第1話「はじめての旅」
その日、ぼくはデパートの真鍮色のレジの引き出しの中にいた。
生まれて間もないぼくは、まだ硬貨同士のぶつかり合いにも慣れず、袋の中で運ばれた記憶の余韻を、ほんのりと感じていた。
引き出しがカチリと開く。
レジ係の女性の白い手袋が、ぼくをひょいと摘み上げた。
カウンターの前に立っていたのは、スーツ姿の男性。紙袋に包まれた箱を受け取りながら、財布を開けている。
「お釣りでございます」
その声とともに、ぼくは男性の革財布の中へ滑り込んだ。中には古びた五十円玉や、使い込まれた十円玉が並んでいた。
「よろしくな、新入り」
そんなふうに笑われた気がして、ぼくは少し身を縮めた。
財布が閉じられ、外の光は消えた。
代わりに、男性の体温がじんわりと伝わってくる。
これが、ぼくの“最初の持ち主”との出会いだった。
財布の中で揺れながら、ぼくは持ち主の足音を聞いていた。革靴のコツコツという音が、やがて少し柔らかくなった。どうやらカーペット敷きのフロアに入ったらしい。
ふと、漂ってくる匂いが変わった。
バターの香り、ソースの香り、そして揚げ物の油の甘い匂い。そこは、デパートの大きな食堂だった。
やがて運ばれてきたのは、湯気を立てるナポリタンと、氷の入ったグラスに浮かぶ淡い緑色のクリームソーダ。
昼下がりの食堂は、家族連れの笑い声や食器の触れ合う音で賑わっていた。
食事を終えた男性が伝票を手にレジへ向かう。
「八百円でございます」
財布が開かれ、ぼくは指先で摘まみ上げられた。
初めての“支払い”の瞬間。
カウンター越しの女性の手に渡され、チャリン、と音を立てて木製の引き出しへ滑り込む。
そこで休む間もなく、すぐに引き出しは再び開いた。
「お釣りが二百円になります」
ぼくともう一枚の百円玉が揃って、白髪の高齢男性の手のひらに載せられた。
男性は隣の婦人に笑いかけ、「さあ行こうか」と小さく頷く。
二人の足取りはゆっくりだが、手はしっかりとつながれている。
ぼくはその温もりを感じながら、自動ドアの向こうの眩しい外光へと連れ出された。
通りのざわめきとバスの排気ガスの匂いが、ぼくを包み込んだ。




