみてましたね、ハハハ」
「そんな…。峯岸さんに僕の方から話してみます。アイドルにやらせる仕事の範疇を超えています。規約違反です」
「いや、大丈夫です。規約違反なんて、そもそも契約書なんて交わしてないですし」
「契約書を交わしてない?小野寺さん、それはおかしいですよ」
尾崎の視線の先には移動用のハイエースの横で峯岸が次の準備をしていた。
「ともかく、大丈夫ですから、給料も十分もらえてますし。ご心配ありがとうございます」
俺は尾崎に頭を下げると、峯岸のもとに歩み寄った。
「峯岸、今日の撮影はどうだった? 最近の動画のコメントも、かなり手応えがあると思うんだが」
「あー、そうっすねー」
「もっと画面映りとか動きで工夫すべき点があれば、遠慮なく言ってくれ」
「りー」
生返事を返した峯岸は、さっさと運転席に乗り込み、共同経営者である友人の武田とスマホで打ち合わせを始めてしまった。
(……もっと具体的なアドバイスやフィードバックが欲しかったんだがな……)
立ち尽くす俺の後ろ姿を尾崎は見ていた。
ネジとクギはお腹いっぱいで満足そうに「ニャア」とないた。
♢♢♢
「小野寺さん、少しお話があります。今夜、お時間ありますか?」
ある日、撮影がひと段落した頃、尾崎がすっと近づいてきて言った。
「あえ? あ、はい。ありますよ。どんな話でしょう?」
「詳細はそのときに。では、後ほど」
そう言うと、尾崎はいつもの涼し気な横顔を見せて去っていった。
◇
夜、指定されたカフェに到着すると、既に席についていた尾崎の放つ圧倒的なオーラに気圧されそうになった。
俺は軽く手を振りながら駆け寄る。
「遅くなってすみません! 衣装を脱ぐのに手間取ってしまって……」
「構いませんよ。僕も今着いたところですから」
5月の陽気に、あの全身毛皮の着ぐるみはあまりにも暑すぎる。
撮影で泥のように汗をかいたため、俺はおじさんなりの最低限のエチケットとしてシャワーを浴びてから駆けつけたのだった。
尾崎は俺の髪がまだ少し湿っているのに気づいたのか、優しく微笑んだ。
「あの衣装、相当暑いでしょうね」
「いやぁ、なかなか蒸れますね……って、あ」
尾崎の手元を見ると、カップの中のコーヒーは残りが少なく、湯気も一切立っていなかった。
先に着いてから随分と時間が経っているのは明白だった。
「……やっぱり、かなりお待たせしてしまいましたよね。すみません!」
「いえ、本当に気にしないでください。小野寺さんを待っている時間も、楽しんでいましたから」
(……なるほど。「待たせた相手を恐縮させない完璧な返答」。アイドルとはこう言うのか……勉強になるな。メモ、メモ……と)
脳内のメモ帳にしっかりログを記録しながら、トントンとこめかみをつつく様子を尾崎は面白そうに見た。
俺も店員を呼んでコーヒーを注文した。
注文を受ける若い女性店員の顔が、みるみる紅潮していくのが分かる。
言うまでもなく、隣に座る尾崎を意識してのことだ。
案内されたのはテラス席だった。
すぐ横は人通りのある歩道になっているが、通り過ぎる人々も尾崎の圧倒的造形美を目にして、誰もが僅かに目を見開いて振り返っていく。
圧倒的ビジュアル。
老若男女に通づる魅力。
優雅な身のこなしに上品な言葉運び。
我ら、「イケメンお兄さんと猫ちゃんズ」の人気は間違いなくこの『お兄さん』こと、正真正銘アイドルの尾崎の存在が核であることは間違いない。
尾崎ならビジュアルを要求されない別の職業であっても、その器用さや立ち振る舞いが身を助けてくれるに違いないと思わせる。
─そんな尾崎が俺に一体何の話があるというのだろう。
コーヒーが運ばれてくると、尾崎はゆっくりと切り出した。
「小野寺さん、アイドルを辞めて僕と一緒に新しい仕事を始めませんか」
「???」
「…すみません。結論を先に言ってしまいました。驚かせてしまいましたね」
「いや、…でも、どういうことですか?」
「僕たちは今成功していると思います。それは小野寺さんのおかげだと思っています」
「いいえ。それは違う。尾崎さんの人気ですよ。俺と二匹の猫は引き立て役ですから」
「小野寺さんのおかげです」
と、尾崎は繰り返した。
「僕は今の自分には、一時的な価値しかないと分かっています。『イケメン』と評されていられるのも、あと二年くらいでしょう。移り変わりの激しい世の中、価値観さえ変わらない保証もありません。正直、不安です。でも小野寺さんは…違う。…何というか…いつも全身でぶつかっていて、実直で、あざとさもなくて、そんな姿が人々の気持ちに刺さってるんです。社長の峯岸さんは誠実に見えません。そんなこともあって、僕はそう長くはこの仕事を続けないと思います。でもあなたとの仕事は楽しいんです。僕たちはコンビを組めばきっとうまくいくと思うんです。だから一緒に辞めて、アイドルではなく別の仕事を始めませんか」
