好意の返報性
「悪意の返報性」の前日談です。
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日下部真由は、肌寒い秋の夕暮れを歩きながら、駅前のカフェに向かっていた。
遅れそうになった理由は単純で、仕事帰りに少し仮眠をとってしまったからだ。
それでも、いつもならあまり気にしないのに、この日はなぜか落ち着かなかった。
なぜなら、今日は荒木遼一と初めて二人きりで会う約束をしていたからだ。
仕事で同じ部署に配属されて間もなく、真由は遼一と雑談する機会が増えた。
初対面の印象は、どちらかといえばクールで話しにくそうな男性だった。
だが、いざ会話を交わしてみると、遼一は意外と柔らかな笑顔を見せてくれる。
それがきっかけで、お互いの趣味や休日の過ごし方など、自然と話題は広がった。
そして先日、「今度、仕事帰りにでも一緒に食事に行きませんか」と遼一が声をかけてくれた。
その一言に、真由は心が弾むのを感じた。
実をいえば、彼と話しているときの居心地の良さに、すでに魅力を感じていたのだ。
だからこそ、自分にとって大事な時間になるような気がして、この日の約束を心待ちにしていた。
だが、カフェに駆け込んだ瞬間、真由は少し緊張が顔に出てしまった。
遼一は、すでに窓際の席で待っていて、真由を見つけると軽く手を振ってくれる。
「すみません、少し遅くなって」
「ああ、気にしないで。
俺もさっき着いたばかりだから」
そう言って笑う遼一の表情は、どこか安心感を与えてくれる。
二人はコーヒーを頼んで、初めは職場の話で盛り上がった。
同僚のクセや、最近のプロジェクトの進捗状況など、普段の仕事の延長のような会話が続く。
けれども、真由の胸の奥では、もっとプライベートな話をしてみたいという思いが募っていた。
やがて、一息ついたところで遼一が切り出す。
「真由さんは、休日はどんなふうに過ごしてるの」
「最近は、家でのんびりすることが多くて……。
本当は、出かけたい気持ちもあるんですけど、一人で行くのはどうも億劫で」
遼一は、うんうんと相槌を打ちながら、少し考えるような仕草を見せた。
「じゃあ、よかったら今度一緒にどこか行ってみない。
美術館とか、映画とか、食べ歩きでもいいし」
真由は意外と積極的な提案に、頬を赤らめながら微笑む。
「ぜひ……行きたいです」
その日は、コーヒーだけでなく軽く食事もして、二人でゆっくり過ごした。
真由は、遼一とこうして同じ時間を共有していることが、何とも言えない温かさを伴っていると感じた。
帰り道、駅まで送ってくれる遼一は、改札口で立ち止まり、少し照れくさそうに言う。
「今日、一緒に過ごせて嬉しかった。
もしよかったら、また近いうちに会いましょう」
それに対し、真由は「私も楽しかったです」と返して、そっと笑みを浮かべた。
それ以来、二人は会社が終わるたびに連絡を取り合い、食事や散歩に出かけるようになった。
最初は共通の知人や仕事上の話題が多かったものの、次第に自分の生い立ちや将来の夢など、深い話を共有するようになる。
真由は、自分の話を真剣に受け止めてくれる遼一の態度に、安心を覚えていた。
そして、ふと彼の話に耳を傾けると、遼一もまた真由を信頼していろいろ話してくれているのがわかった。
ある夕暮れ時、二人は会社近くの公園を散歩していた。
ベンチに腰掛け、秋の冷たい風を感じながら、真由はつぶやく。
「最近ね、あなたといると落ち着くんです。
前は仕事が忙しくてバタバタしてたけど、あなたに会うと疲れを忘れるというか」
すると、遼一は少し照れながらも、素直に答える。
「俺も同じかも。
真由さんと話してると、やる気が出るし、心が軽くなるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、真由は胸が温かくなるのを感じた。
不思議なほど、相手が好意を示してくれると、自分もより好意を返したくなる。
これは心理学で言う「好意の返報性」というやつかもしれないと、真由は頭のどこかで思った。
もっとも、それがどういう理屈で生まれるかはよく分からない。
ただ、好きと感じてくれる気持ちを、もっと大切にしたいと思えるのだ。
それから数週間が経ち、二人の距離はさらに縮まっていった。
ふとしたタイミングで手を繋いだり、休日には一緒に遠出をしたりするようになり、周囲からは「いい感じだね」と茶化されることも増えた。
お互いに照れながらも、気持ちを確かめ合うように見つめ合う日々が続いていた。
そんなある日、真由は軽い風邪をひいてしまい、体がだるくて会社を休んだ。
自宅のベッドでうとうとしていると、スマートフォンが鳴る。
「大丈夫か。
熱は下がった?」
遼一の声を聞いたとたん、真由は胸の奥が安堵に包まれるのを感じた。
彼に弱いところを見せるのは少し恥ずかしいが、こうして気遣ってくれるのはありがたかった。
「ありがとう。
さっきまで熱があったけど、今はだいぶ楽になったよ」
夕方になると、遼一が買い出し袋を抱えて真由のマンションを訪ねてきた。
