磨り減る硝子-2
次の日あさ子は、いつも以上に気合を入れて登校した。それは結に言われた通り学級委員の仕事を分業しようと良夜に提案するためであった。
緊張からか物語にも集中できず、まるで雪降る夜を耐え忍ぶように縮こまるあさ子は両手を握りしめる。自身を落ち着かせるためゆっくり、深く呼吸をする。そんなことを繰り返していれば教室の人口密度は上がっていた。
「やぁ! みんなおはよう!」
——来た!!
下に向けていた顔を上げ良夜の方へ体を向ける。昨日の朝のように良夜は人の波を縫って自身の席までやってきた。
「お、おはようござい、ます!」
あさ子から挨拶されると思っていなかった良夜は目を丸くした。それから柔らかく目尻を下げ笑う。
「佐藤さん。おはよう」
それは穏やかな、春の木漏れ日のような声であった。
「あ、あの!」
「? どうしたんだい?」
不思議そうに首を傾げた良夜は、静かにあさ子に言葉の続きを促した。あさ子は良夜の夜の海のような穏やかさに、自覚していた緊張が溶けていくのがわかった。
「が、学級委員の仕事なんですけど」
「うん? 僕がなるべくすべてやるとも」
「違くて!」
次の言葉を紡ぐことができず、口をもごもごと動かすあさ子は「分業したい」の一言が言えないでいた。
「わかったよ」
「え?」
急になにかを理解した良夜の言葉にあさ子は目を見開いた。
「続きはお昼休みにしようか」
「え? 昼休み?」
「そうとも! ゆっくり食事をしながら話をしよう」
まるで名案とばかりに良夜は「そうだ、そうしよう!」と手を叩いた。
「それにもうすぐ先生も来るだろうしね」
良夜の言葉と同時に前のドアが開き田沼が入ってきた。
「は~い。お前ら席につけ~」
今日も今日とて気だるそうな田沼は一周回って元気そうである。田沼を視界に入れた後に、良夜に視線を戻せば「ね!」と笑った。
「それじゃあ、またお昼休みに」
あさ子は辛うじて頷いた。
聞こえる【助けて!】の言葉に、私が助けてほしい! と叫ぶのを堪えて席についた。
なんとか迎えたお昼休みの始まりに良夜はあさ子に声をかけた。
「佐藤さん、僕についておいで」
蜘蛛の糸のような細い声はあさ子の耳をくすぐった。席を立った良夜はまるで蝶のようにひらひらと人を躱して進んでいく。あさ子は置いていかれないよう良夜の背中を追った。
辿り着いた場所は———屋上だった。
「屋上って入っちゃダメ、ですよね」
広がる青色の空と同じ顔色をしたあさ子の声は震えている。
「うん。そうだね」
あたりまえのように質問を肯定した良夜の姿が堂々としていて、朝の挨拶のような気軽さがそこにあった。
「え? そうですよね? 入ってはダメですよね?」
「君の言う通り、入ってはダメだね」
焦るあさ子の同じ質問も、同じように答えてみせた。
「なんで屋上の鍵を持ってるんですか?!」
至極当然の質問に良夜は大きな声を上げて笑った。その姿にあさ子は不愉快さを隠すことなく眉を寄せた。
「あぁ、すまないね! いい反応だったものだから———それで、鍵を持っている理由だっけ?」
「そうです! なんで持っているんですか?!」
「んー教えてもいいけど、簡単に教えるのはつまらないからなぁ」
「つ、つまらないって……」
良夜の言葉に呆れつつも、自分が悪いことをしている事実に鼓動が速くなっていく。
「そうだ! 同い年なんだし敬語、やめてくれないかな」
「え“……」
良夜の提案にあさ子の息が詰まる。
「いきなりは無理だろうから、少しずつやめてくれたらいいよ」
「そ、それなら」
良夜の譲歩にあさ子は首を縦に動かした。
「うん! ありがとう。それで理由だったね、去年先輩にもらったんだよ」
「もらった」
「そうとも! 生徒の間でこっそりと受け継いでいっているのさ」
「はへ~」
間抜け面を晒すあさ子に微笑みながら良夜は「このあたりで食べようか」と陽のあたる場所に呼んだ。
あさ子は持ってきた弁当を広げた。2段弁当の1段目は白米が、2段目には色とりどりのおかずが詰まっている。
「わぁ! とてもおいしそうだね!」
良夜はあさ子のお弁当を見て賛辞の声を上げた。
「あ、ありがとう」
「自分で作っているのかい?」
「ゆ……母が作ってくれるんです」
「へぇ……素敵なお母さまだね」
良夜の髪の毛がさらりと揺れた。
——これが恋愛ものなら私は自分で弁当を作っていて、明日から二人分作るルートだった……
あさ子は会話を続けるために、良夜に声をかける。
「佐藤くんはお昼ご飯持ってき、た?」
「もちろんだとも!」
あさ子に見せるようにビニール袋を揺らして見せた。ビニール袋からはおにぎりが一つだけ出てきた。
「え? 一つだけ?」
「ん? そうだけど?」