これは驚くような話だった。
「イケメンお兄さんと猫ちゃんズ」の人気の核をお互い、相手だと思っていたのだ。
それだけではない。さっき、どんな業種でもうまくやっていけるだろうと考えていた、その尾崎本人から共同経営のオファーを受けているのだ。
尾崎は20代─いわゆる、Z世代と呼ばれる年代か。スマホと共に育ち、「いいね」のフィードバックで短時間で評価を得る生活が長期的な展望を見失わせているのかもしれない。誰もが羨む容姿を自覚して尚、冷静にリミットを見据える彼もまた、時代の洗礼を受けた悲しき同志なのだ。
確かに尾崎の言うように、峯岸は誠実な男とは言えないだろう。
俺も真っ赤な嘘で言いくるめられて働かされているわけだし。
でもアイドルグループを結成してこの半年の間、一度も給料が滞ったことはない。
毎月の給料明細を見ると、基本手当とは別に『猫ちゃんズ管理手当』として少なくない金額が上乗せされていた。ネジとクギの餌代や医療費が俺の持ち出しにならないよう全額会社経費で落とした上で、俺の世話の労力分まで手当にしてくれていたのだ。何も言わずにそういうことするやつなんだよ。悪いやつじゃないんだ。
俺はゆっくり口を開いた。
「せっかくのお話ですが……俺は断らせていただきます」
「え……?」
「俺は、やっと今の仕事にちゃんと向き合い始めたばかりなんです。最初は、おっさんがアイドルなんてバカバカしいと思いました。でも……汗を流した分だけ努力が報われるのを実感できるし、こんな俺にも温かい応援を送ってくれるファンがついてくれています。峯岸も…あいつ、軽そうに見えるけど、あいつのおかげで借金も返済出来たし。ネジやクギと戯れる時間も、心から愛おしいと思えている。だから……俺は今、この仕事を辞めたくありません」
自分でも驚くほど、はっきりとした口調だった。
尾崎は一瞬だけ意外そうに目を見開いたが、すぐにいつもの、どこか温かい笑顔を浮かべた。
「……分かりました。あなたの気持ちを尊重します。小野寺さん……あなたは」
尾崎は少し言葉を確かめるように、ゆっくりと、噛み締めるように言った。
「あなたが思っている以上に、ずっと魅力のある人ですよ。僕もまだしばらく続けてみます。改めてよろしくお願いします」
♦︎
俺はカフェを出て、ネオンが灯り始めた繁華街を歩いた。
ポケットに振動を感じ、スマホを取り出した。
画面には元妻、佳奈恵からのメッセージが表示されていた。
(佳奈恵…?)
俺は歩きながら画面に目を落とした。
『久しぶりね。わたし再婚したの。子供も元気よ。ところで、しばらく連絡取らない間にあなた有名人になって、びっくりしたわよ。もう笑っちゃう!頭の硬いあなたが着ぐるみ着て踊ったりしてるんだもん。でも、悪くないわよ。毎日タイムラインで流れてくるのを見ていたら、最近じゃ「可愛い」って思えてきたのよ。不思議ね。ただのおじさんなのにね。まあ、特別言うことはないけど、頑張ってね。気が向いたらまた連絡するから』
と書いてあった。
─あいつらしい。
俺はふふっと笑ってポケットにスマホをしまった。
すると再びポケットの中のスマホが震えた。
画面には「峯岸」の文字。
「はい、小野寺です」
『あ、小野寺さん? 次、有名YouTuberとのコラボが決まったんすよ。小野寺さん、泳げます?』
「……は?」
『向こうは看板犬を連れてくるんで、どっちが早く泳げるか、猫ちゃんズ代表として競うんすよ』
(……マジか……??)
45歳の中年男が、全身ふわふわの猫の着ぐるみを着て、本物の犬とガチンコで水泳勝負をする絵面を頭の中で想像してみた。
─相変わらずシュールが過ぎるだろ。
断る理由ならいくらでもあった。
――だが、さっき尾崎に啖呵を切った手前、ここで引くわけにはいかないだろう!
「……分かった。泳ぐよ」
『マジっすか! さすが小野寺さん! じゃ、よろしくっすー!』
ブツッと電話が切れる。
よし……明日のレッスンメニューに『水泳』を追加だな。
俺は脳内のスケジュール表に、こめかみをトントンしながら素早く新たな予定を書き加えた。
目が回りそうなほど忙しく、狂気と混沌に満ちた日々。
だが――なんとなく、楽しいじゃないか。
会社が倒産し、家庭も失い、人生のどん底で絶望感に苛まれていたあの夜。
まさか自分が猫の着ぐるみを着て、犬とプールで泳ぎを競う未来なんて、一体誰が想像できただろうか。
夜空を見上げると、腹の底からじわじわと、滲むように笑いが込み上げてきた。
――退屈しねえな、人生。