「本当は無理しなくていいのに」
真由がドアを開けて言うと、遼一は少し笑いながら袋からスポーツドリンクや栄養補給のゼリーを取り出す。
「気になって仕方ないんだ。
こうして誰かを心配するのって、自分でも珍しいけどさ」
それを聞いた真由は、胸がいっぱいになる。
お礼を伝えたあと、彼女は改めて自分の気持ちに気づいた。
彼が喜んでくれるなら、自分も何か返したいと思える。
その繰り返しが、どんどん二人の仲を深めているのだろう。
風邪が回復したあと、遼一は改まった様子で真由をディナーに誘った。
ふだん行かないような、少し高級感のあるレストランに戸惑いつつも、真由は綺麗めの服を選んで足を運ぶ。
店内は照明が落ち着いていて、静かな音楽が流れていた。
テーブル越しに見る遼一の横顔は、どこか緊張しているようにも見える。
コース料理を楽しんだあと、遼一は穏やかながらも真剣な表情で口を開く。
「こういうきちんとした雰囲気の場で、話したいことがあって。
俺、真由さんと一緒にいるときが一番自然体でいられるんだ。
ただ楽しいだけじゃなくて、お互いを大切にしたいって思える」
そこで一呼吸おいてから、彼は続けた。
「もし、これから先もずっと一緒にいられたらって思うんだけど……どうかな」
真由は、心臓がどくんと高鳴るのを感じながら、そっと笑みをこぼす。
「私も……同じ気持ちです」
言葉は短いが、その一言に込められた想いは大きい。
遼一もほっとしたように笑顔を見せて、真由の手を包み込んだ。
食事を終えて店を出たあと、夜風が少し冷たいことに気づく。
遼一は真由を気遣い、ゆっくり歩幅を合わせてくれる。
「寒くない?」
「ううん、平気。
あなたがそばにいるから、心はすごくあったかい」
冗談交じりのようでありながら、真由にとっては正直な気持ちだった。
好意の返報性――誰かに優しくされると、その人にも優しくしたくなる。
好きだと思われると、こちらも好きになっていく。
そうした感情の循環こそが、今の二人を支えているのかもしれない。
けれど、理屈はどうあれ、お互いを思いやる気持ちが募るほど、絆が強まっていくのを実感する。
その夜、真由は帰宅してからも遼一の言葉を何度も思い返していた。
「ずっと一緒にいたい」という願いが自分の胸にも芽生えていることを、今さらながらはっきりと認識する。
過去に何度か恋をしたことはあったが、ここまでお互いを大切に思える関係は初めてだった。
次の週末、二人は結婚を前提とした正式な交際をスタートさせた。
真由の両親にも挨拶をして、結婚式の話や新生活のプランについても少しずつ現実的に考え始める。
幸せな未来を想像すると、自然と笑顔がこぼれた。
そして、遼一はその笑顔を見るたびに、さらに真由のことを大事にしたいと思うのだ。
もちろん、結婚に向けては楽しいことばかりではなく、細かな準備やお金の問題など、話し合わなければならない事柄も多い。
しかし、そのたびに二人は率直に気持ちを伝え合い、時には意見が違っても相手を尊重しようとしていた。
そうすることで、さらにお互いを信頼できるようになる。
まるで、好意が循環しながら大きく育っていくようだった。
ある夜、二人で歩いた帰り道、真由はふと口を開いた。
「私、改めて思ったんですけど、あなたといるときの自分が一番好きかもしれない。
人を好きになると、こんなにも自分自身に素直になれるんだなって」
遼一は少し照れくさそうに笑い、真由の手を握る。
「俺もそうだよ。
こんなに人を大切に思ったのは初めてだし、相手を想えば想うほど、自分も大事にされてるって実感できるんだ」
夜空を見上げると、星の光がわずかに瞬いていた。
秋の冷たい空気が、二人の心を引き締めるようでもあり、不思議と温かさをもたらすようでもあった。
次の週末には、両家での顔合わせが待っている。
緊張もあるが、その先にある新しい生活を想像すると、不安以上に希望が湧いてくる。
好意の返報性――相手を想う気持ちが、また自分に返ってくる。
そして、それを受け取った側はさらに大きな好意を抱き、相手に返そうとする。
そうして二人の間に育まれる感情は、きっとこれから先も強く結びついていくのだろう。
駅の改札の前で立ち止まり、真由は名残惜しそうに遼一の顔を見つめた。
「じゃあ、また明日。
早く会いたいけど、お互い明日の仕事に備えないとね」
遼一は優しい笑みを浮かべ、彼女の手をそっと離す。
「うん。
また明日。
おやすみ」
真由は、こんな時間がずっと続いてほしいと思いながら、改札を通る。
ふと振り返ると、遼一が小さく手を振っていた。
その仕草に胸が温かくなる。
これから訪れるであろう小さな困難も、二人で支え合って乗り越えられる気がした。
そう確信できるほど、今の真由には揺るぎない想いが宿っていた。
あの頃の二人には、まだ知らないことがたくさんあったに違いない。
それでも、好意を抱けば抱くほど、互いを信じ、大切に思い合える。
そして、結婚へと進む道のりには、きっと数多くの笑顔と新しい発見が待っているはずだった。
好意の返報性。
それは、二人が共に歩む道を照らす、かけがえのない力になっていた。