おにぎりが一つだけ。ちなみに具は焼き鮭だ。海苔は味の海苔と記載されている。不思議そうなあさ子に、不思議そうに返した良夜。数秒の沈黙を破ったのはあさ子であった。
「た、足りないよ! 絶対に足りないよ!」
「いやいや、大丈夫さ」
「うそ、嘘だ!」
あたふたとするあさ子に「大丈夫なんだけどなぁ」と溢した声は届かない。
あさ子は自身の弁当の中身を見てひらめいた。
「ピック! ピックがついてるやつ食べて!」
「えぇ?」
困惑する良夜なんて映っていないのか、ぐいぐいと弁当を押し付ける。
「食べて! 食べてください! いや、食べろ!」
圧が強すぎである。これには良夜も驚きを隠せず「ちょっと!」と大きな声を上げた。
「あ、す、すみません!」
良夜の声にあさ子はびくりと体を強張らせた。自分の行動が悪かったと、焦っていた気持ちが冷静になっていく。
「んー……それじゃあ、一つもらってもいいかい?」
その言葉にあさ子の萎れた気持ちは、みるみるうちに回復した。下がるのが早ければ、上がるのも早い——いいことである。
「ありがとう」
「押し付けてしまってすみません。でも受け取ってくれてありがとうごいます」
それから二人は少し気まずくも、心穏やかに食事を楽しんだ。
「さて、本題だ」
良夜はあさ子に朝の続きをしようと持ち掛ける。あさ子は朝の緊張を思い出し、お腹がちくちくと痛みだした。
「学級委員について、思うところがあるんだろう?」
確信したような声だ。だけど少しだけ考えていることがずれていることにあさ子は気がついていた。
「あの、分業したいんです」
「分業?」
——い、言えた!
良夜はあさ子の発言を不思議そうに繰り返した。
「うん。例えば授業の始まりの号令は佐藤くん、終わりの号令は私……みたいな」
最後の方は自信が無くなったのか言葉が小さくなっていく。口を閉ざした良夜にあさ子は言葉を続ける。
「いくら無理やり学級委員にさせられたとしても、それでもできることがあれば公平にやりたいんです……ダメ、かな?」
あさ子の言葉に良夜は少しだけ驚いた顔をした。けど本当に一瞬だけで、すぐにいつものように穏やかに笑った。
「ん~~。そこまで言われると、反対に断る方が失礼だね! うん! 二人でやっていこう!」
楽しそうに右手を差し出した良夜にあさ子は首を傾げた。
「握手だよ。佐藤さん」
「あ、はい」
あさ子は恐る恐る手を重ねる。触れた良夜の掌は冷たかった。でも、その大きな掌はあさ子の小さな手を包みこむ。
「……佐藤さんの手は温かいね」
「そ、そうかな?」
「あぁ、そうだとも」
その言葉には冬の澄んだ空気のような透明さと、美しさがあった。あさ子は少しだけ、ほんの少しだけ肺が痛む冷たさを思い出し指先に力を入れた。
「あ! 僕からもお願いが1つ、いいかな?」
「な、に?」
「僕たち同じ佐藤だろう?」
——ま、まさか。
あさ子は次に来る言葉の予想ができた。できてしまった。
「佐藤さんのこと名前で呼んでもいいかい? 僕のことも気軽に良夜って呼んでくれ」
——しょ、少女漫画のような展開!! どこにも需要ないよ!!
「わ、たしの名前は好きなように……」
「わぁ! ありがとう! じゃあ早速、これからよろしく! あさ子さん」
「よ、よろしく……佐藤くん」
良夜に名前を呼ばれたあさ子は顔は赤く……いや青くして手を離そうとしたが、良夜は離れないように力を込め引き止めた。
「ひぃ……」
「ほら、僕の名前も呼んでよ。あさ子さん」
これ見よがしに名前を呼ぶ良夜にあさ子は、青い顔をさらに青くする。
「さ、佐藤くん、て、離して」
「んーー? なにも聞こえないなぁ」
わざとらしく笑う良夜は、あさ子の反応を楽しんでいる。
——だから! 需要なんてないんだよ!!
あさ子の心は嵐のように荒れ狂っていたが、気を静めるように深く細く息を吐き出した。
「りょ、良夜くん。手を、離して」
「んーーー。まぁいいよ」
あさ子の言葉を聞いてパッと手を離した。
—―い、いけめんこわい……
良夜は立ち上がり、また右手を差し出した。あさ子はもう一度差し出された掌に首を傾げる。
「そろそろ、お昼休みも終わるからね」
「あ、そうか」
あさ子は良夜の言葉に納得をして立ち上がった。良夜は立ち上がったあさ子に対して、声を上げて笑う。
「あははは!」
「えっ!!? なに!!?」
「いや、いいんだ! 君は、うん。あさ子さんらしいね」
「なにが!!?」
「気にしないでおくれ」と言いながら扉を開け、先に出るように促す良夜に従い不思議に思いながらもあさ子は良夜にお礼を言い屋上から室内へ入った。
良夜は忘れずに屋上の鍵を閉め、二人は一緒に教室へ戻っていた。
ちなみに、あさ子が2度目に差し出された右手の意味に気づいたのは寝る前である。